突然俺の部屋に飛び込んできた隣の部屋の美女

春風秋雄

突然部屋のチャイムが鳴った

今日は家に帰れないかもしれない。締め切りは明日だ。それまでにこの翻訳を仕上げないと、とてもまずいことになる。まだ夕方の4時だが、このペースだと徹夜になるかもしれない。

事務所として借りている2DKのマンションで俺が仕事をしていると、ドアのチャイムが鳴った。宅配かと思い、俺は何も考えずドアを開けてしまった。

「すみません。ちょっと中に入らせてください」

女性がそう言って、脱いだ靴を手に持って勝手に中に入って来た。

「ちょっと、何ですか」

俺がそう咎めても女性は構わず奥に入っていき、部屋のドアを閉めた。

「ちょっと、何勝手に他人の家に入っているんですか」

俺は閉められたドアを開けて、女性に詰め寄った。

「ドアを閉めて!誰か来ても私はいないことにしてください」

何のことだ?と思っていると、隣の部屋のドアをドンドン叩いている音がした。

「カズミ!いるんだろ!ここを開けろ!」

男の声がする。何なんだ?

ガチャっとドアが開く音がして、男は隣の部屋に入っていったようだ。女性は鍵をせずに出てきたのだろう。

しばらくすると、うちの部屋のチャイムが鳴った。

俺はチェーンロックをかけてから、ドアを開けた。

「おい!お前、カズミがここにいるだろ」

何なんだ、こいつは?

「カズミって誰ですか?それより、さっきからドンドンうるさいですよ。私は今仕事中なんです。これ以上騒ぐのなら警察を呼びますよ」

「つべこべ言わずに部屋を見せろ。さっき窓からカズミの姿が見えたんだよ。ここは階段はひとつしかないんだから、外に出られるわけないんだから、部屋にいなければ、ここにいるんだろ?」

確かにここのマンションは4階建てで、エレベーターはない。階段も一か所しかない。しかもワンフロアーに二部屋しかないので、このフロアーで逃げ込むとすればここしかない。

「カズミと言う人は、お隣さんですか?あなたは借金取りですか?こんなやり方は法律に引っかかるんじゃないですか?」

「俺は借金取りじゃない。カズミの亭主だ」

「本当にご主人ですか?ご主人だったら、どうして奥さんは逃げるんですか?」

「それにはちょっと事情があるんだよ」

「なんか怪しいですね。やっぱり警察に連絡した方がよさそうですね」

「ちょっと待て、わかったよ。じゃあ出直すよ」

男は簡単に引き下がった。男は階段を下りていく。

俺はドアに鍵をかけ、奥の部屋へ行った。

「帰ったようですよ」

部屋の隅で縮こまっている女性が俺を見た。

「まだその辺にいるんじゃないですか?」

「階段を下りて行きましたから、帰ったと思いますよ」

「マンションの外にいませんか?」

そう言われて、俺は窓のカーテンを少しめくり外を見てみた。

いた。マンションを出たところの道端で、こちらを見上げている。

「いますね。鍵をかけずに出てきたのですね?ここにいることは絶対バレていますよ。どうします?」

「この部屋に無理やり入ってくることはないでしょうから、あの人がいなくなるまで、ここにいさせてください」

確かに、これから暗くなってくるので、この女性が部屋に戻れば電気をつけざるを得ない。すると電気をつけた瞬間にあの男は上がってくるだろう。面倒なことに巻き込まれた。

「じゃあ、あの男がいなくなるまで、適当に過ごして下さい。私は仕事があるので、隣の部屋で仕事をしています。冷蔵庫にあるものは、適当に飲んでもらっていいですから」

俺はそう言って仕事場に戻った。


俺の名前は横堀圭太。34歳の独身だ。児童書を中心とした翻訳の仕事をしている。家で仕事をしていると、ダラダラと切り替えが難しいので、半年前にこのマンションを借りて事務所として使っていた。日中はこのマンションで仕事をして、夜になったら車で20分程度の自宅に帰るといった生活をしている。基本的に土日は仕事をしないようにしているのだが、初めて声をかけてくれた出版社からの仕事が遅れており、今日は日曜日なのだが仕事場にきていた。よりによって、こんな日に厄介ごとに巻き込まれるとは。まあ、日曜日でなければお隣さんも仕事でいないだろうし、たまたま日曜日にここに来ていたのが運の尽きといったところだろう。


