第05話

 午後7時過ぎ、京香は自宅であるタワーマンションに到着した。

 地下駐車場に自動車を置き、瑠璃とエレベーターに乗った。


「良い所に住んでるんですね。流石です」

「何が流石なのよ。これでもボロいわよ」


 今年で築二十四年になる建物だ。まだ綺麗な外観を含め、暮らす分には何も支障無いが、ステータスとしては自慢できないと京香は思っていた。

 この街も、一応は首都圏に含まれるが――実家と本社は、ここから電車で三十分ほどの距離にある都心部に位置する。京香は本社に移らない意思表示として、五年前にこのマンションの一室を中古で購入した。

 三十三階建ての二十四階で降りる。角部屋が、京香の部屋だった。

 そういえば客人を招くことは滅多に無いと思いながら、京香は瑠璃を部屋に上げた。


「どう? こんな所に住んでみたくなった?」


 リビングの灯りを点け、瑠璃に訊ねた。

 黒いキャップと黒いマスクの隙間から、瑠璃は気だるい目で部屋を見渡していた。

 京香には心なしか、物珍しさにソワソワしているように見えた。


「別に……。なんか、ダメ人間になりそうですね」

「失礼ね。あんたがそれ言う?」


 減らず口に聞こえたが、図星であるため、京香は特に怒らなかった。

 十三畳のLDKは整理されているというより、片付けが面倒であることから、京香はなるべく物を置かないようにしていた。だが、瑠璃の視線の先――ソファーの前に置かれたテーブルには、開けかけのウイスキーの瓶が並んでいた。この部屋で唯一、生活感のある光景とも言える。

 京香にとって現在の娯楽は『裏垢女子』観察の他、酒を片手に海外ドラマを観る程度だった。


「お腹空いたから、ご飯にしましょ。宅配ピザでいい?」

「えー。やることやって、さっさと帰してくださいよ」

「あんたねぇ……。もうちょっとムード作ってくれない?」

「そんなこと言われても、どうすればいいのかわかりませんよ。ピザと一緒にデリヘルでも呼べばいいじゃないですか、女同士オッケーの」


 京香は瑠璃から半眼で抗議される。

 一概に気だるさから放棄しているのではなく、本当にわからないといった態度だった。まだ互いをよく知らない間柄であるため、察することを求めるのは確かに酷だと京香は思った。


「いいから、ご飯食べながらお喋りしましょ。よく知らないけど、デリヘルはそういうの付き合ってくれないんでしょ? あんたはデリヘルじゃないの。私の所有物モノなの」

「はいはい……。何言ってるのかわかりませんけど、わかりましたよ」


 瑠璃は不貞腐れた様子で、ソファーに腰掛けた。

 京香は携帯電話を取り出し、インターネットで宅配ピザを一枚、適当に注文した。スーツのジャケットを脱いで、ダイニングチェアーにかける。キッチンからグラスをふたつ持って、ソファーへと向かった。


