4 小さな手

厳しい両親に育てられた私たちは、何不自由なく生活を送り、大学まで行かせてもらったが、愛情に飢えていた。兄と私はお互いに寂しさを抱えながらも、感情をコントロールする術を身につけた。だが、人に興味が出始めたとき、「人を想う」ことに難しさを感じた。兄も学校での人間関係に困難さを感じていたようだったが、自分の考えを曲げることのない彼は、自分を守るため、早くも一人で生きていくことを決めていた。それでも人の温もりを期待していた私は、兄とは逆に、人との関わりに苦難しながら学生生活を送った。

私の人生には不運は付き物だ。

これまでの努力を嘲笑うかのように、突然の病が私を襲った。学生の頃に何度も手術を繰り返し、やっとの思いで築き上げた人間関係は、虚しく崩れ果てた。両親は大金を病院につぎ込み私の治療費にあてたが、一度も病室に来ることはなかった。両親に代わって、兄だけが私の病室を訪ねてきてくれた。

いつの間にか学生生活は終わりを告げ、通信制で高校を卒業した私は、大学に進学した。だが、その頃には、子供の産めない体に変わり果て、病院を出て社会に出る頃には、友人とも疎遠になり、地元への未練もなくなっていた。早くも家をでていた兄を追うように、大人になった私も家を出た。

それぞれの道に進んだ私たちだったが、どちらからでもなく、心が疲弊した時はお互いに頼りあってきた。過酷な家庭環境に産まれたからこそ、強く結びついた、たった一人の分かり合える兄妹になっていた。

人の温もりを求めた私は、数人の男性とお付き合いをした。どの人も優しい人だった。この世界にも、温もりがあると思えるほどに。だが、少しずつ結婚を考え始める年になり、将来を考える相手と対面した時、自分の身体は疎まれた。

「子どもが欲しいんだ」

「将来を考えられないんだ」

別れ際に言われる言葉は、彼らの正直な気持ちだった。何度足掻いても、どんなに想う気持ちを育てても、私が「最後」を変えることなどできなかった。

それでも人との関わりをやめなかった私を第三者は笑うだろう。

だが、兄だけは笑わずにそこにいた。彼自身は、相変わらず、仕事に打ち込み、最低限の人との関わりだけで生活を送っていたが、人を求め続ける私を見て、羨ましいと呟くこともあった。私も兄に人と関わるよう強要することはなかったが、酔った時に稀に見る、少し寂しそうな瞳を見ると、胸が締め付けられるような感覚を覚えたのは確かだった。それでも兄が生き方を変えることはなかったし、私も人を想うことを諦めることはなかった。

そして私は、ある人と出逢った。彼と巡り逢ったのは、恋愛においても人間関係においても疲れ果て、思いがけぬ転勤でひと段落が終わるとホッとしていた時だった。彼と出会ってから、兄が私を心配することもなくなり、頻繁に会うこともなくなっていた。それがいいことなのかは分からないが、それが私たち兄妹の形だった。

彼と1日を過ごした次の日のことだった。4ヶ月ぶりに兄に再会した。二人で飲み屋に行くのは久しぶりだったが、兄は何も変わっていなかった。少しは人と関わろうと、恋人を作ってみたりもしたと話していたが、すぐにお別れをする羽目になったらしい。兄の淡白な性格についていける人はそう居ないだろうと納得した。兄は私をみて、羨ましくなったと話してくれた。自分では辿り着けない終着点だと珍しく熱弁していた。

「二人は、運命さ。俺は神とか愛だとかは信じないんだけどさ、二人を見てると、もしかしてと信じてみたくなる何かがあるんだよ。これは直感に近い感覚なんだけどさ。不思議だよな。でもよかったよ。」

酔った兄が顔を少し赤らめながらそう話していた。私も嬉しくなって、水の滴るジョッキを勢いよく口に運んだ。

私が人と関わることを選んだのは、不器用でもそばにいてくれる兄のような存在を知っているからだ。兄がいつもそばにいてくれたことで、私は人の温もりを知っている。兄が不器用ながらも、両親に代わって味方でいてくれたことが、人と関わる勇気をくれている。私には帰る場所がある。この事実が、人と関わるという困難を乗り越えさせているのだと思う。だから兄には感謝をしている。兄に話したことはないが、いつか伝えられたらいいなと、今はそう思った。

私は、気恥ずかしさと、「ありがとう」の言葉を飲み込むように、新しく注がれた赤く光るワインを口に含んだ。喉に渋さが広がり、後からじんわりと熱いものが込み上げてくるのがわかった。