仕事に没頭していたので、時間を忘れ、ふと気づいたら7時になっていた。窓の外をみると、あの男はいなくなっていた。俺は隣の部屋を覗いた。いつの間にか明かりはつけているが、あろうことか、あの女性は俺が泊りこみで仕事をするときのために置いてあるベッドで、すやすやと寝ている。起こそうと、ベッドに近寄ったとき、初めてその女性の顔をまじまじと見た。ハーフのような顔立ちで、とても綺麗な女性だ。年はまだ20代だろうか。化粧も濃くなく、あの男の奥さんとは思えぬ、清楚で真面目そうな感じがする。しばらく見とれていたが、我に返り、俺はその女性の肩を揺らして起こした。

「もうご主人はいなくなったようですよ」

目を開けた女性は、一瞬自分がどこにいるのかわからなかったのだろう。キョトンとした顔をしてから

「ああ、ごめんなさい。つい寝てしまいました」

女性はそう言って起き上がり、ベッドから出て立ち上がろうと前かがみになった。すると見るとはなしに、V字ネックのカットソーの袖ぐりから、豊満な胸の裾野が覗いて、俺はドキッとした。

女性は窓のカーテンの隙間から外を伺う。

「いなくなったようですけど、また戻って来たときに私の部屋に電気がついていたら飛んできそうで怖いです」

確かにそうだが、かと言ってどうすればいいのだ?

「今日はここに泊めてもらうわけにはいきませんか?」

ここに泊まる?男ひとりの部屋だぞ。

「さすがに、それはまずいでしょう。一応俺も男ですから」

「私に対して、変な気が起きそうですか?」

「そりゃあ、まあ、これだけ綺麗な人だし」

「まあ嬉しい。じゃあ、それさえクリアすれば泊めてもらえるんですね?」

「クリアするって、どうやって?」

「どうしても我慢できない時は言ってください。その時はちゃんとお相手しますから」

え?え?え?お相手するって、そういうこと?いいの?

「それより、お腹すきましたね。冷蔵庫を見ましたけど、何もないようですが」

「デリバリー配達でも頼みましょうか?」

「そうしましょう」

俺が天丼を頼むと、女性も同じものをと言った。

天丼を食べながら、やっと女性は事情を話してくれた。


女性の名前は根岸和美。現在27歳ということだ。あの男性とは正式には結婚しておらず、3年ほど同棲していたが、1年くらい経った頃から全く働かず、ヒモのような生活をしていたうえに、お酒が入ると暴力こそ振るわないが、和美さんに対して暴言を吐いたり、怒鳴り散らすようになった。それで嫌気がさして、1年前に逃げてきたらしい。あの男は和美さんの収入だけが頼りだったので、逃げてきた後も探し回っていたようで、どうやって調べたのか、たまたまカーテンを閉めようとしたら、外にあの男がいるのを見て慌てて外に飛び出したが、逃げるところがなく、ここにやってきたというわけだ。和美さんは、以前は水商売をしていたそうだが、男から逃げてきたのを機に、今は工場で働いているらしい。


「いずれにしても、このマンションにいたら、いずれは捕まるんじゃない?引っ越すか、ちゃんと会って話をつけないことにはどうしようもないよ」

「引っ越すお金がないし、会って話をしようにも、私一人では話にもならないんですよ」

聞くと、工場での賃金は生活するのがやっとと言った程度で、貯金はほとんどできていないそうだ。男は反社の人ではないらしいが、お酒が入ると、何を言ってもダメだということだった。そういえば、昼間来た時も少しお酒臭かったような気がする。


