3 僕
煌く星。淡く光る月。私たちを包み込む夜の闇。だけれど私たちの間には光があるように感じた。私は彼を見上げる。目に涙を浮かべて。彼が私の方へ手を伸ばす。私は彼の胸に顔をうずめた。
「あなたの、あなたのそばに、いてもいいですか」
私は小さな声でそう言った。
「もちろん。」
彼はそう言う。嬉しかった。
静かな夜に雪が舞い始めた。
彼の姿を見たのは、あの日以来。あの日、彼はただ私を見つめていた。彼の中から私が消えてしまっていることは怖かった。だけれど、それ以上に彼が消えてしまうことの方が怖かった。
病院から一本の電話が入った。
交通事故だった。
道路に飛び出した子どもの身代わりになった彼は、トラックに撥ねられた。幸運にも息はしていたらしい。意識不明の重傷。緊急手術。彼が手術室から出てくるまでの間、私の思考は停止していた。程なくして、病室に運ばれた彼。ベッドに横たわる彼のそばに立ち尽くし、私はただ涙を流すことしかできなかった。
数日後、彼は意識を取り戻した。ベッド脇で涙目になっていた私に、彼は困ったような顔を向けて、
「ありがとうございます。」
と言った。
彼は全ての記憶を失っていた。
それでも私は、病院に通い続けた。私は彼の婚約者であること、彼は小説家であること、彼の名前、私の名前、友人たち、仕事のこと、…
それでも、一夜明けると彼の記憶はまた振り出しに戻っていた。
彼とまた一緒に過ごしたい、そんな一心で私は彼に話しかけ続けた。
そんな日々を過ごし、一年が過ぎた頃だった。彼の傷も癒え、退院の日が近づいていた。いつものように病室に入った私に、彼は言った。
「僕は小説家なんです。」
思い出したんだ。私は一瞬そう思った。
「喫茶店で紅茶を飲みながら、小説を書くんです。週に一日だけドライブの日を設けて息抜きもするんですけどね。」
彼は私に微笑んだ。あの優しい笑みで。
しかし、彼の世界から私はいなくなっていた。
退院を目前に、彼は病室から姿を消した。
意外にもすぐに彼の居場所はわかった。
彼が来たと連絡が入ったのは、彼が消えてから数日が経っていた。彼の友人で、行きつけだった喫茶店の店主の賢さんが、私に彼が店に来ていると電話をかけてくれたのだ。彼はただ元の生活を送っていた。いつもの喫茶店で、いつもの席に座り、いつもの紅茶を嗜んで、いつものように文章を綴る。
彼の中から私が消えてしまっていることは怖かった。だけれど、それ以上に彼が消えてしまうことの方が怖かった。
だから私は、彼のことを知らないふりをした。私のことを思い出してくれる日を祈って待ち続けることを決めた。
私は、颯爽と喫茶店の扉を開いた。彼の姿を見たら、涙を流してしまいそうで怖かった。だから見なかった。カウンターに座り、珈琲を頼んだ。賢さんも知らないふりをしてくれたのは幸いだった。
彼の視線を感じた。嬉しかった。また私を見てくれるのが。私のことがわからなくても、また私に気づいてくれることが。嬉しくも悲しくもあった。彼の啜る紅茶の香りがカウンター席まで漂ってくる。嗚呼、彼が紅茶を飲んでいる。彼の珈琲はこんなにも苦かったのかと思いながら何度も瞬きして涙を抑えた。
「凄く美味しいです。」
私は絞り出すようにそう言った。誰に向けるでもなく、ただどうしようもない想いを抑えるために何か違うことを話さなければと思った。涙が頬を伝うのがわかった。もう流れる涙を抑えることなどできなかった。
「ありがとうございます。」
賢さんは私の涙には気づいてないフリをしてそう言った。ただただその気遣いが今の私には有難かった。私は涙を拭って、店を後にした。これ以上ここにいたら、彼に泣きついてしまいそうだ。
またここに来よう。彼が生きているのだから。
そう思った。
喫茶店で、彼と話すこともできた。彼が私に話しかけてきた時は、少し戸惑ったが、それでも、彼が楽しそうに話す姿を見ていられるのは嬉しかった。彼の世界にもう私はいないことが悲しくなっていると、彼はとても心配そうな顔をして私を見つめる。そんな姿さえも愛おしく思えて、恋しくも思えて。それでもどうすることもできずに、ただ彼に微笑みを返す。そんなことしかできない私を許してと心の中で呟きながら。彼はそんな私を見て、また困ったように微笑みを返してくれた。