隣の部屋から止まない泣き声がしている。そっと目を開ける。窓から月明かりが差し込み、部屋の中を恐ろしいくらいに照らしていた。暖かな布団の中からやっとのことで抜け出し、ドアに向かって音を立てないように歩く。床に重さがのしかかり、板の軋む音がいつもよりも大きく聞こえて、首元から全身にかけて鳥肌が立った。ドアノブに手をかけ、なるべく音が鳴りませんようにと祈りながらドアを開ける。ギーキーという些末な音が廊下に響き渡ってしまう。開いたドアと壁との小さい隙間に、自分の身体を滑り込ませて廊下に出た。まだ廊下に響いている泣き声。少し疲れてしまったのか、最初に聞いた時よりも少しだけ声が小さくなっている。床にそろりと脚を下ろすと、その冷たさが身体を貫く。足音をさせないようにゆっくりと廊下を進む。階段から下の階の様子を少しだけ覗こうとしたが、階段から下は何の灯もなく、ただの真っ暗闇でしかなかった。階段を挟んで向こう側の奥の部屋から泣き声がしている。奥の部屋への道のりが、とても長く感じる。冷や汗が顳顬から頬にスーッと滴るのを感じながら、やっとの思いで目的地に辿り着く。部屋のドアは開け放たれていた。部屋の中はとても質素な面持ちで、窓からは夜空が覗いている。月明かりで、部屋の中がぼんやりと浮き出されている。部屋の真ん中にはベビーベッドが置かれ、泣き声の主がそこにいた。小さな拳がベッドから伸ばされ、泣き声に合わせて上下に動いている。ベビーベッドに近づくと、その小さな手はちょうど自分の目の高さに伸ばされていた。すっかり冷たくなった自分の手を出来るだけ温めようとハーっと息を吹きかけてから、揺れ動く手に触れた。泣き声が少しずつ静かになっていく。僕に気づいたのかな。そう思った。

「やあ、初めましてだね。」

答えてくれないだろうとは思いながらも、小さな手を両手で包み込んだまま、囁きかけてみた。こんなにも寒い夜なのに、赤子の手はとても温かかった。大人たちに比べて、僕の手は小さかったが、それよりもさらに小さなその手が、僕の手の中で開いたり閉じたりしている。やがて掴むものが見つかったというように、僕の右手の小指をぎゅっと握った。僕は嬉しくなって、顔を上げる。そこには、丸々とした可愛らしい顔に浮かぶ愛おしいほどの笑顔があった。思わず頬が緩んでいくのが分かった。僕は彼女に微笑みを返していた。

「今日僕がここに来たことは大人たちには内緒だよ」

もう一度囁いてみた。今度は左手の人差し指を口元に当ててから内緒の合図をした。すると彼女は僕の小指を掴んだまま腕を上下に動かして、

「あーあー」

と嬉しそうに笑った。薄暗いこの部屋にいる彼女の顔を、不思議とはっきり捉えることができた。

最初に妹を見たのは、彼女が僕の家に来てから数日が経った、この夜のことだった。だが、両親が僕に妹を見せたのは、それから2年ほど過ぎた頃だった。

代々、お金に困ることのない家系に生まれた僕は、欲しい物が手に入らなかったことはない。だが、父が家にいることはほとんどなく、働くことのない母と話した記憶も遊んだ記憶も僕にはない。幼い頃の僕は、両親を見かけても家にいる他の大人たちと何ら区別はなく、ただ偉そうな大人という認識だった。身の回りのことは色々な大人たちが日々代わる代わるしてくれる。不自由はないが居心地は良くなかった。することは大きくなるにつれて増えていき、楽器の練習から書道、読み書きの勉強に読書、何もかもがスケジュールで管理されていた。僕が小学生になった時、妹ができたことを知らされた。ある日、いきなり泣き声が家中に響き渡り、これが妹だと別室でその声だけを聞きながら父に言われた。両親が僕と妹を会わせなかった理由など説明してくれるわけもなく、僕が妹に怪我をさせるかもしれないからか、僕のスケジュールに妹と触れ合う時間が残っていなかったからか、真意は今でも分からないままだ。

僕が小学校1年生も半ばになって初めて、母が妹を抱いて僕の部屋に来た。それまでも、その後も、母が妹に触れている姿を見た記憶はない。両親にとって「子育て」は予定には入っていないらしかった。ただ、子どもに求めるものは、「結果」だった。誰よりも優れている息子を求めた父の期待に応えようと必死になる日々だった。

