今日も象が部屋にいる

今日も象が部屋にいる 1


『行った旅行も思い出になるけど、行かなかった旅行も思い出になる。』好きなドラマの台詞だ。

 創作物の引用を使うなんて、芸術としては邪道なのかもしれない。それでも伊藤夏生が自身の行為を正当化し、それらしく表すには、この一文を引用せねばならないだろうという確信があった。

『行かなかった旅行も、思い出になる』。成就しない道ならぬ想いも、思い出になる。でも、じゃあ行かなかった旅行の記念写真が欲しいと思ってしまったら?

 繰り返し、繰り返し。何度も何度も、夏生の手は同じ映像を手もとの小さな画面で再生し続けた。それはまるで梅雨の夜のような、途方もない孤独だった。


 いつからだろうか。自分の人生を語るとき、感情を語るとき。自分を表す言葉の全てが、借り物でしかないと確信するようになった。

 たくさんの映画を観てきて、数え切れないほどの本を読んできた。それぞれの言葉が自分の引き出しの中をぱんぱんに満たしてくれているはずなのに、引き出しが埋まるほどに自分の居場所がなくなる不安に駆られた。

 そうやってどうしようもなく心臓が寒くなったとき、夏生はいつも同じ映画を観た。スタンリー・キューブリック監督の「時計じかけのオレンジ」。純粋に邪悪で、醜悪な程にアートな物語だが、夏生が惹かれたのは「好き勝手に暴力を働く」部分ではなかった。


 伊藤夏生は、自分が平凡であるという自覚を持って生きてきた人間だった。それでいて、自分がつくるものや言葉には絶対的な自信があった。自分の中身は否定されるべきもので溢れているのに、それを表出して芸術と呼べば周囲から肯定されると、信じて疑わなかった。

 でもそれは自信などではなくて、いいものを盗んで自分のもののように見せつけるのが上手かっただけなのだと、今なら思う。


 人という字は、という言葉がある。人と人が支え合ってできている、と。本当にそうならば、俺はお前と、なんて思っていた。そうじゃないと嫌だ、とすら。

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