喫茶店にいる私がどんなに優雅であっても、一人でいる時の私は、もうすでに壊れてしまっていた。彼との生活が消えてしまった今、私には生きる意味など見いだせなかった。そんな私を見かねて兄が私を訪ねてきた。
「死ぬ気か?」
深く隈のできた私の顔を見るなり、兄が言った。玄関の扉を大きく開けて入ってきた兄は、靴を揃えることもなくずかずかと部屋に上がってきた。呆気にとられながら兄の後ろ姿を追う私をよそに、兄は、生活感のないだだっ広い部屋を見渡し、冷蔵庫を乱暴に開け、少しため息を漏らす。
「馬鹿か。」
何か言い訳をしようと働かない頭に考えを巡らすが、兄に言い返すことなどできなかった。
兄はそう言って、私に支度をするよう促す。部屋に引きこもる私を兄は、デパートへと連れ出した。
兄の高級そうな愛車に揺られながら、デパートに着く。何も話さない兄はいつもよりもオーラが漂っているようだった。デパートに着いても兄は必要最低限のこと以外は話さず、次々と店を行き来する。長い脚を大きく開いて歩く兄に置いて行かれまいと少し小走りになりながら、化粧品に、靴に、バック、帽子までも兄に言われるがままに買っていく。
「俺から見たら、逢うべくして逢った運命の二人みたいなカップルだった。待つってのは簡単じゃないさ。待つなんて俺は嫌いだしな。だけど、絶対にあいつは戻ってくる。だから、生きて待つんだよ。」
よく宣伝されている真っ赤なリップをカゴに入れながら兄がやっと本題に触れる。
「待つのは得意だろ。」
私にニッと笑って兄が付け足す。私も思わずフッと笑った。兄がよくモテるのは、いつもは淡白なのに、なぜか弱っている時に必ず現れる、そんな不思議な能力を持っているからなのだろうと改めて思った。兄は昔から私とは違って自分の考えをしっかりと持った人だった。背も高く、顔立ちもスッとしていて綺麗だ。兄と私が並んでいたら、誰も私たちが兄妹だとは見抜けないほど、私たちは似ていない。これは好都合で、お互い、鬱陶しい相手と対峙する時は恋人だとか言って利用し合っていた。今ではいい笑い話だ。
兄と買い物をしながら、喫茶店に行く以外での外出は久しぶりだと思った。このどうしようもない気持ちを紛らわすためにはこれも必要なのかと兄に感謝した。
次は新しい服を買おうと兄が言い出したので、服屋に立ち寄った。そんな時だった。思いがけず、彼に遭遇してしまった。彼を見て、私は咄嗟に兄を夫だと言ってしまった。本当は彼のことをそんなふうに紹介する日を待ち侘びていたのにと思いながら。兄は私に話を合わせてくれた。
「妻がおせわになりました。」
慣れた様子で、とても流暢に聞こえた。いつかのナンパ師を追い払った時みたいだ。でもその時とは似ても似つかない情景に逃げ出したくなった。同時に哀しくなり、泣き出しそうになった私は肩が震えるのを必死で抑えた。兄はただ彼を凝視していた。きっと兄は思い出してほしいという気持ちなのだろう。だが、その視線はきっと彼には威圧的に映ると思いながら、彼が気まずそうに去っていくのをただ眺めた。
「あいつは思い出す。」
買い物から帰って部屋に着いた時、まだ両腕に荷物を抱えたままの兄が私に言った。
「生きてるんだ、信じきれなくてどうする?」
その言葉でハッとした。ストレートに思いを言葉にできる兄が羨ましくなった。そうだった、私は待つと決めたのだ。
「まだ死ねない。」
彼とまた過ごせる日までは。
私は薬指に光る彼からの贈り物を見つめながらそう呟いた。
私はまた彼に会いに、喫茶店へと向かった。
彼はいつものようにそこにいた。あぁ、彼だ。悲しくも嬉しくもある。
毎回のように彼は、少し心配そうに私をじっと見つめる。話しかけることもあったが、私が店に入ってすぐは、彼が話しかけてくることはなかった。ただじっと見つめて、見つめられた私が涙を流すのを彼は不安そうに見つめている。彼と同じ空間にいることが嬉しくて、それでいて悲しくて、賢さんが出してくれる珈琲を味わうことも出来ずに、一口口にするのがやっとだった。
ある晴れた日のお昼頃。仕事を早めに切り上げた私は彼のいる喫茶店に向かった。
その日はなぜか少し嫌な予感がした。
