今日も象が部屋にいる 2
おかしな夢を見た。中学生になって初めての朝を迎えた伊藤夏生は、寒く寂しい空気漂う実家の中で黙々と準備を進めた。
伊藤夏生が酢谷海里と初めて出会ったのは、名前に苗字というものが存在するなんて知りもしない頃だった。気付いたら隣の家に住んでいて、気付いたらよく遊んでいた。あいつの一人称が「おれ」じゃなくて「かい」の頃から一緒にいたし、もっと言えば指をしゃぶって泣き声をあげることしかできなかった頃から、一緒にいた。
さすがにそんな小さい頃は夏生の記憶にも残ってはおらず、押し入れに押し込まれたアルバムの写真を指で撫でては、ない記憶に思いを馳せるだけだけれど。小さい頃から変わらない大きな黒目に、ふわふわした髪の毛、健康的な肌の色。自分の中に幼い幼なじみの記憶がないことに対して目を細めながらも、夏生はいつだって優越感に浸っていた。
思い出が記憶を追い越すことは、なにも恥ずかしくない。自分たちの身体には入り切らなかった思い出が溢れているという証明に他ならないのだから。
「産まれてからずっと一緒にいる」。大袈裟じゃなく、それが事実。お互いの中に記憶がなくとも、写真がその事実を裏付けてくれている。しかも十何年も前の記憶がなくとも、毎日微妙に変わりゆく表情を楽しめるのだから、これ以上の幸甚はない。今日この日のあいつの表情や声色も、いつか夏生の記憶からこぼれ落ちるのかもしれないが、目の前にいて今を一緒に生きてさえくれればそれでよかった。
いつだって、登校の準備も朝食も終えた夏生が隣家のチャイムを押さないと、ベッドから起き上がりもしない幼なじみ。毎朝毎朝「今日も目覚まし鳴らなかった」と口を尖らせながら、母親からの小言を雑に聞き流し、スニーカーに裸足を突っ込んだ状態で、トーストをくわえながら出てくる。そんな日常は六年間続いたし、きっと明日からも続く。そしていつもみたく寝癖だらけで、サイズの合わない大きな制服に身を包み、太陽が熔けたみたいな笑顔で夏生に言うのだろう。「おはよ、かお。」
あぁ、今日もやっぱり、恋をしている。「おはよ、かい。」
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