本編

 私の出身は北海道の片田舎だった。町、と呼ぶのも烏滸がましいくらいの小さい町で、人口はほんの数千人しかいなかった。

 よくある話だが、少しでも変わったことがあれば町中に噂が広がるような、狭苦しい世界だった。私にとってそれは顕著だった。高校生の頃、札幌で出会った人と付き合った。相手は大学生で大人びて見えたから、すぐさまアプローチに応えた。

 だけど自分の町でそれが知れ渡れば、すぐさま噂の的になる。それが分かっていた私は、一番の友達だと思っていた子にだけ、親にも話せない秘密を話した。

 その結果がどうなったかなんて、もう予想がつくでしょう。私の友達だと思っていた子は簡単に私の秘密をばら撒いた。


「ねえねえ。これ、秘密なんだけど。あの子、大学生と付き合ってるんだよ」


「秘密なんだけど、あの子、札幌で年上の人と出会って付き合ったんだって」


「噂なんだけど、あの子、すごく歳上の人と付き合ってるんだって」


 噂とは恐ろしいもので、人伝てに話せば内容はみるみる変わってゆく。私は数日後には、町中の人から好奇の視線に晒された。


「あの子でしょ、援交してる子って」


 根も葉もない噂は聞き手にとって面白い方へと変化してゆくものだ。耐えがたかった。私の純粋な秘密の恋心を穢されるのが。

 そんな思いをした私は、町で浮いた存在になり、すぐさま馴染めなくなった。幸いなことにそれが高校三年生の時であったので、私は思い切って進路を変えて、東京の大学に進学することに決めたのだ。

 そうして東京へ出てくると、人の多いことに驚いた。地元では一箇所しかなかった駅というものがそこら中にあり、どこへでも簡単に行ける。

 東京は居心地が良かった。どこへ行っても人が多くて個性溢れる豊かな都市。私は東京を歩くことに夢中になった。大学の講義の時間もこっそり抜け出しては、私は電車に揺られ、さまざまな場所を練り歩いた。


 けれど、我儘なことに時々自然が恋しくなるもので。私は東京でできた友人に、自然を感じられる場所はないかと尋ねた。すると彼女は快く私を連れ歩いた。

 そして連れて行かれた場所のひとつが、上野恩賜公園だ。訪れたことがある人も、多かろう。そう、かの有名な上野動物園のあるところである。

 端から端まで歩くと足が疲れてしまうくらいに広い上野公園は、私のお気に入りになった。都会の喧騒に疲れるたび、私は上野公園で青葉の風を感じに行った。


 それは、ある夜のことだった。大学のサークルの飲み会で、二次会まで参加したあとのことだった。ふと、一人になりたくなったのだ。飲み会では私の苦手な詮索が多い。多分、お酒が入って相手との距離感を取り損ねてしまうからだろう。

 そんな少しの疲労を感じた私は、どこの駅からでも無心でたどり着く自信がある程に行き慣れた上野公園に行くことにしたのだ。

 夜の上野公園に訪れるのは初めてだった。駅の近くはがやがやと変わらず賑わうが、ひとたび公園に足を踏み入れれば、しん、とした静けさがある。

 駅の公園口から出て、オレンジ色の街灯を頼りに、深夜零時を過ぎるころ、私はふらふらと歩いていた。周りを見渡す限り、誰もいなかった。まるで私だけの空間のようで、気分を良くしながら気の向くままに歩いた。

 そんな時だった。私は強い視線を感じた。誰かに見られている。人から視線を向けられる、その感覚は、多分他の人より鋭敏だ。どこから私を見ているの。きょろきょろと辺りを見回すも、誰もいない。

 不意に、私は顔を上げた。


 大きな鯨がこちらを見ていた。


 国立科学博物館の外に展示された、実物大と言われる大きな大きなシロナガスクジラ。その大きな身体に似つかわしくない小さな目と、暗い中でもはっきりと目が合った。

 ぞくり、と背筋が凍るような心地がした。私はいま、見られている。勘違いなんかじゃない。クジラは私を見ている。


--お前のことを見ているぞ。


 そう言っているように聞こえた。強い視線と、簡単に人間の体を呑み込んでしまいそうな巨体に、私は怯んだ。私は視線から逃げるようにして、家に帰った。

 その日から、私は夜の上野公園に行くことができない。いや、本当は、昼間でもあのクジラが恐ろしい。私を見つめる瞳と目が合わないように、決して顔を上げずに歩くのだ。

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視線 貘餌さら @sara_bakuji

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