第十二話 それは大切なものだから

 朝。鳥の鳴き声で目覚めた登与は、しばらくぼんやりしていた。

 今日は何か夢を見た。意識がはっきりするほど記憶が薄れていく、もうどんなものだったのか曖昧な夢だ。

 けれど登与はその夢で、刀鍛冶が女と山中で寝転がっていたことは覚えていた。沈黙の合間に話をしていて、星が落ちていくのも見たのだったか。何を話していたのか、どんな女だったのかは思いだせない。

 でも、あの女の人が昔話の押しかけ女房さんなのは間違いないよね。あんなにお嫁さんにしてもらいたがってたし。

 その土地の過去にまつわる夢を見るのは、登与の術者としての才能の一つだ。というより、こちらのほうが術の才能より優れていた。育ての親たちにしごかれた術は使える種類も威力も大したことがないのに、この夢見は特殊な修行をしていなくても勝手に土地の記憶を登与に教えてくれるのだ。才能というのは不思議なものである。

 何にせよ夜の山中で女と二人きりとは、あの偏屈男も随分微笑ましいことをしていたものだ。登与は一人にやついた。あとが怖いので本人には到底言えたものではないが、こういう過去があったというだけでも怖い人物だとは思えなくなる。

 あくまでも少しだけだけどね! 調子に乗るとえらい目に遭うに決まってるし!

 半笑いで着替えを済ませ、登与は中庭を覗きこんだ。

 だが墓石の前に想像していた人影はなかった。崖の向こうに広がる青空と青い山々まで、遮るものは何一つない。

 これはちょうどいい。登与は墓石の前にしゃがみこむと、伸びてきていた雑草をむしっていった。

 登与は刀鍛冶が墓前にいないとき、朝餉の前になるべく中庭の草むしりをするようにしていた。墓の周囲や奥座敷のほうの手入れが日々されているものの、縁側に近いほうは日当たりがいいこともあってかすぐ雑草が生えてくるのだ。

 山道の土砂の撤去が終わるまでとはいえ、下宿先だしね。それにお墓まわりは綺麗にしとかないと。

 神社育ちで神霊を敬うよう躾けられ、旅先で怨霊にさんざんな目に遭わされた登与である。墓は綺麗にしておかないとあとが怖い、としか思えないのだった。

 草むしりはそう時間をかけずに終わった。抜いた草はまとめて木桶に放りこみ、墓石を水で濡らした手拭いで拭き、綺麗にしていく。

 仕上げも終えて立ち上がり、登与は大きく伸びをした。植木の周りにでも埋めて肥料にしようと、雑草を入れた木桶を持って歩きだす。

 ――――と。

「……?」

 中庭のほうから緩く風が吹いた。ざわと草木の枝葉が音をたてる。

 その風の中に、涼しく甘い匂いが混じった。

 ――――そしてかすかに異質な気配も。

「っ」

 登与の目が一気に鋭くなった。全身に緊張が走り、匂いが漂ってくるほうを睨みつける。

 しかし異界の影や空気は広がらない。あくまでも甘い匂いが漂うばかりだ。

 しばらくして風が止んだ。それと共に匂いは少しずつ薄れていく。

 てことは、危険なものじゃないってことだよね……多分。

 登与は少しばかり警戒を解いた。それでも完璧には失せず、中庭の奥から目を離さない。

 この中庭は何種類もの植物が植わっていて、いくつかの花は咲いている。だが小さなものばかりで匂いはさほどなく、風が吹いても漂ってきたことはない。

 異界が絡む花って、もろに‘月烏’の奴らが捜してた花っぽいよね……。

 一度そう考えだすと、そうとしか思えなくなった。そういえば久江も、甘い花の匂いがしたけどどの花なのかわからないといったようなことを言っていなかったか。

 ‘月烏’が絡むとはいえ、こんなに甘い匂いをさせる異界にも関係がありそうな花というのは好奇心をそそる。

 ……押しかけ女房さんにもいくらか関係があるかもしれないけど。

「……」

 ちらりと石がある辺りの茂みを見た登与は、桶を地面に置くと匂いのもとを探しはじめた。きょろきょろと首をめぐらせながら、鼻を獣のようにひくつかせる。

 けれど強烈な匂いを放つ花はどこにも見当たらない。それに花の匂いは辺り一帯から薄れつつあり、どこから漂ってきているのかよくわからないのだ。奥座敷のほうであるようにも、水回りの棟からであるようにも思える。

 これ以上はまずいかな……。

 登与は早々と諦めた。興味はあるが、家主を怒らせたくはない。

 しかし仕方ないと振り返った直後、渡り廊下から中庭を見下ろす家主の目が冷たい怒りを浮かべていたものだから登与は心の中で叫んだ。

 な、なんでこんなときに居合わせるのかな!

