第二十一話 せめてこの約束だけは・一

 水鏡の中に登与が消えたのを確かめ、辰臣は解放していた力を我が身に引き戻した。

 すると、庭に点在していた水鏡は次々と失せていった。宙に浮いた青白い灯火も消え、月光だけが庭を煌々と照らす。

 あとは自分でどうにかするだろう。あれでも術者の端くれであるらしいし、守りもくれてやった。これ以上助けてやる義理はない。

 奥座敷へ上がった辰臣は書院の違い棚に置かれている木箱の蓋を開けると、布に包まれていた小刀の刀身を取りだした。登与に押しつけられた巾着の紐を解く。

 それから少しして、辰臣は墓前に腰を下ろした。登与の供え物を見下ろして瞳を揺らし、何も持っていないほうの拳をぎゅっと握る。

 気持ちを落ち着け、辰臣は刀身を収めたばかりの白木の小刀を墓に供えた。

『見てくれだけは綺麗でしょう? 刀身のほうは、貴方が打ったもののほうがよっぽど綺麗ですけど。都の黒天狗にずっと閉じこめられていて腹が立っていたから、逃げるときに盗んでやったんです』

 そう楽しそうに笑いながら、あの女は持参した小刀を辰臣に見せた。黒漆に雲水などの金の文様が施されていて、刀身も優れた刀鍛冶が打った逸品だと一目でわかった。

『でも、こんなのが嫁入り道具だなんて嫌です。私を閉じこめていた黒天狗の物なんですもの。だから辰臣さん、私のために一振り打ってくれませんか? 一生大事にしますから』

 そんな頓珍漢なことを言って、あの女は小刀を辰臣にねだってきたものだ。

 当然辰臣は無視した。当たり前だ。嫁入り道具は嫁となる女が生家から持参するもの。そもそも辰臣は彼女と夫婦になると決めた覚えはない。

 そう、ただの居候だった。佳宗が寄こしてきた迷惑極まりない、面倒でうるさい女だった。

 それだけだったのだ。

「…………」

 数多の記憶をたどって、辰臣は心の中で呟く。なのに、こみ上げてくる感情は言葉の棘とはかけ離れている。胸の奥底から、衝動が喉へと突き上げてくる。

 そのせいで、辰臣の唇は自然と開いた。

「……お前が俺にねだっていた小刀だ。お前を黙らせられるならと打って渡すつもりでいたが、あの黒天狗が来てからごたごたしているうちに忘れてしまっていた」

 いや本当は、墓守をするようになってしばらくしてから思いだしてはいたのだ。だが今更だと思うと供えられなかった。

「……お前は、遅すぎますよと笑うのだろうが……」

 辰臣はそこで、一度言葉を切った。視線をさまよわせ、続けるべき言葉を口にするのをわずかでも先送りにしようとする。

 それでも言わなければならない。

「……こうして、お前の墓に供え物をする酔狂な者がいるからな。そのせいで思いだしてしまったからには、供えないときまりが悪い」

 そう言い訳する辰臣の視線は墓より少しだけ横にずれていた。表情にははっきりと、言いたくはないが仕方なくという心情がありありとにじみ出ている。

 当然だろう。お前と祝言を挙げると言っているのも同然なのだから。辰臣にとっては敗北宣言のようなものだ。

 まったく忌々しい……どうして俺がこんな思いをせねばならんのだ。

 視界に供え物ーーーー小刀と登与が置いたに違いない一本の簪が映り、辰臣はなんだか腹が立ってきた。

 辰臣の刀鍛冶としての生が町の昔話となって以後、石雪の町人たちは天狗夫婦の怒りを恐れて定期的に屋敷を手入れし、表座敷にある神棚に祈りと供え物を捧げてきた。登与が今助けにいっている町娘もそうだ。町人の誰一人として、辰臣とあの女の存在を知らない者はいない。

 だが辰臣に怒鳴ってきたり笑いかけてきたり、謝ってきたのは登与だけだ。

 毎日中庭の墓を清め、簪を墓に供え、手を合わせたのも。

 そのせいで辰臣は、墓の主に未だ小刀を渡していないことが後ろめたく思えてきた。

 しかもあの小娘、俺が意匠を指定していないのをいいことに好き勝手して……。

 辰臣は心の中で憤然と呟いた。

 登与は白木の鞘と柄に、よりによって花と羽根をあしらった彫刻を施していた。彫った花と羽根には淡い彩色もしてあって、華やかというよりも優しい装いだ。女が持つ道具と想定しているのは明らかだった。