「せっかく良いキッチンあるのに、勿体ないですね」


 あまり使っている気配が無いと、瑠璃には少し見ただけでわかったようだ。

 確かに、京香は料理をすることがほとんど無い。今夜に限らず、夕飯は外食かスーパーマーケットの惣菜、もしくは宅配ウーバーで済ませることが多い。

 あんただって料理しないでしょ――そう言おうとして、口を閉じた。

 瑠璃はだらしない見た目だが、これでも栄養管理士の資格を持っている。どちらかというと、料理を出来ると考えるべきだ。


「そこまで言うなら、あんたの手料理食べてみたいわねぇ。私専属のコックにでもなって貰おうかしら」


 京香は皮肉漏らしながら、瑠璃の隣に腰掛けた。


「やですよ、面倒くさい」

「だったら余計なこと言わないの。ていうか、帽子もマスクも取りなさいよ――別に、写真や動画を撮るつもり無いから」


 瑠璃は、緩いウサギのキャラクターを模したリュックサックを、ソファーの隣に置いていた。

 だが、室内でも未だに顔を隠していることが、京香は気になった。記録を残すことを警戒していると思い、念のため付け加えた。


「はぁ。しょうがないですね」


 瑠璃は大きく溜め息をつき、仕方なくキャップを脱いだ。

 そういえば瑠璃の素顔を一度も見たことがないと、京香は気づく。仕事では白いマスクを、仕事外では黒いマスクを、それぞれ着用している。

 まるで、衣服を脱ぐかのように――瑠璃がマスクを外すところが、なんだか官能的に感じた。京香は緊張しながら、眺めていた。


「え!? ちょっと、なにそれ!?」


 初めて目にする瑠璃の素顔に、とても驚く。

 確かに、想像以上に可愛い顔だった。だがそれ以上に、瑠璃の口元が衝撃的だったのだ。

 下唇の左側に、銀色のピアスが付いていた。このような事例があることは知っていたが『実物』を見たのは初めてだった。


「うわぁ。あんた、ヤバくない? なんでリップに付けようって思ったの? これフェイクじゃなくて、マジなやつ?」

「ウザいから、触らないでください」


 京香は物珍しそうに指先を伸ばすと、確かに金属の冷たい感触がした。

 すぐに、瑠璃から手を払い除けられた。


「マジなやつですよ。ちゃんと自分で開けました。フェイクはダサいです」

「え? なに、その風潮? 私、産まれてこのかた一回もピアスホール開けたこと無いんだけど?」


 製造業を営んでいる以上、社則と同じく、妙泉の一族では普段耳にピアスを付けることがない。仕事外でのファッションとしては、穴が不要の『紛い物』を使用する。

 京香としては、それで充分だった。穴を開けることの憧れが無いどころか、恐怖心があった。


「ぷっ」


 瑠璃が小さく嘲笑った。

 彼女の価値観を京香には理解できないが、この態度に少し苛立った。


「大体、あんた何個付けてるのよ? こんなにも……バカじゃないの?」


 瑠璃の右耳に五個のピアスが付いていることを、京香は知っている。

 左のサイドヘアーをかき上げて、耳を露わにした。左側は、唇にひとつあるからだろうか――耳のピアスは四個だった。

 瑠璃の顔には左右非対称の配置で、合計十個のピアスが付いていた。唇がそうであるように、耳も全て自分で穴を開けたのだろう。京香は想像しただけで、痛々しく感じた。

 とはいえ――気だるい瞳と、黒髪に混じった紫のインナーカラーには、度を過ぎた数のピアスが確かに似合っている。『ダウナー系』を際立たせるファッションだと思った。


「はいはい、どーせバカですよ。他にやることありませんし、ピアスホール開けなきゃ、みたいな使命感……部長さんにわかるわけないじゃないですか」

「ええ、一ミリもね。ていうか、私だからいいけど……くれぐれも、仕事でバレないようにしなさいよ? 面倒事はゴメンだから」


 きっと耳と同じく、マスクの下も唇にピアスを付けたまま仕事をしているのだろう。顔のどこであろうと異物混入の危険性は均一だが――唇の部位は発覚した際、風紀的に大事になりそうだと、京香は思った。処罰する立場としても、回避したい。


「注意はしてますけど、バレたらそれまでです」


 京香はいい加減な回答よりも、瑠璃の口内に意識が向いていた。

 白い歯の奥には、特に変わったものが見えなかった。


「舌にはピアス無いのね。なんか意外」


 京香の持つ瑠璃の人物像として、有ってもおかしくない――むしろ、有る方が自然だった。


「だって、舌に開けるの超怖いじゃないですか」

「あんたの基準がわからないわ……」


 確かに、デリケートな部位であるには違いない。しかし、顔に十個のピアスホールを開けた人間が言うことではないと、京香は思った。

 そして、瑠璃は真顔でさらりと否定したが、京香は小心的な発言として受け止めることを逃さなかった。

 このヘタレと言おうとしたところ――インターホンが鳴った。

 京香は立ち上がり、応えた。思った通り、宅配ピザの到着だった。エントランスの扉を解錠し、配達員を建物に招いた。


「もうちょっとしたらピザ屋来るから、受け取ってくれない? あんたの仕事よ」


 たかが配達員にどう思われようと、普段は気にしない。だが今夜は『部屋にひとりではない』という主張をしておこうと、ふと思った。

 京香はその意図を隠し、何気なく瑠璃に伝える。ソファーに戻って座ると、入れ替わりに瑠璃が立ち上がった。


「まったく……それぐらい、自分でやればいいじゃないですか」


 瑠璃は、文句を言いながらも玄関へと向かった――黒いマスクを着けながら。

 赤の他人を相手に口元、或いは素顔を隠したいようだ。


「本当に、あんたの基準がわからないわ……」

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