そこにあるもの

柴田彼女

そこにあるもの

 カロリーメイト、インゼリー、エナジードリンク、時々、カップ麺。

 昼時の綿野くんの食事を見ていると、作業、という言葉が容易に浮かぶ。食べるのがそもそも好きじゃないのか、作ったり買ったりが面倒くさいのか、片手間で充分だと思っているのか。PCの画面を睨みながら、綿野くんはいつも嫌そうな顔をして昼食を摂っていた。



 昼休みは食事時間込みで一時間ある。私は大抵お弁当を持参していて、綿野くんの隣でそれを食べる。

 私は料理が好きだ。野菜や魚や肉が食料になり、食料が食材になり、食材が食事に変わる。みりんを小さじ一入れるか、大さじ一入れるかで全くと言っていいほど味が変わって、その変化は私を豊かな気持ちにさせる。

 毎朝、少しだけ早起きしてその日のお弁当の支度をする。前日の晩ごはんの残りを詰める部分もあるけれど、何かしら一つ工夫をした玉子焼きと、大好きなウィンナー、カットフルーツだけは朝にしかできない作業だ。休日にインターネットや書籍で調べた【見栄えのするお弁当】なんかを参考に、丁寧に食材を詰めていく。

 ゆかりの混ぜごはん、中心にかにかまを詰めた玉子焼き、フリルレタスを敷いてミートボールを二つ、串に刺す。カップに大豆入りの煎り豆腐を詰めて、最後の透き間を埋めるようにウィンナーを一本分、半分にカットして入れる。ゆかりごはんの隅には、ほうれん草のお浸しにかつお節をかけて。きょうのフルーツはオレンジを三つ。気に入りのわっぱの弁当箱と、ステンレスの容器に詰めて、それらに箸箱を添え、藤の花の柄の弁当包で包む。


 机の下から弁当を取り出して、綿野くんとほぼ同時に食べ始める。

 私は一つ一つ、食材を噛み締めるように、時折水筒に入れてきた気に入りの玄米茶を飲みながらゆっくりと食べる。玉子焼きがおいしい。焦げ目もなく、色むらもなく、つるんと綺麗に焼きあがっていた。ゆかりの混ぜごはんとお浸しを一緒に含むと、上に振りかけたかつお節と白胡麻がちょうどいいアクセントになってくれている。ミートボールもお気に入りのメーカーのもので、味付けがほんのりと香ばしくておいしい。ウィンナーも燻製にされたものを入れてきたから、鼻から抜ける香りが何とも言えずつい微笑んでしまう。きのうの余りの煎り豆腐は冷たくなっているけれど、その分味が染みていて深みがある。最後にオレンジを食べると新鮮な柑橘の香りが口の中いっぱいに広がって、ああ幸せだな、と思えた。


 私が手製の弁当をじっくりと味わっているあいだ、綿野くんはブラウザを睨み、マウスを片手に、もう片方の手にカロリーメイトを食べている。一瞥もしない。二本食べ終わるとごみ箱に捨てて、無糖ブラックの缶コーヒーを一気に飲み干して、立ち上がり空き缶入れに放ると腕を組み、椅子にもたれ、そのまま残りの休憩時間、目をつむって過ごしている。

 私は綿野くんのことがうまく理解できなかった。

 食事に興味のない人や、関心のない人がいることくらいは知っている。でも、はたして毎日ここまで作業化できるものだろうか。時々は短い時間で外食に出たり、コンビニエンスストアで弁当を買ってきたりしたっておかしくはないだろう。

 私から見て、まるで綿野くんは食事そのものに嫌悪感を抱いているようにも思えた。食べる、という行為を恐れている、食べる、という行為に罪の意識を持っている――まるで、そんなふうに。