「……中庭の奥へ行くな、と言ったはずだが?」

「す、すみません。いい花の匂いがしたから、何かあるのかと思って……」

「……」

 登与が両手を胸の前に上げて一応は釈明すると、刀鍛冶の顔は渋いというより苦々しいと表現するべきものに変わった。登与から中庭――――その奥へと視線を向ける。

 あの匂いについて聞きたい。きっと‘月烏’が探している花に違いないのだから。

 だがこれは間違いなく、虎の尾を踏む問いだ。聞けば今度こそ自分は賽の河原へ放りこまれるだろう。

 雉も鳴かずは撃たれまい。登与は大人しく引き下がると、足早に縁側へと上がった。そのあいだに刀鍛冶は墓石へ向かっていく。

 これまでならここで二人の会話は途絶えるところだ。しかし、今回は違った。

「……おい、なんだこれは」

 墓石の前に腰を下ろしかけた刀鍛冶は、登与を振り返っていぶかしそうな声で問いかけてきた。登与がさっきしたばかりの清掃作業の仕上げを見たのだ。

 よし驚かせてやったぞと、登与はいっそ愉快な気持ちになった。

「なんだって、簪ですよ。そこは墓なんでしょう? 町の昔話に出てくる、押しかけ女房さんの」

「……」

「女の人の墓なんですから、簪をお供え物にするのはおかしくないでしょう? さすがに刀鍛冶さんもたまには花か食べ物くらいはお供えしてたでしょうけど、簪は供えたことなさそうですし。刀鍛冶さんにこのあいだもらった絵巻物を参考にして、作ったんです」

 ねえ、と登与は首を傾け、刀鍛冶に笑ってみせた。

 草むしりをして、墓石を丁寧に拭いたあと。登与は故郷から持ってきたものに手を加えた簪を一本供えた。朱色の身に色とりどりの布と組紐で象った大輪の花を飾り、さらに絵付けした三角の木片を連ねて吊るしてある。多様な素材を用いた、派手な色彩であるが品のある一本だ。

 死んだ人は丁寧に扱わないとだし、あの夢からすると本気でこの刀鍛冶さんのこと好きだったみたいだし。簪一本くらい安いもんよ。

「刀鍛冶さん。私は妖の礼儀作法なんて知りませんけど人の世じゃ、よそ様が墓に供えた物を勝手に下げるのはやっちゃ駄目なことなんですからね。下げるならせめて、私が町から出たあとにしてくださいよ」

 登与は刀鍛冶に指を突きつけて要求した。持ってきた中でも特に上等な品を供え物にしたのだ。そのくらいしてもらわないと割に合わない。

 数拍のあいだ無言で登与を見ていた刀鍛冶は不意に、目元にしわを寄せた。

「……刀鍛冶刀鍛冶、うるさい。俺には辰臣たつおみという名がある」

「……へ?」

 何の脈絡もない発言に、登与は思わず声を裏返らせた。

 あれなんか刀鍛冶さん今、名乗ってなかった?

 半ば思考停止しかけ登与は刀鍛冶を見る。しかし彼はもう墓前に腰を下ろしていて、登与に応じる気配はない。

 それから木桶を持ったまま土間へ向かった登与は、まだ上手く思考を働かせられないでいた。

 術者にとって名は大事なものだ。魂と深く結びついている名を他の術者に知られてしまうと、場合によっては術で己を好き勝手に扱われかねないからだ。だから術者や妖に名乗るのは注意深くなければならないと、登与は育ての親たちに教えられてきた。

 この術者の常識は妖にもある程度は通用するはずだ。登与が今まであの刀鍛冶に名を尋ねなかったのも必要がなかったからだけでなく、何かたくらんでいると思われたくなかったからなのである。

 だというのにさっき、あの人ならざるものは自ら名乗った。

 それは、眼前の小娘などどうとでもできるという侮りでなければ――――。

「……まさか、ね」

 脳裏をよぎった考えに登与は小さく笑った。

 ありえるわけがないでしょ。たかだか簪を守っている墓に供えてやっただけで、心を少しだけでも開くなんて。

 きっと、刀鍛冶と呼ばれることが嫌だったに違いない。

 ともかく。刀鍛冶改め、辰臣には言わないと。

「辰臣さん! 私は登与って言います! 呼ぶ気ないでしょうけど、一応教えときますね!」

 縁側から声を張りあげ登与は名を告げる。名乗られたからにはそうするのが礼儀だと思ったのだ。

 もちろん反応はない。

 だが登与は満足した気持ちで身支度を始めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る