食事をしたあと、俺はまた仕事場に籠った。翻訳がなかなか進まず、俺は焦っていた。朝までに出来るだろうか。

ドアをノックする音が聞こえた。

「どうぞ」

「コーヒーを淹れましたので、少し休憩にしませんか?」

「ありがとうございます。じゃあ、少し休憩にしようかな」

ふと時計を見ると、10時半だった。

「何のお仕事をされているのですか?」

「翻訳の仕事です。明日出版社に原稿を納めなければいけないのです」

和美さんが中に入ってきて英語の原文を見る。

「童話ですか。この本読んだことがあります」

嘘だろ?この本はまだ日本では翻訳されていないはずだ。

「和美さんは英語得意なのですか?」

「私の祖父がアメリカ人で、私は事情があって4歳から12歳までアメリカで暮らしていました」

そうだったのか。どうりでハーフのような顔立ちだと思った。実際はクオーターだったのか。


ダイニングでコーヒーを飲みながら和美さんの生い立ちを聞いた。

和美さんのお祖父さんは軍人さんで日本の米軍基地に来ていたらしい。基地の近くの飲食店で働いていたお祖母さんと結婚し、お祖母さんはお祖父さんの帰国について行ってアメリカに移住。そこで和美さんのお母さんが生まれたそうだ。お祖母さんは自分の娘に日本の教育を受けさせたいと思い、日本に帰ることにした。和美さんのお母さんはそのまま日本で生活をし、日本人と結婚。それを機にお祖母さんはお祖父さんのいるアメリカへまた移住したそうだ。そして和美さんが生まれた。和美さんが2歳の頃にお母さんは病気で亡くなり、お父さんがそのあと再婚。妹が生まれると新しい母親は妹ばかりを可愛がり、和美さんの面倒をほとんど見ない。お父さんがお祖母さんに相談して、和美さんは祖父母が育てるということでアメリカに渡ったそうだ。しかし、和美さんが12歳のときにお祖父さんが他界し、お祖母さんと一緒に日本に帰国。そのお祖母さんも和美さんが20歳の時にこの世を去り、大学を中退して働くことにした。お父さんからは何とか援助するから大学はやめるなと言われていたが、新しい母親と関わりたくなかったので、水商売をしながら就職先を探していたが、いつの間にか水商売が本業になってしまったということだった。


「大変な人生を歩んでいるんだね」

「大変なのかどうか、他の人生を歩んでいないのでわからないです」

確かに、自分の人生を他の人の人生と比べることは無理だ。

「それより、私でできることがあれば、お仕事お手伝いしましょうか?」

仕事がはかどっておらず、猫の手も借りたい状況だったが、さすがに翻訳は英語のできる猫でなければ無理な仕事だった。しかし、この人なら戦力になるかもしれない。


翻訳の仕事は、単に英語の文章を和訳するだけではない。英語の微妙な言い回しを、適切な日本語を使って作文しなければならない。言ってみれば、英語の原文を基に、日本語の小説を書くようなものだ。同じ原文の翻訳でも、翻訳の仕方によって読みやすい本になったり、読みにくい本になったりする。また翻訳の仕方によって、まったく心を打たない本に仕上がったり、逆に感動を与え、いつまでも心に残る本になったりする。それは翻訳家の日本語能力の差、文章力の差と言ってもいいかもしれない。

和美さんには、とりあえず英語の原文を和訳してもらうことにした。それを俺が原文と照らし合わせ、物語として読み手に伝わるように作文していくという流れにした。和美さんの和訳は、さすがに帰国子女だけあって、俺が辞書を開かないとわからない単語でもさらさらと訳し、この単語はこういう意味もあるのかと教えられることが数々あった。

和美さんのおかげで、仕事は思ったより早く終わった。時計を見ると、2時を回ったところだった。


「ありがとう。助かったよ」

「ご迷惑をおかけしたので、少しでもお返しになればいいんですけど」

「充分だよ。それじゃあ、俺は家に帰るから、和美さんはここに泊まればいいよ」

「家は別にあるんですか?」

「そうだよ。ここは仕事場で使っているだけだから。徹夜仕事のときはここに泊まるようにはしているけどね」

「ご自宅は遠いのですか?」

「車で20分くらいのところ」

俺は地名を言った。

「駅からは遠いですか?」

「駅から10分程度のところだよ。出版社へ出向く時は電車を使うようにしている」

俺はそう言って駅の名前を言った。

「私をそこに住まわして下さい」

「ええー!」


和美さんは、俺が敷いてあげた来客用の布団で寝ている。あれからとりあえずの荷物をまとめて、車で俺のマンションまで運んだ。確かに、あの男に住居を知られている以上、いつ待ち伏せされるかわからない。だったら、俺のマンションの方が安全なのはわかる。しかし、いいのだろうか。これでは同棲しているのと変らないのではないか。和美さんは俺が我慢できないときは言ってくれと言った。その時はちゃんと相手をするからと。そんな言葉を鵜呑みにして、期待して良いはずはない。さて、どうしたものか。


さすがに翌日は、俺は仕事場に泊ることにした。自宅には盗まれて困る物はない。和美さんの次の住居が決まるまで、あの部屋は和美さんに貸すことにしようと思った。今日出版社に原稿を持って行ったので、とりあえず急ぎの仕事はない。すると、仕事関係の物しか置いていないこの仕事場では、やることがなかった。せめてテレビくらい置いておくべきだった。そう思っていると、和美さんから電話があった。