 私はきょうも腕組みをしながら目をつむる綿野くんの隣で時間をかけお弁当を食べている。

 手製の弁当に執拗にこだわる私と、食事そのものに興味を持っていない綿野くん。

 傍から見てよりどちらが異質であるかどうか、私には判断がつけられなかった。





 その日は綿野くんと同行で、会社から一時間以上もある別会社にきていた。昼の時間はとうに過ぎていて、しかし相手の専務の話は終わらない。十四時半を過ぎたころやっと解放された私は、もう空腹どころの騒ぎではなくて、会社に戻って手製の弁当に手をつけるまで我慢するなんて、どう考えても不可能だった。

「あの、綿野さん、どこかで昼食摂りませんか? 私このままだと会社までもたないです」

 綿野さんは私を一瞥して、それから、

「そうですね。木谷さんはなにかお好きな食べ物ありますか。それにしましょう」

 そう言って、スマートフォンを取り出しマップを開いて近場の店を検索し始めた。

 正直、かなり意外な反応だった。どうせコンビニエンスストアかファストフードを提案されるか、ひどければ会社まで帰るまで待てと提案されると思っていた。

「評判のいいオムライスのお店ならここから歩いて五分かからないみたいですけど。時間的に、混雑している様子もなさそうです。オムライスはお好きですか?」

「あ、はい、大好物です」

「では、そこで」

 綿野くんが歩き出す。その少し後ろを私がついていって、右です、とか、少し真っ直ぐ進みます、とか、言われたとおりに動く。


 数分後に着いた店はいくらか年季の入った、けれど手入れの行き届いていそうな品のいい店だった。綿野くんが重いドアを開けると、からん、と鈴が鳴る。

「何名様ですか?」

 と五十代ほどのエプロン姿の女性が訊ね、二人です、と綿野くんが返す。

 午後十五時手前ということもあって、店内は空席がやたら目立った。二人だけ何かしらの飲み物をすすっている、いかにも常連といった雰囲気の老人がいて、あとは店主らしきキッチン内の男性と、この店員の女性。女性は窓際の、景色のいい席に私たちを案内してくれた。私は向かい合って綿野くんと座る。

