断れない頼みならはじめから話を聞くべきじゃなかった

茜あゆむ

第1話

 先生は綺麗な人でした。始業式の日、あの人が登壇するとどよめきが起こったくらいです。肩甲骨のあたりまで伸ばした髪を結い上げていて、うなじが輝いて見えるほど綺麗な白い肌だったのを覚えてます。みんな先生に目を奪われていて、あの人は圧倒的な魅力を持った人でした。はじめから私みたいな子どもが勝てる相手じゃなかったんですよね……。

 先生は、私たちが入学したのと同じ年、大学院を卒業したばかりの新任常勤講師として、私と彼のクラスの数学を受け持ちました。

「みなさん、はじめまして。えー、このクラスの数学を一年、担当することになりました。名前はもう知ってくれていると思うので、自己紹介は手短に。好きな食べ物はりんご。以上です。私のことをもっと知りたい人は、ぜひ教科担当になってね」

 それが、あの人の最初の挨拶でした。

 教科担当って言って、分かりますか?

 クラスごとに各教科の先生が振り分けられる訳ですけど、うちの学校では、その担当ごとに生徒が一人つくことになっていたんです。やることと言っても、授業の前に職員室へ先生を呼びに行くとか、宿題の回収だったりで、面倒だけれどそれほど大変な仕事でもなくて、その教科を好きな人とか、内申点を稼ぎたい人が率先してやるもの、みたいなイメージです。

 私が教科担当になったのも後者の理由でした。苦手な教科だからこそ、やってみたいと思ったんです。もちろん、先生に興味があったというのも、理由の一つですけど。

 私が彼と知り合ったのも、教科担当からです。彼の場合は、クラスメイトから押し付けられるように担当になったようでした(これは違っていたことが後で分かります)。第一印象は所謂おとなしい男の子という感じでした。顔立ちが整っていて中性的だと気付いたのは、ある程度親しくなってからだったと思います。

 私と彼のクラスの数学の時間割はちょうど前後していて、私が先生の御用聞きに伺うと、いつも彼がいました。廊下ですれ違うときもあって、彼の方から声をかけてくれることもありました。

 その頃から、違和感はあったんですよね。先生と彼が話しているところへ私が行くと、先生は不機嫌な様子を見せたり、逆に彼はほっとしたように溜め息をつくことがあって、その時は理由が分からなかったんです。

 ある日、私と彼が話をしていると、先生が早足で近付いてきて、

「何話しているのっ?」

 と声をかけてきたんです。その時は確か、彼に”集合”について教えてもらっていて、中間テストも近かったから、勉強会をしようなんて話になっていたんですけど。

「じゃあ、私も参加しようかな! ね、いいでしょ? ね! 仲間にいれてよお……!」

 そう言う先生は私のことを少しも見てませんでした。見惚れるくらい綺麗な顔で、薄笑いを浮かべて、彼のことを見ていたんです。

 気付いていたら、何か変わっていたのかなって、今でも思います。当時は、先生は立派な人だって気持ちがあって、違和感とか疑問に蓋をしちゃったんですよね……。

 授業の予鈴で別れて、その次の休み時間、彼が私のクラスに来ました。勉強会はぼくからやろうって言ったことにしてくれる? って言ったんです。すぐにそう言った理由が分かりました。

「そういえば勉強会だけどさ、君と彼じゃレベルが違いすぎるよね。彼にとっては迷惑なんじゃないかなあ? というわけでね、君の数学は私が見てあげるよ」

 先生は笑いながら言っていましたけど、目だけはうっすらと私を睨んでいるみたいでした。


+++


 教科担当は一応学期ごとに変わることになっていました。だけど、教師も生徒も勝手が分かっている分、同じ人が引き続き教科担当になるっていうことも結構ありました。

 ただ、先生と彼の場合は少し違ったんです。

 彼は二学期には担当を別の人に引き継ぎました。先生は学校でも人気でしたから、数学担当になりたい人は多かったんです。当然、私も数学の担当を下りたんですけど、二学期が始まって少しした頃、先生が騒ぎ始めたんです。

「新しい担当の子は、仕事をサボって困るんだ」

 先生がいろんなところで、そうこぼしているという話が広まりました。数学の新しい教科担当は私の友達で、サボるような子じゃありませんでした。私から見ても、彼女は普通に担当の仕事をこなしていたし、先生との仲が悪いわけじゃなくて……。

 だけど、みんなは先生の話を信じたんです。

 そのうちに、彼女は本当に担当の仕事をサボり始めました。無理もないと思います。誰も彼女の言うことを信じなかったんですから。それからすぐに、教科担当が変わりました。だけど直接関係ないはずの私やほかのクラスの担当も、一学期のメンバーに戻ったのは不自然でした。

 担当が変わるという話が決まると、彼が私のクラスまで来ました。彼は私に深く頭を下げたんです。

「ごめん、付き合わせちゃって」

 最初は言っている意味が分かりませんでした。だけど、すぐに理解できました。全部、先生の作戦だったんだって。彼を教科担当に戻すために、先生は嘘をついたんです。ほかのクラスの教科担当まで変わったのは、彼の最後の抵抗でした。