「どこにいるんです?」

「仕事場」

「今日は帰ってこないのですか?」

「今日は徹夜になりそうだから、こっちに泊るよ」

「明日はこっちに帰って来てください。食事を作ってまっていますから」

和美さんは、そう言って電話を切った。


仕方なく俺は、翌日から夕方に一旦自宅に帰り、和美さんが作った料理を食べてから仕事場へ行くという流れにした。和美さんの料理はなかなか美味しかった。ビールでも飲みたいところだが、飲んでしまっては車で仕事場へ行けなくなるので、グッと我慢した。食事をしながら、和美さんは、アメリカでの生活のことを色々話してくれた。翻訳の仕事をしているといっても、俺はアメリカで暮らしたことはない。何回か旅行で行った程度だ。だから和美さんの話はとても興味深く、聞いていて楽しかった。何日かそうしているうちに、和美さんとの食事時の会話が楽しくなってきた。最初の頃は食事が終わるとそそくさと仕事場へ行っていたが、そのうち食事の後のコーヒーを飲んだり、和美さんが作ったデザートを食べたりして、家を出る時間がどんどん遅くなって来ていた。

和美さんが同居して半月ほどした頃に、和美さんが聞いてきた。

「仕事場へ戻るのは、本当に仕事のためなんですか?」

俺は意表を突かれて、返事に窮した。

「私がここにいるから、気を使って向こうで寝ているのではないですか?」

「仕事があるのは本当です。でも、やはり和美さんと同じ屋根の下で寝るのは気が引けます」

「私は早くここを出て行った方が良いですね」

そう言われて、俺は何故か寂しい気持ちがした。


その日は日曜日だったが、俺は締め切りが近づいている仕事があったので、仕事場に詰めていた。夕方近くになり、チャイムが鳴った。ドアを開けると、あの男だった。

「この前はすみませんでした。和美はこのところ帰って来てないようですが、あなたがどこかに匿っているのですか?」

俺はどう答えようか迷った。俺が匿っているから、もう二度とここに来るなと言おうとも思ったが、この前と異なり、男はかなり低姿勢だった。

「いや、和美は俺に愛想をつかして出て行ったので、誰のところで匿ってもらおうが、それはいいんです。それより、和美に渡したいものがあるんです」

「渡したい物とは?」

「あなたが和美に渡してくれますか?」

俺は腹を決めて言った。

「わかりました。私が責任を持って渡します」

俺がそういうと、男は鞄から封筒を取り出し、俺に渡した。

中を見ると、通帳と印鑑とキャッシュカードが入っていた。

「これは?」

「和美のお母さんが俺に預けたものです」

「お母さん?お父さんではないのか?」

「お母さんです。3年くらい前に和美がいないときに訪ねてきて、俺に預けたんです」

どういうことだ?俺は詳しい話を聞くために、男を部屋にあげた。


男の話では、訪ねてきたのは確かにお母さんだということだった。和美の妹が生まれてから、お母さんは妹の口座と和美の口座を作り、毎月それぞれ1万円ずつ預金をしていたそうだ。毎月の預金は和美がアメリカへ行ったあとも続き、和美の20歳の誕生日の月まで続けたそうだ。全部で193万円になったそうだが、最後の月にきりがよいようにと、余分に預金し、200万円にしたということだ。自分で渡せば良いじゃないかと言ったら、和美は自分を恨んでいるだろうから、自分が渡しても受け取らないかもしれない。だから男に預けるので、和美が困ったときに渡してやって欲しいと頼まれたということだ。

その通帳を預かった時は、ちょうど男が仕事を辞めた時だったので、パチンコ代や飲み代をそこから少し借りたらしい。返そう返そうと思っていたが、なかなか返せず、使い込んだ金額は50万円になった。いつか和美にバレるのではないかと思うと、気が気でなく、酔ったときには和美に暴言をはくことが多くなったそうだ。和美が家を出て行ったのは仕方ないとして、この通帳だけは渡さなければと思ったが、通帳を見れば使い込んだことがバレてしまう。やっと30万円ほど通帳に返したところで、お母さんに和美の居所を聞いて、この前やってきたということだった。

「俺は気が小さいから、使い込んだことを素直に謝れないんだよ。だから、この前はちょっとウィスキーをひっかけてきたんだけど、ここに来る頃になって酔いが回っちまって、あんな態度をとってしまったんだ」

