黒い猫

@ninomaehajime

黒い猫


 黒い猫がいた。

 そいつは毛艶もなく、目が潰れていた。山毛欅ぶなの枝木に横たわり、尻尾を垂れている。木漏れ日の下でも輪郭が黒々としており、障子の向こうに映す影絵にも似ていた。

 偶然少年はその猫を発見した。野山を駆け回り、木の棒を振って草を払った。侍を気取り、太い木の幹を叩く。驚いた小鳥たちが一斉に飛び立ち、落ちてきた羽根が鼻をかすめた。見上げた先に、黒い生き物を瞳に映したのだ。

 その黒猫を目の当たりにした第一印象は、生意気だというものだった。届かぬとはいえ、木の棒を握った人間が下にいてもまるで臆した様子がない。尻尾の先端を揺らし、潰れた目の奥からこちらを観察している。そんな気さえした。

 生来より負けん気の強い少年は、ふてぶてしい態度の猫に目に物を言わせてやろうと企てた。そうでなくとも黒猫は不吉だ。この里山から追い払わなければならない。

 地面に視線を這わせた。山毛欅の下には多くのどんぐりが落ちており、木の棒を投げ捨てて代わりに楕円形の木の実を拾った。殻を被り、茶褐色をした表面は滑らかで十分な強度を有している。少年はほくそ笑んだ。

 手の中でどんぐりを弄び、枝の上の黒猫を見上げた。手が届かないと油断している猫に痛手を与えるのに十分だ。少年は大きく手を振りかぶった。

 黒い猫は微動だにしなかった。

 勢い良く腕を振った少年はいぶかった。確かに黒猫に向かって投げたはずなのに、いささかの手応えもなかった。枝の上の猫は相変わらず寝そべっていて、何かが飛んでいった形跡もなかった。

 首を傾げて自分の手のひらを覗いた少年は、悲鳴を上げた。

 茶褐色の堅果けんかが皮膚にめりこんでいた。果皮が割れ、種子から発芽した根が這いずり回る。手から振り払おうとしているあいだにも腕まで侵食し、彼の首筋を伝って恐怖する顔まで覆い隠した。

 束の間、少年の絶叫が里山に響いて消えた。

 静寂が訪れ、草の中に落ちていたのはどんぐりだった。落下したときの余韻で、ほんの少しだけ揺れた。

 その顛末てんまつを見届け、目が潰れた黒猫は欠伸をした。自分の前足を枕にし、また惰眠を貪る。

 けふ、とげっぷをした。

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