第03話

 四月十二日、金曜日。

 週末の今日、京香は行動に出た。


「妙泉部長、おはようございます!」

「おはよう、両川さん」


 午前八時過ぎに出社後、目を輝かせている両川昭子からの挨拶を適当に躱す。

 オフィスの隅では、全身白衣姿の小柄な人物が、ぼんやりと立っていた。非正規雇用の派遣社員に、誰も気を取られていない。


「小柴さん、今日の十七時に三階の第三会議室まで来てくれる? 仕事の話よ」


 京香は小柴瑠璃にそっと近づき、小声で用件を伝えた。この接触を、周りの人間は気づいていないだろう。


「え……。あっ、はい……」


 瑠璃は少し戸惑った後、頷いた。

 渋々頷いたように、京香には見えた。帽子とマスクの間から覗く瞳は、いつも以上に気だるげだった。

 嫌がる様子に、京香の背筋がゾクゾクと震える。ほくそ笑むのをぐっと堪え、この場を立ち去った。

 そして、社内ネットワークの会議室予約システムから、部屋の利用を押さえた。


 やがて午後五時を過ぎ、京香は手ぶらでオフィスを離れた。階段で三階へと上がる。

 三階の廊下は静かであり、人気が無い。遠くから、製造現場の機械音が聞こえる。週末の、この時間帯だからだろう。大小三つの会議室があるが、他ふたつは使用されていなかった。

 第三会議室も、廊下からは灯りが点いていないように見えた。しかし、京香が扉を開けると――夕陽に照らされた全身白衣の人物が、六人がけテーブルの傍に立っていた。

 部屋は薄暗いが、灯りは不要だった。京香は微笑み、腰で手を隠しながら部屋の鍵をそっとかけた。


「お待たせ、小柴さん」


 挨拶をすると、瑠璃がぺこりと会釈する。相変わらず、気だるい様子だった。

 京香は椅子に座ることも、瑠璃に促すこともなかった。互いに立ったまま向かい合った。


「早速なんだけど……帽子脱いでくれる?」


 仕事で直接絡むことが無いとはいえ、京香は瑠璃にとって配属先の部長だ。笑顔で告げたが、これは提案でなく、拒否権の無い命令だ。

 瑠璃の小さな身体が僅かに強張ったのを、京香は見逃さなかった。

 命令に、瑠璃は動こうとしない。だが、やがて――渋々帽子を脱いだ。

 諦めたように、京香には見えた。それもそのはずだ。帽子の下は髪がまとめられているため、脱いだ瞬間に耳が露出した。髪で隠すことは、間に合わない。

 京香は一目見て――瑠璃の両耳に、左右非対称に無数のピアスが付いているのがわかった。


「この前、帰り際にチラっと見えて……もしかしてと思ったのよ。ダメじゃない、ルールはちゃんと守らないと」


 更衣の際に着脱していない確信があったわけではない。している可能性と所詮は五分であった。

 とはいえ、どちらに転んでも京香の目的に支障は無かった。こうして規則違反の注意をしたのだから『仕事の話』が嘘ではないと、結果的に正当化することができたまでだ。外していたとしても、予防として軽く注意していただろう。


「すいません……」


 瑠璃が小声で謝罪する。本当に反省しているのか、それともかたちだけの振りなのか、京香にはわからない。

 本心としては、ピアス着用禁止の規則など、どうでもよかった。脱落して製品に混入することは、滅多に起こり得ない事象だ。製品ラインに立っていないのだから、なおさらだ。


 そんなことよりも――京香は瑠璃に近づき、瑠璃の右耳に手を伸ばした。耳輪にそっと触れると、瑠璃の身体がビクッと震えた。

 あのいかがわしい写真を保存し、目に焼き付けるほど見た。『ぁぉ∪』の右耳ピアスホールの位置を、しっかり記憶している。

 だから、触れている耳と全く同じであると、わかった。


 京香は目的を果たした。たとえ同じであっても、ここで一度引くはずだった。

 しかし、規則違反を責められて居心地を悪くしている瑠璃に、なんとも言えない興奮を覚えた。内から込み上げてくる衝動を、抑えきれなかった。

 京香はジャケットのポケットから、携帯電話を取り出す。保存していた『ぁぉ∪』の写真を開き、画面を瑠璃に向けた。


「これ、貴方よね?」


 画面を見上げた瑠璃の瞳が、大きく見開く。そして、すぐに視線を外して俯いた。

 自分の口元が大きく歪んでいることに、京香は気づいていなかった。それほどまでに、喜びに満ち溢れていた。

 あの『ぁぉ∪』が――画像を閲覧して実際に触れてみたいと思っていた存在が、目の前に居る。正体は小柴瑠璃であると、確証を得た。


「どうして……」


 瑠璃が小さく、しかしやり切れなさを込めて呟く。

 無理もないと京香は思った。広大なインターネットの世界で細心の注意を払っていたにも関わらず、職場の人間にこうして特定されたのだ。あの『裏垢』にたどり着くこと自体、本来であればあり得ない出来事だろう。