 物の意匠に大して興味を持たない辰臣でも、この意匠があの女と自分を意味していることくらいはわかる。

 何故あの小娘は、これが女の持ち物になると気づいた? 俺は何も言っていなかったのに。

 気づかれた原因に心当たりがない辰臣は首をかしげるしかない。

 ただ、この小刀の彫刻を見たとき。贈る相手を知られた恥ずかしさで辰臣は思考が停止した。登与にも佳宗にも絶対に知られたくない醜態である。

 それでも。こうして供えて墓を見下ろせば、置いたばかりだというのに小刀はよく墓に馴染んでいた。ここに墓を築いたときからそこにあるような自然さで、小刀は簪と共に墓石を飾っている。

 馬鹿な話だ。嫁入り道具を墓に供えるなんて。せめて死の間際にでも枕元に置いてやればよかったのだ。

 そうすればきっと、怒ってばかりだった辰臣は初めて自分からあの女を喜ばせることができた。

 今ならわかる。認められる。あのとき、辰臣は冷静だったのではない。惚れた女が自分のせいで死のうとしている現実から逃げたのだ。そのせいで小刀のことを忘れ、今まで嫁入りを先延ばしにしていたのだ。

 己の愚かさを気づいたところで遅すぎる。辰臣があの女にしてやれることはもう、待つことしかない。

『また逢いにきますから』

 死の間際、埋葬の方法を辰臣に伝えたあと。彼女は辰臣に約束した。

『百年、私の墓のそばで待っていてください。きっと逢いにきますから』

 そう言った直後に彼女は死んだ。あっけない最期だった。

 そのあと辰臣は彼女の遺体を書院の違い棚に飾っていた太古の真珠貝で掘った土中に埋め、砕いた星の欠片を墓石にした。奥座敷の庭ではなく中庭の奥に埋めたのは、町を見下ろす中庭の奥を彼女が好んでいたからだ。日当たりがいいのも、彼女に相応しいと思った。

 そうして、辰臣は彼女が約束を果たす日をこの屋敷で待つようになったのだ。

 他にするべきことも、したいこともなかったから。

 何より――――彼女の言葉を信じていたから。揺らぐことがあっても、待つことの意味を問うことがあっても。それでも。

 もう一度、彼女に会いたいのだ。

 だから辰臣は、この約束の地を守らなければならない。

「……またあとで来る」

 そう言って辰臣は立ち上がると表へ向かい、屋敷の前に広がる影の中に立った。翼もしまわず眼前の景色を見つめる。

 それから、どれほどの時が経ったのか。

 ――――ばさり、と鳥の羽ばたきの音がした。

「――――ふむ、あくまでも渡さないつもりか」

「……」

 どこか侮蔑を孕んだ声が頭上から聞こえ、辰臣は顔を上げた。

 黒い翼をはばたかせたあの忌々しい黒天狗だ。登与が言っていたように、前回会ったときよりも随分年老いた容姿になっている。

 やはり来たか……。いい加減諦めればいいものを。

 辰臣の視線の鋭さが増した。感情を読みとってか黒天狗の気配が一層不穏なものになる。

「……‘白幻花’を寄こすつもりはないか」

「ないものはない。あいつが俺の傷を癒すために使い果たしたからな」

「っ嘘をつくな!」

 辰臣が告げる真実を無視し、黒天狗はわめいた。

「俺が何度‘白幻花’を使わせてもあいつは死ななかったし、‘白幻花’はなくならなかったのだぞ! お前一人の傷を癒す程度で、‘白幻花’がなくなるはずがない!」

「……」

 これ以上の問答は無意味だ。辰臣は目元に皺を刻むと、己の翼を羽ばたかせて飛び上がった。黒天狗と同じ高さで静止する。

 黒天狗の笑みがさらに凶悪なものになった。

「そうでなくてはな!」

 言うや、通力の波動が黒天狗から生まれた。

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