 彼を守ってあげないといけない。彼の言葉の意味が分かったとき、そう思いました。先生から彼を守ってあげられるのは、私しかいないんだと。先生の考えと、彼の気持ちを分かっているのは私だけでしたから。

「私が、先生から守ってあげる」

 彼は儚げな表情で、ふわりと笑いました。

 私は浮かれていたんですね。彼に頼りにされて。

 結局、私と彼は高校三年間、数学の教科担当を務めました。だけど、私は彼を傷付けただけでした。


+++


 教科担当に戻ってから、私はなるべく彼の近くにいるようにしました。先生への御用聞きのほかにも何かと理由をつけては、彼のクラスに寄ったりして、先生と彼が二人きりにならないようにしたんです。

 先生は、私たちが一緒にいるとすぐに駆け付けてきました。

「こらー、教科担当サボるなー。ちゃんと仕事しないとクビにするぞー?」

 冗談めかしていても、先生の瞳はいつも本気でした。私たちはそんな先生の態度をのらりくらりとやり過ごしながら、絶対に決定的なミスだけはしないように、と話していました。

 そうしているうちに、先生は彼への執着心を隠さなくなりました。

「授業の前はもっと早く職員室に来て。君のせいで授業が遅れるよ? それでいいと思ってる? 君、もっと責任をもって教科担当やらなきゃダメだよ」

 職員室で先生は彼を叱り付けていました。

「あの子と一緒にいたいなら、もっと私の機嫌を取った方がいいと思うけど……」

 先生は私に気付いていました。気付いたうえで、彼を脅すようなことを言って、彼と私の両方に釘を刺したんです。許せなかった。彼と先生との間で、私が彼を守る盾にならなきゃいけなかったのに、先生は逆に私を利用としたんです。

 それから、先生は私に聞こえないよう、彼に何かを耳打ちしました。私が近付いていくと同時に、彼は先生に頭を下げて、職員室を出ていきました。

 その頃、私は彼が教科担任になった経緯を知りました。教科担当は最初の授業で決まるのですが、彼の場合は先生からの指名で決まったということでした。

「教科担当は君、おねがいね」

 ちょうど教壇の目の前の席だった彼が選ばれたのに、クラスメイトは特に違和感を感じなかったみたいです。私はその話を聞いて、一層彼から離れないように心掛けました。彼が先生と一緒にいるときは、必ず私も加わるように努め、出来る限り彼の苦労を軽く出来るようにしました。

 彼は、私が話しかけるたび、儚げにふわりと笑って、

「いつも、ありがとう」

 というのでした。

 私はその顔が見たくて、彼に話しかけていた部分もあったかもしれません。彼の顔立ちや身のこなしは男性的な部分が少なくて、とても愛らしく見えました。ほかの同級生に比べると幼く見えるほどでしたが、影のある表情もあってか、彼を一人にしておけないと感じました。

 その頃から、私たちの距離は徐々に近付き始めました。教科担当としての付き合いだけでなく、教科書の貸し借りや放課後の勉強会など、一緒に過ごす時間が増えたんです。私は文化部に所属していて、それが終わるのを、彼は教室で自習をしながら待ってくれているということもありました。

 もし……。もし、先生がいなければ――。

 いえ、やっぱり先生がいなければ、私たちは知り合うこともなかったんだと思います。あの日も、私は部活で遅くまで学校に残っていました。彼が待ってくれているだろうか、と教室へ早足で向かっていると、友人に話しかけられて、しばらく立ち話をしました。

 結局、下校時間のチャイムが鳴るまで、私は友人と立ち話に興じてしまい、昇降口に向かいました。ふと、私は彼の下駄箱を覗いてみようと思ったんです。もう既に帰ってしまっただろうと思っていたのですが、確認のために。

 彼の靴は、まだ下駄箱におさめられたままでした――。

 胸騒ぎがしました。私は友人に忘れ物をしたと嘘をついて、校舎の最上階まで駆け上がりました。そこには数学準備室があり、先生は放課後、そこで授業の準備などをしているのを知っていたからです。

 けれど、数学準備室には誰もいませんでした。鍵もかけられていました。私は呼吸を整えながら、何もなかったんだ、全部勘違いだ、と自分に言い聞かせました。物音が聞こえるまでは。

 最上階には使われていない空き教室が何室かあり、物音は、準備室から一番遠い空き教室から聞こえました。

 私は足音を立てないよう、ゆっくりと廊下を歩いていき、小窓からそっと中を覗きこみました。辺りはもう暗くなり始めていて、明かりの灯っていない空き教室はぼんやりと薄暗かったのを覚えています。

 まず、先生の後ろ姿が見えました。廊下とは反対の窓の方に立っていて、背をかがめているようでした。いつもは結んでいる髪を、そのときはほどいていたはずです。彼女の綺麗な黒髪が、夕闇の中で妖しくゆらめいているように見えました。

