第02話

 四月十日、水曜日。

 午後四時過ぎ、京香はオフィスの自席で、材料仕入先からのメール返信を作成していた。

 京香の前方――最も近い席に座っているひとりの女性が、京香に振り返る。

 アッシュグレージュの前髪無しショートヘアの彼女は、開発一課の課長である三上凉みかみりょうだ。開発一課が置かれたこの工場は焼き菓子を製造し、開発二課のある別工場では水菓子を製造している。


「部長、ちょっと休憩いきませんか?」

「ええ。いいですよ」


 京香は誘いに頷き、ふたりで席を立った。

 通常の休憩時間は午後三時からの十分間だが、管理職以上はこうして変則的に取ることが多い。

 ふたりで向かった先は、工場内の屋内喫煙所だった。途中、京香は自動販売機で温かい缶コーヒーを二本購入した。

 他に誰も居ない――狭い部屋に入るなり、凉が加熱式タバコを取り出した。


「なんていうか……平和だよね、ここ最近」


 密室でふたりきりになるなり、凉が漏らした。


「そ、そうですね」


 京香は缶コーヒーを一本差し出しながら、相槌を打つ。

 人目の無い所で溜口を使われても、構わなかった。二年先輩――三十四歳独身の凉を、現在も敬っているだけではない。


「新商品の開発遅れてるの、本社うえからうるさく言われると思ってたけど……『京香部長』のお陰かなぁ」

「あはは……。弾除けぐらいにしかなりませんよ、私は」


 皮肉を込められていると京香は思ったが、凉にその意図があるのか定かではない。

 商品開発部の実態として、実質的なトップは凉であった。京香だけでなく、新入社員である昭子を除く部署内の人間全員がそのように感じているだろう。最も有能であり、かつリーダーシップも備えている人間だ。

 京香は入社から商品開発部に在籍しているが、特に大きな実績が無い。無能だと自覚している。周りからも、そのように見られているだろう。それでも、本社から与えられた部長の座になんとか座っていられるのは、凉の御陰だった。


「私ね、この春こそ京香が本社に行っちゃうと思ってたよ。専務、そろそろ高齢としで退くでしょ?」


 株式会社妙泉製菓は、妙泉家の一族による同族経営だった。

 現在の代表取締役は京香の母親であり――長女である京香が次期つぎを担うという空気が、社内に漂っている。

 事実、京香は跡継ぎとして育てられ、その自覚がある。


「私としては、もうちょっとモラトリアムを過ごしたいな、って」

「三十二の女が言うことじゃないよ、それ」


 京香は苦笑すると、凉が笑った。

 年齢やキャリアとして、そろそろ経営側に立たなければいけない自覚もあった。実際、そのような圧を本社から受けている。

 しかし、なんとか躱し――本社から離れた工場で身の丈に合わない役職に、まだしがみついていた。仕事へのやる気は皆無だ。そのような性格なのだ。己のわがままで、多くの人間に迷惑をかけていた。


 京香は不味い缶コーヒーを飲みながら、ふとジャケットのポケットから携帯電話を取り出した。ロック画面には、メッセージアプリの通知が表示されていた。『婚約者』から、今夜の食事の誘いだ。小さく溜め息をつき、返事をすることなく携帯電話を仕舞った。

 会社経営者の令嬢として産まれ、物心ついた頃から敷かれたレールを歩く人生だと察していた。金銭に地位に、多くのものを親から与えられた。婿養子として迎える婚約者も、そのひとつだ。少なくとも、京香からの愛情は無いが。


 恵まれた環境を、甘んじて受け入れていた。何不自由なく育ち、不満は無かった。

 だが、満足もしていない。かといって、他にやりたいこともない。

 怠惰で、そして退屈な毎日だった。何も変化は無いが、そろそろ『潮時』だと薄々は感じている。いい加減、凉に部長の席を譲るべきだろう。

 それでもここでしがみついているのは、敷かれたレールの人生に対しての、些細な反抗のつもりだった。現在になって『反抗期』が遅れてやってきたと、京香は思っていた。


「はー……。四月だっていうのに……何か面白いこと、ありませんかねー」


 京香は大きくアクビを漏らした。

 いくら反抗を見せても、日常の『刺激』にはならない。新しい季節でも、特に変化は無い。せめて、このアクビを止めたい。


「まあ、何事も平和が一番だよ。ていうか、両川のこと可愛がってあげなよ。あの子、京香に懐いてるし……若い子育てるの、面白いよ?」

「すっごい苦手なタイプだから、三上さんにお任せします。そんなことよりも……もうひとりの方はどうなんですか?」

「そんなことって……。え? もうひとり?」

「ほら。派遣で新しい子、入ったじゃないですか」


 小柴瑠璃だと、京香ははっきりと氏名を覚えていた。だが、派遣社員にそこまで興味を示していると思われたくないため、敢えて伏せた。


「ああ、あの暗い感じの子ね。うーん……可もなく不可もなく? 言われたことはちゃんとやってるみたいだけど、かといって『出来る』わけでもなさそう。良くも悪くも空気なんじゃない?」

