2 お菓子の街――sweet memory――(2)
雨の音が聞こえる。
いや、これはシャワーの音。
そして、エイクの肌に水がはねる音だ。
セールは頭の中に新たな情報を付け加えながら、ホテルの一室で佇んでいた。
ベッドは一つしかなく、そこに寝るのはエイクに決まっている。もっとも、人形である自分は眠りを必要としないから、別に不満もないが。
「なぜ、嘘をついた?」
「あら、何のこと?」
シャワールームからくぐもった声が聞こえてくる。
「エイクは『はさみとぎ』を探していると言っていた。なのに今日は、偽物の救世主を倒すため、と言っていた。どちらかは嘘だ」
人を探すという目的は別に恥じるようなものでもないはずなのに、なぜエイクが嘘をつくのか、セールには理解できなかった。
「『はさみとぎ』が偽者の救世主なら、何の矛盾もないでしょう」
キュッという高音と共に、シャワーの雨が止んだ。
「本当か?」
「……嘘だとして何の問題があるの?」
繊維と肌が擦れるような音が、セールの耳朶に届く。
「善良な彼らを騙して、心は痛まないのか」
「痛みのことなら――」
エイクは生まれたままの姿でシャワールームから出て来て、ベッドに鋏を放り投げる。
「鋏に聞いて」
シャワールームからの蒸気と共に、清潔な石鹸の香りが漂ってくる。
「エイク――それは、『ココノハ』かい? 君は、痛みから、恐れから、悲しみから、逃げてしまったのか?」
セールは、エイクの艶めしい姿にも心動かない自分に安堵しながら尋ねた。やはり、自分は『恋人』を愛する為に作られているのだ。
「彼女たち――この街の人たちは、『はさみとぎ』に頼んで『人を疑う心』を捨てたの。みんなで仲良くやっていくために。誰かが砂糖の利権を独占しないか、探り合って破滅しないように」
セールの質問を無視して、エイクは言葉を紡ぐ。そのまま、下着もつけずにワンピースを着こんだ。
彼女の衣服は、炎天下で一日中活動したにも関わらず、汗にも砂糖にも汚されていなかった。
いや、そもそも、ここまでエイクが汗をかいた所を見たことがあっただろうか?
「それと、エイクが街の人を騙すことと何の関係がある?」
「ココノテに頼んだ代償は支払わなければならないわ。自分に都合のいいことでも悪いことでも」
巨大な鋏の刃を、どこからともなく引っ張り出した灰色の石で研ぐ。
しかし、鋏の錆は一向に落ちる気配はない。
「しかし、エイクのような人間に、街の人皆が騙されたら、破滅してしまうではないか」
「羊の肉は一度食べたらおしまいだけど、上手く管理して毛を刈り取れば何度でも実入りがあるわ。そして、一人だけ肉にありつこうとする輩は嫌われる。当然よね?」
エイクは切れ味を確かめるように鋏を開閉しながら言った。
「不正の利益を分け合うとは、非道だ」
セールは壁を叩いて抗議する。
「そう。じゃあ、……今から私がすることも気に入らないかもね」
*
月明かりに砂漠の砂糖が白金のようにきらめいている。
エイクは舐めた人差し指を、夜風に晒した。
「いい具合に風上だわ」
エイクは服の裾に手を突っ込むと、小さな袋を取り出す。
「砂糖を返すのか。せめてもの償いに」
セールは納得したように頷く。
「ははは! あなたもこの街の住人になった方がいいんじゃない?」
エイクが袋の口を開いて、逆さまにひっくり返す。
風に乗った粉が、ダイヤモンドダストのように輝いて、砂漠へと広がっていく。
「これは、毒薬。一匙でこの街の全てを奪う恐怖!」
エイクはそう叫んで、心底楽しそうに鋏を突き刺した。
甘い夢を見る砂漠へと。
*
日が昇り、暑くなる前に出立したい。そんな適当な理由をつけて、エイクはホテルを未明にチェックアウトする。
その数分後にはもう、二人は街の外にいた。
「なんてことをするんだ! あの街の人たちが何をしたと言うんだ!」
セールは相変わらずソリを引かされながら、エイクに猛抗議する。心なしかその操縦は乱暴で、ソリにのった商品がガタガタ揺れた。
「そうね。強いて言うなら『何もしなかった』ことをしたわ」
エイクは鋏で素振りしながら、罪悪感の欠片もない声で答えた。
「全く意味がわからない。あれは君自身が望んだことか。それとも、誰かに頼まれてやったことか」
「あなたの脳みそは、意外と粗悪なココノハなのかしら。私が何を売ったか。あなたは覚えてないの?」
エイクは鋏を薙いだ勢いそのままにセールの方へ振り返った。
彼女が売ったもの――黒砂糖。全てがつながる。
残念ながら、『恋人』はセールにしっかりと人を疑う心も残していったらしい。
「あの人々は善良だ。砂糖を安く仕入れることができる。当然、同じような商品を扱っている黒砂糖の関係者は面白くない。値が下がるし、客が流れる」
自分の言葉が毒でもあるかのように、セールが苦しげに吐き出す。
「よかったわ。セールがシュガーボーイじゃなくて」
エイクの渾身の冗談だったらしく、彼女は自身のセリフに自分で爆笑した。
「砂漠に砂糖と全く区別のつかない毒薬を混入させ、そのことを喧伝する。人々はもう、安心して砂漠の砂糖を使うことができない」
セールは、にこりとも笑わず続けた。
「そう。そして、疑うことを知らない彼らは、例え誰かに犯人をほのめかされても、相手に否定されれば、それ以上追及することはできないの」
エイクの鼻先に鋏を突き付けてきたセールが、誇るように言った。
「しかし、それならば、別に撒いたふりをするだけでも良かったではないか。どうせ彼らには、撒いた毒の量も、そもそも本当に撒いたのかすらも疑うことはできないのだから」
セールがもはや、懇願するようにたしなめる。
「甘いものを食べると、しょっぱいものを食べたくなるじゃない?」
エイクは『何を当たり前のことを』とでも言わんばかりに小首を傾げた。
セールは口をあんぐり開けて、呆然とエイクの顔を見つめた。
彼女が撒いたものは、つまり――。
「この商品は高く売れるわよ。なんせ、この世で最後の、まともに食べられるお菓子の国の夢物語だから」
エイクは揚々と言葉を紡ぐ。
ワンピースの襞が、幻想を掻き消すようにはためいた。
*
翌朝、街の看板に二つの物が縫い付けられていた。
僅かばかりの粉末が入った小袋と、筆跡の偽装された張り紙。
朝の掃除に出てきた女性は、それを見つけて息を呑んだ。
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