 京香自身、とても驚いていた。『ぁぉ∪』が身近に居たことも、正体を特定したことも、どちらも偶然に過ぎない。ふたつが重なったことは、奇跡に近い。

 しかし、実現した。奇跡をこの手に掴み取った。


「安心なさい。私しか知らないわ……まだ、ね」


 おそらく瑠璃は、誰かからの告げ口があって呼び出されたと思っているのだろう。

 京香はそれを否定したうえで――今後の可能性を匂わせた。

 顔を上げた瑠璃の表情は、強張っている。


「これも一応、風紀を乱す行為になるのかしら。貴方を解雇する事由としては、充分ね。或いは……私が社内に『噂』を広めれば、貴方はここに居られなくなる。ねぇ、どっちがいい?」


 京香は可能な限り爽やかな笑みを浮かべ、訊ねた。


「わかりました。この会社から、出ていきます」

「やめたとしても――私がネットで流せば、貴方はお終いよ?」


 想定通りの返答に、京香は間髪を入れずに退路を潰した。

 顔を上げた瑠璃から、強く睨まれる。マスクをしていても、雰囲気の大きな変化は伝わった。普段の気だるい瞳から一変し、必死に訴えてくる様が、たまらなく面白かった。

 非正規雇用の派遣社員など、京香にとっては有象無象の中でも――とても小さな存在だ。生殺与奪の権利を握るなど、手段を選ばなければいくらでも可能だろう。

 そのようなことにこれまで一切興味が無かったが、こうして初めて手にした。偶然にも、手のひらに舞い込んできた。

 京香はとても気分が良かった。映画で悪人が下卑た笑みを浮かべる理由を、わかった気がした。きっと、どのような人間でもこの状況になれば『玩具』で遊ぶと思った。


「……お金ですか? 生憎ですけど、わたし貧乏ですから毟れませんよ?」

「そんな非道いことはしないわ。生憎、お金には困ってないから」


 京香は瑠璃の後頭部に手を回し、まとめていた髪を解いた。

 紫のインナーカラーの入った長い黒髪が、流れ落ちる。滑らかな髪を指先で滑らせながら、この女性が『ぁぉ∪』だと、改めて感じる。

 優しく微笑みかけた。


「いったい……何が狙いなんですか?」


 僅かな怯えが混じるも、瑠璃の警戒は一向に解けない。


「何かの駒に使うこともしない。というより、悪いようにはしないわ。私はただ、貴方のいやらしい写真に魅入って……貴方を可愛がりたいのよ」


 夕陽に照らされ、左右の耳に付けられた無数のピアスが輝いていた。一風したファッションが、まるで『弱者』の象徴のように京香は感じた。

 この女性がどのような半生を過ごしてきたのかは、わからない。何にせよ、金も地位も誇りも無い『持たざる者』だ。

 だから京香は、自分が恵まれた環境に居る『持つ者』なのだと、改めて思った。

 瑠璃とは怠惰な部分が、確かに似ている。だが、ちょうど正反対の位置に立っている。強者と弱者。そして――奪う者と、奪われる者。

 ただ、この女性が欲しい。

 方法なら、いくらでもあったはずだ。しかし京香は、敢えて『脅迫』を選んだ。支配する者と、される者。ふたりを繋ぐ『絆』を、歪なものにした。

 このような真似が周りに知られたら、自分も只では済まないだろう。それでも、敢えて危険を犯した。互いに秘密を共有したうえで、支配する手段を取った。弱者の体だけでなく、心も弄びたかった。

 面白いからであった。

 思えば――欲しいものなど何も無いぐらい、退屈な毎日だった。その中で、ようやく欲しいものを見つけ、こうして行動に出た。

 今は、かつてないほどの充実感に包まれている。きっともう、アクビを漏らすこともないだろう。

 そう。目当ての『女性』だけでなく、ようやく『刺激』も手に入れたのだ。

 どちらも大切にし、そして心ゆくまで楽しみたい。結末など知らない。刹那的な快楽に、身を委ねよう。


 京香は瑠璃の髪からマスク越しの頬、そして顎へと指を滑らせた。

 瑠璃の顎を持ち上げ、顔を見下ろし――強引に目を合わせる。


「黙っていて欲しいなら、私の所有物モノになりなさい」



   アナタはわたしの手の中

   live seriously



(第01章『ピアスホール』 完)


次回 第02章『ぁぉU』

京香は瑠璃を自宅に連れ込む。

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