俺はなんで『俺』なんだ?―自意識の始まりを考える―

小田舵木

俺はなんで『俺』なんだ?―自意識の始まりを考える―

 何故、俺は生まれたのか?

 両親がセックスをした結果―なんて詰まらないアンサーはなしだ。

 それは俺が求めている答えとは違う。

 

 もう一度問う。

 何故、『俺』は生まれたのか?

 ―自意識の始まりを問うている訳だ。

 

 自意識。

 気がつけば俺はそれを持っていて。

 気がつけば俺はそれを通して世界を眺めている。

 

 俺は自身を指し示す時、必ず『俺』と言っている。

 その『俺』が不思議でしょうがない。

 …詰まらない事を気にしているだって?

 だが。俺はそういうどうでもいい事が気になるクチな訳だ。

 

 意識を持つ。

 これは形容できないプロセスで立ち上がっているように思える。

 

 気がつけば。俺は『俺』であり。

 外と内の区分けがついて。

 その『内』に『俺』という符号がついてしまって。

 詰まらない自意識との付き合いが始まった訳だ。

 

 俺は自意識が邪魔でしょうがない。

 …うつ病を抱えているからだ。

 『俺』は故障してしまったのである。

 今は。薬を飲んで誤魔化ごまかしているが。

 何時、再発してもおかしくない。

 病気と健常の間を行ったりきたりしている。

 

 『俺』がなければ。

 俺はもっと生き易い気がしてならないのだ。

 俺は『俺』にうんざりしている。

 

 愚痴を言い出せば長くなる。

 簡潔に言おう。

 俺は『俺』が嫌いなのだ。

 

 だが。

 俺は『俺』であり。

 その『俺』は俺の前頭前野を始めとする脳が創り出している。

 人間ってヤツは脳の認知活動に依存するカタチで生きている。

 要するに。俺は『俺』が嫌いだが、『俺』なしでは生存不可能だ。

 

 …本当にそうか?

 例えば。俺が脳梗塞で前頭前野のみをピンポイントで損傷し。

 『俺』という自意識のみ無くして、それ以外の認知活動は出来る状態になる―

 という事も可能かも知れない。

 

 いいや。不可能か。

 認知活動。これ自体が自意識だし、そもそも脳の機能の局在論は正しくない。

 

 認知する。このシンプルな現象が。

 『俺』のコアなのである。

 外部からの入力に反応する。なんならリアクションを起こす。

 反射反応ではなく。入力ごとに違う反応を返す。

 『俺』は。複雑なプロセスを経ることなく、現れる。

 

 このシンプルさが鬱陶しい。

 シンプルだからこそ頑強な訳だ。

 壊そうとしたって壊れない。

 いや。壊れてはいるのだが、破壊するには至らない。

 中途半端に故障しながらも『俺』は依然として存在する。

 

 そして。

 『俺』は存在する限り、自己主張をしやがる。

 全く、世話の焼けるヤツである。

 毎日、どうでもいい事にストレスを感じ、傷つきやがる。

 俺は『俺』のナイーブさ加減が嫌いだ。

 しょうもないイベントでストレスを感じすぎなのである。

 

 もっと。

 野暮でガサツな自意識が欲しかった。自己肯定感がアホみたいに高いヤツ。

 そういう『俺』なら。

 『俺』が何故生まれたのかなんて気にもしないだろうし、自分を嫌う事もあるまい。

 

 俺は『俺』が不思議でしょうがない。

 そして。『俺』が代替不可能な存在である事が不思議でしょうがない。

 何故、俺は『俺』で。こんなにもしょうもない生き物なのか?