喫茶店に入ると、いつもの隅の席に彼はいた。少しホッとしていた。だが、彼が私に声をかけ、椅子から立ち上がった瞬間、力が抜けたように後ろに倒れた。息を呑んだ。それほど無理をしているようにも見えなかったし、賢さんからも体調は良さそうだと聞いていた。
彼は夕方まで目を覚まさなかった。
この日、彼がこのまま目を覚まさないのではないかと怖くなった。そんな私を見て、賢さんが「大丈夫だ。」と宥めた。
彼の脈を確かめて、ソファ席に寝かせ、そばで彼のその穏やかな寝顔を見ていた。事故に遭うまでは、ずっと見ていることができると疑わなかった彼のこと。こんなにも遠く感じてしまうのはどうしてだろうかと悲しくなった。もしかしたら、目覚めた彼は、全部思い出してくれるのではないかと期待もした。
彼のその優しい瞳に私が映った時、悟った。そんなことはそう簡単には起きないことを。
「大丈夫?」
彼に声をかけた。
「あぁ、はい…」
「いきなり倒れたからびっくりしちゃった。」
彼が動揺を隠せないといった様子で私を見つめた。閉店作業をしていた賢さんが慌てた様子で駆け寄って来る。彼の顔を覗き込むようにして話しかける賢さんは、これまで見たことがないほど動揺しているように感じた。
「無理してないか?」
賢さんは心配そうな顔を彼に向け、笑って返す彼を見て少しホッとしていた。彼にいきなり倒れたことを話したが、彼は倒れた時の記憶が曖昧らしく、キョトンとしていた。
その日、喫茶店に入ってきた私を見て、彼が私の名前を呼んだことは話さないでいた。
「今日はもう休んだほうがいいんじゃないか?」
書き途中の原稿を眺める彼に、賢さんが心配そうに話す。
「そうですよね。今日は特別休暇にします。すみません、お騒がせしてしまって。」
何かあったらすぐ病院に行くよう賢さんに忠告されながら、彼は喫茶店を後にした。彼の後ろ姿を見送った私は、なんとも言えない感情に抑えきれず、目が熱くなるのを感じた。
「大丈夫さ。」
そんな私を見ることもなく、勘づいたのか、横に立っていた賢さんが声をかけてくれる。
「そうですよね、私がしっかりしていなくちゃ。」
彼の出て行った喫茶店の扉をただ見つめながらそう答えた。賢さんに励まされ、私も喫茶店を後にした。
アパートに帰る。部屋は暗かった。
また一人だ。
そう思った。兄の言葉を思い出す。
一瞬落ち込んだ気持ちを、ダメだ、しっかりしなくちゃとまた持ち上げる。
そんな毎日だ。一日一日を生きる。これが私に与えられた試練。そう思うようにした。「彼は生きている」という事実。これだけは確かなのだと自分に言い聞かせる。最近は自分の生活を取り戻し、彼をそっと影から見守るようにしている。仕事も休まなくなり、壊れてしまった私は、ある程度の原型を取り戻した。だが、全回復まではいかず、食事は喉を通らなかった。
兄が私を訪ねてくる日もあった。兄が来た日は必ずと入っていいほど私を外に連れ出す。彼なりの励まし方なのだろう。私に何を聞くわけでもなく、ただ食事をするだけだ。これまでも私が落ち込んだ時にしてくれていたように、ただそばにいてくれる。兄は何十年経っても変わらないなとしみじみ思う。周りに影響されないその姿を見ていると、頑固であることを疎ましく思うより先に、不思議と清々しい気持ちになった。
ありがとう
改めて伝えたいと思った。きっとそんなことを言ったら、暇だったからだとはぐらかすのだろうけれど、それでも、伝えておきたいと思った。
伝えることができなくなる前に、後悔しない前に。
彼には伝えられていただろうか。伝えられるだろうか。
今になって不安になり、伝えられないことに胸が引き裂かれる思いをしているのだから。彼が私を見つけてくれることを願っている。そしてまた伝えられることを願っている。
ただただ私は無力にも願うことしかできない。
後悔することしかできない。
身体の内側から締め付けられるような苦しさを感じながら、口の中で鉄の匂いがじんわりと広がるのが分かった。
彼がくれたこの感情に、私は名前をつけることができない。
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