だがいつの間にか人の輪に入れなくなっていた。人との関わりが怖くなっていた。そんな僕とは似ても似つかないほどに、妹は人にぶつかっていった。中学の頃の冷めた自分は、まだ幼い妹が涙を流す姿に、胸を痛めると同時に滑稽だとも思ってしまった。それでも諦めることの知らない妹の勇姿は、僕の心が凍ってしまわないよう留めていたのだと今更ながら気づいた。あの頃は滑稽に見えた彼女に、今では感謝している。

彼女の泣く姿は見たくない。毎回のようにそう思った。だが、僕には何をどうしたらいいのか分からなかった。ただ、沈んだ顔の妹のそばにいて、また笑顔になれと祈ることしかできなかった。少しでも泣かなくて済むように。ただそれだけを願った。

だが、そんな僕の願いとは裏腹に、彼女の穏やかな顔には、少しずつだが確実に、笑顔どころか何の感情も映らなくなった。

妹が病気を患ったのは、高校2年生の夏頃だった。僕は両親の住む家から少し離れたところにアパートを借り、一人暮らしをしながら大学生活を満喫していた。彼女から入院する知らせを受けたのは、うんざりするほどの暑さに耐えながら、大学のキャンパス内を歩き回っていた、ちょうどその時だった。

―私、入院する―

妹からのメッセージはその後に病院名だけ綴られた簡素なものだった。背中に一粒の汗が滴るのを感じた。その後すぐに、脳内が真っ暗になったような感覚に襲われ、ただただ、画面に映る数文字を眺めながら、自分の鼓動が耳の奥でドクンドクンと少しずつ大きく、速くなっていくのを聞いていた。唯一の家族を失うかもしれないという恐怖が頭をよぎる。

だめだ。

働かない頭をそのままに、足が勝手に動き始めていた。

落ち着きを取り戻し、僕が病室に着いた時には、彼女は一人ベッドに横たわりただ窓の外を呆然と眺めていた。

「桜依!」

病室のドアを開けたまま、妹の姿を見るなり、声を発していた。自分の声が違う人の声のように頭の中でこだました。

「来てくれてありがとう」

僕の声に少しビクッと肩を弾ませながら、振り返り、疲れたような笑顔をこちらに向けた。

両親は病院には来なかったらしい。父の秘書が父に代わって医師から病状を聞き、父に代わって大金を病院に置いていった。家族が来たのは僕が最初で最後だった。大金のおかげで、妹は個室で静かに過ごせ、最新の医療で治療を受けることができた。それでも妹が高校に戻れることはなく、卒業できたものの、彼女の学校生活はいつの間にか終わりを告げていた。大学からの再出発をと臨んでいた彼女だったが、社会人になると妹の顔から表情は消えてしまっていた。そんな彼女に何もしてやることもできずに、ただ隣に座っていた僕。幼い頃から、何も変わっていない自分が惨めに思えてならなかった。こんなにも卑しい兄を慕う妹が不憫でならなかった。

僕たちに両親はいない。

僕に帰る場所はない。

だが、妹にだけは同じ気持ちを抱かせたくなかった。

ただそれだけだった。

自分の生活に踠きながらの日々。妹との連絡も最後がいつだったか忘れるほど日が経っていた。

―彼氏ができたよ―

そう送られてきたメッセージに少しの違和感を覚えながらまたご飯でも食べに行こうと返事をする。久しぶりに妹と飲みに行けるなとその日は気分がよかった。

長らく見ていなかった妹の顔は、頬がほんのり赤みがかっていて元気の良い少女のようだった。

「彼とは喫茶店で会ってね、そこの喫茶店もとっても素敵なの!でね、…」

席に座るなり話し始める妹。次々に運ばれてくる温かなおかずをそっちのけで機関銃のように話す妹に圧倒されながら、彼女のキラキラ光る瞳に魅入ってしまっていた。

嗚呼、こんなにも可愛らしい表情をするのか、そうだった、あの夜僕の小指を一心に握っていた時も愛おしいこの笑顔をしていた。

そんなことを思いながら、頬を赤らめて話す妹をただ眺めていた。

「よかったな。」

そっと呟いて、水の滴るビールジョッキを口に運んだ。

「羨ましいよ」この言葉だけは口の中でシュワシュワと泡立つビールと一緒に飲み込んだ。


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