短編:冒険譚のその後の話

田原 更

第1話:嘘

 ヨランダは野原に咲いたすみれの花を見つめていた。すみれの花はお前に似ている、と言ったあの人のことを思い出していた。

 ヨランダはすみれの花を摘んだ。柔らかな香りが広がった。実をいうと、ヨランダはすみれの花があまり好きではなかった。地味で、小さくて、目立たない……。

「本当、私にそっくりね」

 ヨランダは自嘲気味に言うと、すみれの花を花かごに入れた。辺り一面、すみれの花ばかり。ヨランダは一輪一輪、丁寧に摘んでは、かごにいれた。日が高くなるまで、ヨランダはすみれを摘み続けた。

「もう、充分ね。そろそろ帰りましょう」

 すみれの花はかごからあふれそうになった。紫色の野原は、すっかり緑色に変わった。


「ただいま帰りました」

 ヨランダは家の扉を丁寧に閉めた。

「お帰り、ヨランダ」

 ベッドに横たわる老人が、ヨランダの帰りを待っていた。ヨランダは花かごをテーブルに置くと、老人の頭に載ったタオルをそっと取った。ヨランダは外に出て、井戸の水を汲み、たらいに水を移し、タオルを冷たい水にひたした。それをぎゅっと絞り、再び老人の元に戻った。ヨランダは老人の額に手をあて、熱さを確かめると、冷たいタオルを老人の額に置いた。

「まだ、熱は下がりませんね……」

「大人しく寝ていれば、そのうち治るじゃろう」

 老人は元気よく……いや、元気よく見せようと、無理して張りのある声を出した。

「やはり、お医者さまを呼びましょうか?」

 ヨランダは心配そうに老人の顔をのぞき込んだ。

「いや、いい。ヨランダよ……人には、時期というものがあるのじゃよ」

「時期?」

 ヨランダは首をかしげた。

「そうじゃ。わしはそろそろ、天へ召される時期じゃ。このまま、神が定めた天命を全うしたいのじゃ。さっき、わしは嘘をついた。わしの熱が下がらんことは、わし自身が一番よくわかっている。お前を心配させたくなくて、嘘をついたのじゃが、わしは嘘をつくのが苦手じゃな。すぐに本当のことを言ってしまう」

「おじいさん。そっちの方が、嘘でしょう? 寝ていたら、治るのでしょう? さあ、もう寝てください。そして早く、元気になってください」

 ヨランダは目に涙を浮かべた。老人はヨランダの頭に手を置いた。

「ヨランダよ。お前にも時期が来たはずじゃ。いつまでもわしに縛られず、どこでも好きなところへ行くとよい」

「嫌です……」

 ヨランダの目から涙があふれた。

「おじいさん。私はここが好きなのです。大きな山に抱かれた、広い野原の広がる、この美しい景色が。おじいさんと暮らすこの家が。私は旅に出かけて、色々な場所を見てきました。だけど、この世のどこにも、ここに勝る場所はありませんでした。私の帰るところは、ここなのです。おじいさんの元なのです。だから、私を置いていかないで……」

 ヨランダは老人の胸元に顔を埋めて泣いた。老人はヨランダの頭を優しくなでた。

「ヨランダ……すみれの花のような、控えめで優しい子。お前はその通りに育ってくれた。わしの自慢の孫娘じゃ。お前は神さまがわしに授けてくれた、最高の贈り物じゃ。じゃから、お前には幸せになってほしいのじゃよ」

「私は幸せです。これ以上なく幸せです。ここにいることこそが、私の幸せです。そうです、おじいさん。今日はすみれの花を摘んだんですよ。すみれの花の砂糖漬けを作ろうと思って。おじいさん、好きでしょう?」

 そう言うとヨランダは、ぽん、と手を叩いた。

「そうだ、去年作った分が、まだ少し残っているはずだわ。おじいさん、一緒に食べましょう。甘いものを口にすれば、きっと元気になりますよ」

 ヨランダは戸棚に向かい、保存食の並んだ瓶の中から、ほとんど空っぽになった瓶を一つ取りだした。それを持って、ベッドに戻った。

「はい、おじいさん、どうぞ」

 ヨランダはすみれの花の砂糖漬けを一つ取り出して、老人の口にそっと近づけた。老人は静かに首を振った。

「ヨランダ……どうして、あの男と一緒に行かなかった?」

 老人はヨランダを真っ直ぐに見つめた。

 ヨランダには生まれつき魔法の力が備わっていて、その力を買った男二人と旅に出たことがあった。男二人は王国の姫に仕える兵士で、魔王に呪われた姫を救うために城を立ったのだ。ヨランダはそのうちの一人を愛してしまった。愛していたから、彼について旅に出たのだ。途中で女一人が加わり、道中はとてもにぎやかだった。老人と二人暮らしのヨランダにとっては、魔王を倒す冒険よりも、道中の何気ない会話のほうが、よほど刺激的だった。魔王を倒して、姫は救われた。兵士の一人は、旅を気に入り、もう一人の女とともにそのまま冒険の旅を続けている。

「どうしてって、おじいさん。あの人には他に好きな方がいるんですよ」

 ヨランダは微笑んだ。静かで、悲しい微笑みだった。

「あの人は、すみれの花が好きだとおっしゃってくれました。けれど、本当に好きなのは、ゆりの花です。華やかで、気高い、ゆりの花。私とは違うんですよ」

 ヨランダはため息をついた。ゆりの花、リリアン姫は、ヨランダなど足下にも及ばぬくらい、美しい人だった。幼少期から城で暮らしていたあの人と、リリアン姫の間には、幼いころから二人だけの秘密があったらしい。その間に、自分が割って入れるとは、とても思えなかった。だから逃げ出した。しかし……。

「そうじゃったのか。すまんのう。おかしなことを聞いて」

 老人は申し訳なさそうに口を開いた。ヨランダは首を横に振った。

「もう過ぎたことです。さあ、もう休んでください。私はこれから、すみれの花の砂糖漬けを作ります。こんな古いものではなくて、新しいものを食べましょうね」

 ヨランダは古い砂糖漬けを瓶の中に戻し、老人の布団をかけ直した。老人はふうっと息をついて、そっと目を閉じた。


 新しい砂糖漬けが出来上がる前に、老人はこの世を去った。二人暮らしだったから葬儀は行わなかった。ヨランダは自ら老人を埋葬し、墓標を立てた。

 生活が少し落ちついた頃、ヨランダはあの日のことを思い出して、古い砂糖漬けの瓶を開けた。そして、老人が食べてくれなかったすみれの花の砂糖漬けを口に入れた。

「すみれの花はお前に似ている」

「俺はすみれの花が好きだ。今、それに気がついた。都で共に暮らそう。ご老人のことは、ここに引き取ればいい」

「嫌です。私の帰るところはあの山の麓です。おじいさんも、今さら違う土地で暮らせるはずがありません」

「なら、俺がそこで暮らす。ともに生きよう。俺はお前が好きなんだ」

「違うわ! あなたが愛しているのは、リリアン姫ただ一人。姫様がご結婚されるからって、代わりに私を選ぶことなんかない! 私に姫様の代わりは務まりません!」

「違う! お前は姫様の代わりではない! 本当にお前のことが……」

「あなたは都で生きるべきです! 私とあなたでは、はじめから、住む世界が違うのです!」


 口の中に、砂糖の甘みと、すみれの花のほのかな香りが広がった。

「甘い……」

 そう言って、ヨランダは、静かに涙を流した。



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短編:冒険譚のその後の話 田原 更 @kou_tahara

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