第二十二話 せめてこの約束だけは・二

 それを辰臣は影で抱き留めて黒天狗に返した。さらに己の力も追って放つ。

「!」

 とっさに通力で防ごうとしていた黒天狗だったが、二種の力を重ねて叩きつけられてはさすがに無理だったらしい。築いた壁は一瞬にして崩れ、黒天狗を吹き飛ばした。

 辰臣が羽ばたいて追うと、黒天狗は崖から先まで吹き飛ばされてようやく上空に留まった。血が流れる片方の肩を抑え、苦痛で顔をゆがめる。

 それでもどこか嬉しそうだった。

「さすが天来の‘影繰り天狗’……あのときと変わらずだな」

「……」

「あのときもこうして、お前とあの白天狗で殺しあった。結果私は敗れたが、お前を死の淵に追いやることができ……おかげで私の名はこの国の妖どものあいだに知られるようになった」

 つまり、と黒天狗は口の端を吊り上げた。

「お前を殺せば、この忌々しい呪を解けるばかりか、私の名も上がるというわけだ……!」

 黒天狗の口の端が吊り上がった。禍々しい気配を放つ光の球がまたいくつも生まれる。

 だが、黒天狗は辰臣を直接狙わなかった。

 黒天狗の合図で放たれた光の球は、辰臣の左右を通り過ぎようと駆けていく。

 もちろんさせるはずがない。辰臣は屋敷を覆う影を繰った。自在に伸びる盾と成し、光の襲撃に立ちふさがる。

 ――――が。

「――――っ」

 辰臣の身体にずんと重しがのしかかった。鈍い衝撃が身の内に走る。

 光のせいか……っ。

 辰臣は一瞬で理解した。屋敷を覆う影に意識を半ば繋げているために、飲みこんだ光に影が焼かれてしまったのだ。影を刃と成す身ゆえの弱点だった。

 辰臣が見せたわずかな隙を逃す黒天狗ではなかった。辰臣が息を詰めた一瞬に、懐へと飛びこんでくる。

 突き出された刀が月光を返して白く輝いた。

「……っ」

 力を繰りだす余裕もなく、辰臣がとっさに我が身を庇った腕に痛みが走った。黒天狗の黒くぎらついた目が、愉悦に輝く。

 辰臣の腕に突き刺された刀がぐりとひねられた。腕に走る痛みが眼球どころか脳天まで貫くような、言いようのないものに変わる。息が詰まる。

 ふざけるな。生への妄執に囚われた外道が――――!

 怒りが辰臣の胸で燃えた。

「…………来い」

 怒りを押し殺した低い呟きが、辰臣の唇からこぼれた。

 その、呪詛のような響きが空気に溶けた瞬間。場の空気が一変した。

 静寂の中に怒りと、それ以上の力と異質で声にならないざわめきの気配が一瞬にして場の隅々にまで息づいた。生者にけして馴染まないもので満ちた空気が充満する。

 ――――賽の河原の空気。

 だがそれは屋敷を囲む影や奥深くから漂ってきているのではない。

 辰臣の身から生まれているのだ。

 それを理解できないはずもなく、黒天狗は薄笑いの質を変えた。驕り高ぶった色が警戒と緊張で研がれた刃になる。

 だがもう遅いのだ。遅すぎる。

 辰臣が前を見たまま己の影に意識を向けた途端、木々を蹂躙する光の球が一瞬にしてすべて弾けた。昼夜が逆転したかのような地上の明るさが失せ、辺りは月だけに照らされた夜の影と闇に再び包まれる。

 さらに。

「なっ……!」

 黒天狗は驚愕で目を見開いた。辰臣の背後に鎮座する影が伸び上がり、辰臣の左右から、大波のように黒天狗に襲いかかったのだ。

 何を驚いている。俺を‘影繰り天狗’と呼んだのは他ならぬお前だろうに。

 辰臣は荒ぶる星の神にかつて仕え、星に乗って地上へ下りてきた天来の天狗の息子なのだ。星の神を征服しようとする天上の神々に退かなかった父の力と翼の色も受け継いだ。傲慢の果てに人間であることをやめた外道とは格が違う。

「くそっ……この化け物が!」

 黒天狗は吠えた。首に提げた飾りを引きちぎって錫杖と成すと一度振り、もう一度振って光の球を周囲に侍らせる。

 光の球は眩く周囲を照らし、黒天狗から影を遠ざけた。それを機と見たのか黒天狗は光の球を周囲に侍らせると、辰臣に突進してくる。

 無駄なことを……。

 影の大波は発せられる光などものともせず、飛んで逃げようとした黒天狗を飲みこんだ。黒天狗はそれでも飲み込まれずに済んだ上半身でもがき、光の球を次々と生みだす。

 だが異界の影は黒天狗のあらゆる攻撃を飲みこみ、辰臣へ光の球を一切近づけさせない。

 もはや逃れるすべなどありはしない。辰臣はこの黒天狗の手下どもも先日、こうやって異界に取りこんだのだ。

 黒天狗に興味も失せ、辰臣は腕に突き刺さった刀を無理やり引き抜いた。

「――――っ」

 傷口を中心に激痛が広がり、全身を熱が駆けた。辰臣は歯を食いしばったがそれでも歯の間から苦痛の声は漏れ、顔がゆがむ。

 刀を放り捨て辰臣は背後を振り返った。屋敷に何一つ損傷がないのを確かめ、珍しく疲れがにじむ長い息を吐く。

 存外に手間どってしまった……。

 辰臣は胸中で舌打ちした。

 黒天狗は以前戦ったよりはるかに弱くなっていた。あの頃の黒天狗なら、この程度で吹き飛ばされても傷つくようなことはなかったはずだ。そのためこの屋敷やあの女、町を佳宗と二人で守りながら戦った辰臣は、黒天狗を弱らせて追い返すしかできなかったのである。