 これを毎日問うている。

 そんな事をする暇があったら、自己啓発の一つでもすればいいのだが。

 『俺』ってヤツは怠惰なヤツなのだ。

 自己を改善するその前に。『俺』の存在自体を問うてしまう。

 

 気がつけば俺は『俺』であった。

 それが問題をややこしくしているように思える。

 自己の由来を知ることが出来ない。

 

 俺の自意識は3歳の頃に立ち現れた…と思う。

 3歳の頃の記憶がおぼろげにあるからだ。

 いや。1歳位から意識はあったのだろうが、コミュニケーションを介して他者に自己を主張し始めたのは、恐らく3歳頃だと思う。

 余談だが、俺は言葉の始まりが遅かった。地域の『ことばの教室』に放り込まれていたのである。

 

 言葉。

 言葉を解し、言葉を発する。

 そこに自意識の起源があるように思える。

 言葉を解し、言葉を発する…この言葉達の間に挟まっているのが自意識で。

 

 言葉を用いて、自己を定義する…これが自意識の始まりなのか?

 割りかしキャッチーな結論。

 だが。そういうキャッチーさってのは問題の簡略化を伴う…ような気がする。これは勘だ。

 

 だが。キャッチーさに忌避感を感じようが。

 言葉という抽象化を伴わなければ、自己は定義出来ない。

 言葉という符号で自己を縛り上げる。

 そうして―『俺』は生まれたのか?

 

 では。

 言語がなければ自己はないのか?

 そうでもないだろう。言葉が無かろうが―自己は存在する…例を出せないが。

 ただ、他者に示すことは難しくなる。

 他者に示す事が出来なければ。存在しないようなモノだ。

 

 他者。

 自己という内があれば。他者という外が現れる。

 内と外。体と体で隔てられた異物。

 俺とあなた。そこには深い深い境界がある。

 俺とあなたは混じらない。まるで水と油のように。

 

 他者があるからこそ、自己を強く意識する。

 『俺』とは違うシステムで動く何か…『俺』とは違う『あなた』を持った者。

 ここにも自意識の起源を感じてしまう。

 

 『あなた』が居るからこそ。『俺』の存在がはっきりする。

 『あなた』は『俺』ではないのだから。

 『俺』の意識ではコントロール出来ないモノ。それが『あなた』だ。

 そして、あなたが『あなた』を感じるように。

 俺も『俺』を感じている。

 

 あーあ。

 どうして俺は『俺』なんだか。

 『あなた』ではない事が疎ましい。

 このクソ垂れ自意識が鬱陶しくて敵わんのだ。

 他者があるからこそ、言葉があるからこそ、『俺』は生まれた。

 そうして、俺の頭ん中に居座っていやがる。世界を感じて、勝手に傷ついてやがる。

 まったく。いい加減飽き飽きしているのだ。

 

 さっさと。死んでしまいたい。

 うつだからそう思うのではなく。

 俺は『俺』という自意識…いんや。病に冒されているのだ。

 32年生きてきて。俺は『俺』がすっかり嫌いになってしまった。

 

 では?

 自殺が出来るのかと言うと…ノーだ。

 『俺』は死ぬことが死ぬほど怖いらしい。

 矛盾だ。

 死にたいくせに死にたくないとのたまう。

 大体、こういう文章を書いて、公表すること自体が自意識の発露というか…自己愛の発露に思えてしょうがない。

 

 …この文章。

 何を書こうとしていたんだっけ?

 ああ。書き出しは『何故、俺は生まれたのか?』

 問題提起は『自意識の始まり』だったはずだ。

 一応、文献に頼らずに―影響は隠しきれてないが―自己の脳みそ一つで考えてみた。

 他者と言語。それが自意識、『俺』を発現しせしめた。

 いや。今考えれば。自己なんてモノは脳が発達する過程で生まれてしまう。

 ただ。他者と言語がなければ、その輪郭はハッキリしないだけだ。

 

 ああ。『俺』は自然発生した何かなのだ。

 起源を問うことは不可能に近い。

 それは気づかぬ内に存在してしまい。

 言語と他者によって輪郭をつけられて。

 32年の人生を経て、熟成…いや腐敗した。

 

 今日も俺は。

 腐ってしまった『俺』を抱えながら生きる。

 死ぬまでの付き合いになるだろう。

 喫煙者で生涯独身だから早めに死ねるだろうが、恐らくは後20年は続いてしまう。

 まったく。面倒ったらありゃしない。

 

 

 

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

俺はなんで『俺』なんだ?―自意識の始まりを考える― 小田舵木 @odakajiki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