「和美さんのお母さんは、和美さんを嫌っていたのではないのか?」

「嫌っていたわけではないらしい。自分の子供が生まれてから、初めての子育てで、育児ノイローゼみたいになってしまったそうだ。赤ん坊の世話だけでも大変なのに、和美にまで手が回らなくて、ついつらく当たってしまったと言っていた」

「そうだったんだ」

「和美は、俺なんかには、もったいない女だった。色んな事情があって水商売なんかやってたけど、頭もいいし、英語もできるし、ちゃんとした仕事につけるやつなんだ。俺はもう和美の前には現れないから、あんたが和美を幸せにしてやってくれ」

「いや、俺は・・・」

「それから、通帳の残高が20万円ほど足りないけど、それは申し訳ないと謝っといてくれないか」


男が帰って行ったあと、俺は薄暗くなった部屋で電気もつけず、独り考えていた。このお金があれば、和美さんは新しい住居に移ることができる。それどころか、あの男はもう来ないと言っているので、隣の部屋に戻ってくることも出来る。しかし、俺はそれで良いのか。自問自答しながら、俺はしばらくその場を動けなかった。


家に帰り、食事が終わったあと、俺は和美さんに今日の出来事を報告して、通帳が入った封筒を渡した。

「お母さんが?信じられない」

俺はあの男から聞いた通りのことを話した。和美さんは半信半疑で聞いているようだった。

「いずれにしても、一度実家に帰って、お母さんと話した方が良いと思うよ」

「そうね・・・」

「そのお金があれば、新しい住居に移ることもできるし、あの男はもう現れないと言っていたので、あのマンションに戻ることもできる。もっと言えば、あの男が暴言を吐いていたのは、和美さんのそのお金を使い込んでいた負い目だったようだから、今では反省して働いているようだし、あの男のところへ戻るという選択肢もあるよ」

「あの人のところに戻る気はない」

「そうか、じゃあ、どうするのかはじっくり考えればいいよ」

「ねえ横堀さん、選択肢の中に、ここにずっといるというのはないの?」

俺は一瞬言いかけた言葉を飲み込んだ。

「じゃあ、俺は仕事場へ行くから」

俺はそう言って部屋を出た。


2日後に、和美さんが報告してきた。

「今日、お母さんと、お父さんに会ってきた」

「そうか」

「お母さんは、泣きながら謝ってくれた」

「うん」

「それでね、私決めた」

俺が和美さんの顔を見ると、吹っ切れたような顔をして言った。

「私、ここを出て、もとのマンションに戻る」

「そうか。うん、わかった」

これで、奇妙な同居生活は終わったということだ。


翌日、俺が仕事部屋に行くついでに、和美さんの荷物を車で運んであげた。これで二人とも元の生活に戻ったということだ。

夕方になり、俺が仕事をしているとチャイムが鳴った。ドアを開けると和美さんだった。

「どうしたの?」

「夕飯の準備ができたから、こっちにおいでよ」

「え?夕飯の準備?」

「いいから、せっかく作ったんだから、はやく来て」

初めて和美さんの部屋に入る。本当に最低限の荷物しか置いていない。

食事のあと、俺は言った。

「これじゃあ、場所が変わっただけで、昨日までと変らないじゃないか」

「そうでしょ?よく考えたら、この方が横堀さんは、食事をするために、いちいちあっちのマンションに帰る手間が省けるから、いいなと思って、それで私はここに戻ることにしたの」

俺はジッと和美さんを見た。

「ねえ、一番最初に、横堀さんが我慢できなくなったら、私はちゃんと相手してあげるって言ったの、覚えてる?」

「ああ、うん」

「横堀さんは、私が我慢できなくなったら、ちゃんと相手してくれる?」

「え?」

「どうなの?ちゃんと相手してくれるの?」

「わかった。ちゃんと相手します」

それを聞いて和美さんは俺に抱きついてきた。

「私はもう我慢できないよ」

「俺の方こそ、もう我慢の限界を超えていたよ」

「もっと早く言ってくれればよかったのに」

「工場のパートは辞めて、俺の仕事を手伝ってくれないか」

「私でいいの?」

「最強の助手だよ。和美さんがいれば、もっと仕事を増やせる」

和美は潤んだ目で唇を寄せてきた。

和美の柔らかい唇を感じながら、俺の頭の中で、向こうのマンションは解約した方がいいかなという考えが浮かんだ。

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