 私がじっと中の様子を窺っていると、先生はゆっくりと身体を起こして、私には聞こえないくらいの声で何かを話しました。そこで、私ははじめて先生が一人ではないことに気付きました。いえ、本当は気付いていたのに、気付かないふりをしていたんです。

 先生のすぐそばには、彼がいました。

 先生は彼に抱き着いていたんです。

 二人はゆっくりと身体を離し、しばらく見つめ合っていました。先生がまた何かを話していたのかもしれませんが、私は目の前の景色を見ているのに精いっぱいでした。だって、先生は彼にをしたんですから。

 ふふっ、ふふふふふ。

 私は目を逸らさず、二人をじーっと見ていました。ながい、ながいキスでしたよ。暗がりの中で、先生の手が彼の身体をもぞもぞと探っていて、彼はそれを許すみたいに身体を開いていました。

 彼が、私に気付くまで。

 一瞬、彼と目が合いました。私は咄嗟に身をかがめて、廊下を引き返しました。彼が先生を突き飛ばし、教室を出ようとしていたのが横目に見えて、私は一目散に昇降口を目指しました。

 彼はすぐに降りてきました。息を切らしながら、私の姿を認めると一直線に駆け寄ってきて、

「よ、よかった……! もう帰っちゃったかと思ったっ!」

 と普段通りとはいいがたい調子で、私に話しかけてきたんです。彼の頬はかすかに赤く染まっていました。

 私は呼吸を整えないと、彼に返事が出来ないほどでした。胸が痛いくらいに、鼓動が高鳴っていました。彼が追いかけてきてくれたことに、興奮していました。

「お……追いかけてきたの?」

 だから、彼がごまかそうとしていたことを、私は正面から問いかけてしまったんです。彼は傷付いたように、弱々しく微笑んでいました。私はその表情を見て、身体が熱くなるのを感じました。気付けば、私は彼の腕を掴んでいました。

「わ、私にしときなよ。あの人、絶対変だよ」

 無抵抗な彼に、私は言いました。

 それから、無理やりキスしました。

「ねえ私たち、付き合っちゃおうよ。そしたら、先生だって手出しできないよ?」

 彼は何も言いませんでした。

「何も言わないってことは、良いってことだよね……?」

 彼は否定しませんでした。ただ、否定しなかっただけなんです。

「私が守ってあげる」

 私たちはもう一度、唇を重ねました。


+++


 三学期になって、私は部活をやめました。彼ともっと一緒にいるためでした。私たちの関係はほかのクラスメイト達も知ることになって、先生からは、教科担当だけは続けてほしいと頼まれました。

 私たちが付き合い始めてからは、先生が彼に付きまとうことはなくなりました。はじめ、私は自分の考えが正しかったのだと得意になっていました。けれど、違ったんです。

 私は子どもだったんですね。

 彼は以前とは同じように話してくれなくなりました。まるで何かに怯えているようで、私は苛立ちを隠せませんでした。次第に、彼は私から距離を取るようになって、先生はその隙を見逃さなかったんです。

 ある日、私は先生に呼び出されました。

「彼に付きまとうのはやめてくれないかな?」

 耳を疑いました。それは、私の台詞だと思いました。

「何度か、彼に相談されたんだ。君が怖い、ってね」

「本当に彼が言ったんですか?」

 ああ、と先生は静かに頷いたんです。私は何だか拍子抜けして、全身から力が抜ける感じがしました。本心では、私も気付いていたんです。彼とはうまくいかない、と。その後に続いた先生の言葉に、それは否定されました。

「……思っていたよりも早かったね」

「え?」

「私が、彼に君と付き合うように言ってから、まだ半年も経っていないじゃない?」

 私が、彼と先生の逢瀬を見たのは偶然ではなかったんです。先生が、私に見せつけるために仕組んだことでした。

「ふふふ、いい思い出になった?」


+++


 それから私と彼は疎遠になりました。廊下ですれ違っても、挨拶することもなくなり、教科担当として話すことも必要最低限になったんです。先生はそれでも私が教科担当を辞めることを認めてくれませんでした。私は自分が負けたことを、いつまでも見せつけられました。

 けれど、一度だけ、彼と話す機会があったんです。

 大学受験も大詰めを迎えている頃でした。前を歩いていた彼が、模試の結果を廊下にバラまいてしまいました。拾ったプリントを彼に渡すと、彼は昔のように、ありがとうと言ってくれたのです。

「げ、元気?」

 と私は言いました。彼はふわりとやさしい笑みを浮かべました。

「ぼくは大丈夫だから。もう気にしないで」

 それが、最後に交わした会話でした。

 卒業式、彼は欠席しました。先生も参列に加わりませんでした。一年生の頃、彼は東京の大学に行くのが目標なのだと言っていました。ですが、彼は進学しなかった、と聞いています。

 卒業後、彼は一年間アルバイトをして、翌年に公務員試験に合格したと同窓会で教わりました。いまは結婚して、子どもが二人いるというのが、私が知る彼の最後です。

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断れない頼みならはじめから話を聞くべきじゃなかった 茜あゆむ @madderred

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