うた

平民遇英

欠心

□散歩に行って帰ってくる間にひとつくらい、編集も校正も要しないような短編でも書いてやろうと心に決め、勇みに勇んで、春時雨の乾かないままの街へ繰り出し、暗い時間にいっそう暗い道を選り好んで練り歩き、寝静まった民家の鉢植えや、自販機につけられた傷や、意味深げに四つ隣接しているマンホール、などといった光景から、新しい洞察や感動を拾い上げてみようとするのだけれども、びっくりするような洞察はなかなか見つからないからびっくりするのであって、いまさらそれらしく街を眺め回してみたところで見つからないのは道理で、とはいえ、書くと決心したのはほんのついさっきのことだから、すぐに放り出してしまっては格好がつかないと思い、ひとり恥ずかしく、そうして引っ込みがつかなくなっているうちに、やりきれない気分になんだかむかついてきて、次第に自棄ッパチになって、ちっとも面白くもないもの、たとえば地面のガムの痕跡なんかに対して、どうだろう、こんなものでもよく観察したら面白いかもしれない、と、それらしい具合にしばらく頑張ってみるのだが、もちろん、そうしている最中でも、こんなものちっとも面白くないとは自ずから気づいてはいるので、打っても打っても手応えが響いてくるはずもなく、すると、先程までの威勢とはあべこべに、だんだん自信が失われてきて、ああ、実のところ、本当は面白いものも、自分でつまらなくしているのではないか、と、見てはいけないものを見てしまったようで、にわかに空恐ろしくなってきて、そうだ、やっぱり短編はやめにして、懐中にあたためている長編の続きの方を作ろうか、と思い直すも、そもそもが長編の執筆が億劫に思われたための散歩だったので、秒と経たずにそれもまるごと忘れることに決め込んで、とうとう、字数ばかりが増えて中身がどうだか自分でもわかっていないようなメモ帳を見返すようなところにまで陥って、しかし、暗い道を歩きながらでは目が滑りに滑ってゆくばかりで、もうすっかり文字を見るのにも疲れてしまい、ついには、近頃読んだ本について頭の中だけで思い返すという段になり、サキ、ヘンリー、ナボコフ、丸山、云々と耽っていると、ふと、イヤホンで聞いていたジャズのスナッピーの音が、頭の内側にくすぐったく響いてくるのがどうにも気になってきて、三十年前のブルースに変え、いや、ブルースは悲しすぎるな、とフォークに変え、いや、フォークはちょっと優しすぎるな、クラシックがいいかもな、つっても、歩いて聞くもんじゃねぇな、パンク・ロックもアヴァンギャルドも食傷気味だしな、とかなんとか悩んでいると、さらさらした鼻水が流れ出してくる気配があり、くそ、雨の後なのに花粉なんか飛びやがって、ついてねぇや、とうんざりした気持ちになりつつ、少し急いで、玄関でサンダルを脱ぎ散らかし、ティッシュを乱暴に掴みあげて鼻に当て、ブーッと鼻水を噴き出して、心はともかく鼻の方は多少スッキリしたなァ、とベランダで気持ちよく煙草を吸い、再び垂れてきた鼻水をかみながら、ベッドへ転がり込んで、僕は寝た。

□ほんとう、花粉ってやつは厄介なもんだよ。外なんて、まともに歩く気にもなんないね。

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