「へ、へぇ」


 凉の報告に、京香はとても納得した。存在感がとても薄いため、まさに相応の評価だと思った。

 何はともあれ、派遣会社に苦情を入れることは無いだろう。ひとまず三ヶ月の契約満期まで瑠璃が居ることに、少し安心した。


「ぶっちゃけ、すぐ来なくなると思ってたから……毎日来てることが意外だよ。あからさまにやる気無いの、京香よりヤバいもん」

「いやいや……私で比べないでくださいよ」

「えー。京香とあの子、なんか似てると思うけどなー」


 確かに、やる気の無い内面は似ていると、京香は思う。

 しかし、周りの目からそのように見られていたことが、意外だった。嫌悪感を抱くことも、喜びが込み上げることも無い。

 ただ――自然と目を追っていたのは親近感があったからだろうかと、京香は自分の無意識を疑った。



   *



 婚約者からの誘いを断りきれず、京香は夕飯を共にした。

 ひとりで暮らしているタワーマンションの一室へ帰宅したのは、午後九時半だった。入浴後、安価なブランデッドウイスキーを炭酸水で割ったハイボールを飲んだ。軽い酩酊では嫌な気分が鎮まらないが、午後十一時には寝室のベッドで横になった。


 ベッドで携帯電話の画面を、ぼんやりと眺める。

 ふと、インターネットブラウザを開けた。とあるプライベートSNSサイトを開き、ログインした。

 ファンとしてクリエイターを支援する見返りとして、限定的なコンテンツの閲覧を可能とするサイトだ。金銭が絡むので年齢制限が設けられているが――実態としたは、ほとんどが性的な目的として利用されている。京香はポルノサイトとして認識していた。実際、性的表現が厳しい『表』の大手SNSから誘導するケースが多い。

 京香のお気に入りである『ぁぉ∪』も、クリエイターとして登録していた。クリエイターによって支援プランは様々だが、彼女は月額三千円、五千円、一万円の三つを開設していた。

 京香は一万円を毎月支援している。この額になれば一般的に裸体の画像や自慰の動画、或いは顔を隠す加工が薄いものが用意されている。しかし、彼女はせいぜい『下着の半脱ぎ』で留まっていた。大きなスタンプで顔を徹底して隠していることからも『表』の投稿とほとんど変わらない。

 人によっては騙されたと感じるだろうが、京香は支援行為そのものに満足していた。これだけが、唯一の干渉つながりなのだ。


「ん……」


 最後に投稿されたのは四日前だった。京香は一万円で閲覧可能な画像を適当に眺めながら、股間に手を伸ばす。

 よく目にしている『ぁぉ∪』の服装はルーズでチープだが、下着はランジェリーと呼べるほど高価なものだ。ギャップに興奮するだけでなく、張りのある白い肌にとても似合っていると京香は思う。

 彼女がどのような人物であるのか、京香は全く考えたことが無いわけではない。気にならないと言えば、嘘になる。だが、どうでもよかった。フォローしている他の『裏垢女子』に対するものと同じく、視覚から得られる情報だけで充分だった。それだけで、嗜好に合うと言えた。

 そんなものよりも、絶対に叶うわけがないが、この手で肌に触れてみたいと思う。


「え――」


 ふと、一枚の写真が目に留まった。

 青いブラジャーのカップに指をかけ、乳首までは見えないが――乳房との隙間を見せている自撮り写真だ。『ぁぉ∪』の写真は、紫のインナーカラーの入ったサイドヘアーが胸部にかかっていることが多い。しかし、そのような構図であるため、サイドヘアーをかき上げていた。

 だから、右耳が写っていた。普段は耳までをスタンプで隠しているため、とても珍しい一枚だ。きっと、彼女にしてみれば見せる意図は無く、偶然写ったに過ぎないのだろう。

 京香としても、以前目にした際は何も気にならなかった。

 しかし今は、合計五つのピアスが付いている右耳に、目がいった。

 長い黒髪に紫のインナーカラーが入った女性は、この世界で確かに数多く実在するだろう。

 だが、ルーズな格好と無数のピアスを付け加えたなら――限られるのではないだろうか。

 そして『ぁぉU』というアカウント名なまえが、改めて色を連想させる。


「まさか……」


 京香の中で性欲が鎮まると同時に、ある予感が芽生えた。

 性的な写真を見入りながら、トクントクンと心臓の高鳴る鼓動が聞こえた。

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