 しかし辰臣がかけた術は黒天狗がこの屋敷に立ち入れないようにするだけでなく、少しずつ身体をむしばんでいったようだ。だから執拗に‘白幻花’を狙い、先が長くないと感じた今になって、危険を冒してでもこの屋敷へ襲撃をかけてきたのだろう。結果として、賽の河原へ行くのが早まったのだが。

 なんにせよ、愚者を一人葬るには少々痛い損傷だったと言わざるをえない。幸運は、屋敷に損害がないことか。‘白幻花’は言うまでもないが、住み慣れた我が家を外道にくれてやるのも不愉快だ。

 ――――それに、この屋敷がなくなればうるさくなるに違いない者たちがいる。

「……」

 幼馴染みと人間の小娘の顔が脳裏をよぎり、辰臣は目元にしわを刻んだ。血まみれの辰臣を見た途端呆れる佳宗や、血相を変える登与が容易に想像できる。

 ……着替えるか。

 心の中で呟き、辰臣は奥座敷へ向かうことにした。不本意だが、先日佳宗に贈りつけられた素襖を着るしかない。

 だが、辰臣が中庭の上空へさしかかろうとしたときだった。

 空に光と気配が生まれた。真昼かというような明るい光と、異界のものとは全く異なる激しい気配。

 背後の黒天狗のものと似た――――。

「――――!」

 全身に何かが走り抜けて肌が粟立ち、辰臣はばっと空を見上げた。

 そして絶句した。星が一つ、夜空を飾ることをやめて落ちてきているのだ。

 それもこの周辺――――おそらくは屋敷めがけて。

「どうだ! いくらお前でもあれはどうにもできないだろうな!」

 辰臣の背後で黒天狗の快哉があがった。

 振り返ると、まだ影に飲まれきっていなかった黒天狗が喜悦の表情で辰臣を嘲っていた。辰臣はそれで、あの錫杖が星を呼んだのだと理解する。

 ぬかった――――。

 辰臣は舌打ちした。

 実際に天より降りてきたものでなくても、天来の天狗たちが伝える術を使えば星を降らせることはできるのだ。外道である黒天狗に秘術を教える天狗がいるとは思えないが、何事にも例外はあるもの。あるいは黒天狗自身が術を編み出したのかもしれない。

 だが濁世の天狗が星を呼ぶには、それなりの儀式が必要なはずだ。代償となる贄の魂も。だから秘術なのだ。

 ――――まさか。

 辰臣は凶悪な目で黒天狗を睨みつけた。

「あの町娘かっ…………!」

 黒天狗が町娘をさらったのはこのためなのだ。星を招き町か屋敷に落としてやると、辰臣を脅すつもりだった。結局は名声を得ようとして辰臣に戦いを挑み、敗れたから形成逆転を狙って発動させることになっただけで。

 黒天狗はにやりと口の端を上げた。やっと気づいたか、と言うように。

「これを解いて‘白幻花’を寄こせ。そしたらあれの方向を逸らしてやるよ」

 影に飲まれかけているというのに、外道天狗は強気だった。

 辰臣が迷ったのはほんの数拍だった。

 辰臣が腕を横に払った刹那、影が大きな口を開け、黒天狗を完璧に飲みこんだ。外道天狗が声をあげる間もない。

 何故と大きく目を見開いたのが、黒天狗が濁世で最後に成した動作だった。

 それを見届けもせず辰臣は星を見上げた。光は一層大きくなっていて、先ほどよりずっと近づいてきているのは明らかだ。

 屋敷か、あるいはその先の町か。ともかくこの辺りなのは間違いない。

 考えている時間などあるはずもない。辰臣は翼をはばたかせた。

 流星の威力は恐ろしいものだが、石自体はそう大きくない。手のひらで収まる大きさの石の破片程度ということすらある。

 ならば、石を受け止めるなり破壊するなりすればいい。いや、それしかない。

 星の軌道の上で静止して見上げると、もうそこは真昼の空も同然だった。視界のほとんどを降ってくる星の光が埋め尽くし、腕で顔を庇ってもほとんど意味を成さない。

 それでも辰臣は正面から顔を逸らさない。次第に大きくなる光に立ち向かう。

 この背後には墓がある。辰臣にとっての、いつ果たされるかわからない約束の場所が。

 だから必ず星を砕く。生きてみせる。

『きっとまた、逢いにきますから』

 愛した女の最後の言葉が辰臣の脳裏によみがえったそのとき。

 ――――‘白幻花’の香りが辰臣の鼻先をくすぐった。

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