「デミグラスソースのオムライスが一番人気みたいです。次いで、ホワイトソース。レビューに書いてありました」

「そうなんだ」

 思わずため口を利いてしまうが、綿野くんは気にした様子もない。同僚だし、そもそも同期だし、今まで丁寧過ぎたくらいだよね、なんて言い訳を心の中で適当に並べる。


 デミグラスが一番人気、でもホワイトソースもおいしい。

 今の気分はホワイトソース、でも人気と言われてしまうと食べておかなければ損な気がしてしまう。大した時間の余裕がないことも忘れて悩んでいると、綿野くんが、

「迷ってますか?」

 と訊ねてきた。

「あ、ごめんなさい、すぐ決めるね、じゃあデミグラスソースで。ドリンクは……アイスコーヒーにしようかな」

「何で迷ってました?」

「え? ええと、ホワイトソース。気分的にはホワイトソースなんだけど、やっぱり一番人気って言われると抗えないよなあって」

「なるほど」

 綿野くんが手を挙げて店員の女性を呼ぶ。

「デミグラスソースとホワイトソースのオムライス一つずつ、セットのドリンクはアイスコーヒーとホットコーヒー一つずつでお願いします」

「かしこまりました」

 店員が奥へ行く。

「木谷さんが嫌でなければ少しずつ分け合いましょう。あとで小皿をもらいます」

 おしぼりで手を拭いながら綿野くんが言う。びっくりしながら、

「いいんですか?」

 と訊ねると、

「どちらも食べたいんでしょう?」

 と、答えになっていないような答えを返された。


 最初にドリンクが届く。アイスコーヒーにガムシロップとミルクを入れ、ストローで混ぜながら、

「ごめんね、なんか付き合わせちゃって」

 と詫びると、彼はそれに答えるでもなく、

「木谷さんっていつもお弁当ですよね。あれって、ご自身の手づくりなんですか?」

「え、あ、うん。一応、大した内容でもないけど、毎日自分で作ってる」

「すごいですね」

「あはは、前日の余り物ばかりだけどね」

「ということは、晩ごはんも作るんですね」

「まあ、そうなるね」

 オムライスが届く。店員がデミグラスソースのオムライスをどちらに置くかを迷って、綿野くんが私のほうへそっと手のひらを向けた。

「すみません、分け合いたいので小皿二枚いただけますか?」

 ホワイトソースのオムライスを受けとりながら、綿野くんが言う。店員が小さく頭を下げて、それからすぐに中皿を二枚席へ持ってきた。


 私たちはそれぞれに適量のオムライスとそのソースをかけながら、

「なんか、勝手なイメージだけど綿野さんってこういうの、嫌がる人だと思ってた」

「こういうの?」

「一口頂戴、みたいなやつ」

「ああ、まあ、好ましいかどうかで訊かれると、そうでもないかなとは返してしまうかもしれないですね」

 私が固まる。

「ああ、お気になさらず。一口頂戴が嫌なんじゃなくて、そもそも何かを食べるのが嫌なんです。だから何を食べるとか、どのくらい食べるとか、誰と食べるとか、もうそういう次元ですらなくて。僕、そもそも物を食べたくないんです」

 綿野くんの身体つきを見る。男の人にしては華奢だが、決して病的なそれではないように見えた。

 お互いに取り終えた皿を交換する。丁寧に盛り付けられたホワイトソースのオムライスは、几帳面な綿野くんとよく似ていて、とても美しかった。


 ホワイトソースのオムライスを一口食べる。濃厚なバターと牛乳の味がする。ライス部分のあっさりとした味付けがそれを具合よく相殺して、とてもおいしい。

 次いでデミグラスソースのオムライスに口をつける。酸味と旨みのバランスは整ってはいるけれど、ライスの味つけも妙に濃い。半分程度で飽きてしまいそうなその味を噛み締めながら、綿野くんを見る。会社とは全く違い、がつがつとオムライスに食らいついている。

 こんな勢いよく頬張りながら、それでもこれも不愉快なことなんだろうか。義務なんだろうか。作業なんだろうか。私に付き合ってくれているだけなんだろうか。

 訊けなかった。


「じゃあ、帰りますか」

 互いにレジを済ませ、店を出る。会社に戻れば十七時を過ぎるだろうな、と思いながら横並びに改札をくぐる。つり革を強く握り、両足を踏ん張りながら綿野くんを見る。ぱっちりとした二重と大きな黒目はこちらを見ていない。

「あの、どうして、綿野さんって食べるの、好きじゃないんですか?」

 会社へ戻る道中だからだろうか、グラデーションのように敬語が戻ってきている。そうですね、と綿野くんは前置きをしてから、

「木谷さんは、スーパーの食肉売り場について、どう思いますか」

 と、言った。


 どう思いますか、と言われても、肉を売っている場所、としか思えない。それ以下でもないし、それ以上にもならない。私が答えにあぐねていると、

「僕、兄がいたんです。九つのときに事故で亡くなったんですけど。僕が子どものころ住んでいたのは雪国で、毎年何メートルもの雪が辺り一面を毎晩埋め尽くしました。真夜中、除雪車が、ガガガ、ガガガ、って戦車みたいな音を立てながら除雪していく。玄関の前にカチコチに固まった雪がどんと置かれて、両親はすごく嫌がっていたけれど、僕はまるでゲームに出てくる魔法のシールドみたいで格好いいと思っていました」

 綿野くんの独白を聞く。がたん、と電車が揺れる。足元がふらつく。大丈夫ですか、と綿野くんが言って、ありがとう、と返す。

「僕の家は祖父母の家を受け継いだもので田舎独特の広さがあったから、中型の自家用除雪機がありました。日中、除雪車がやってこない時間にも雪は積もるし、駐車場や、玄関への道だってどうにかしなければなりません。父は日中仕事に出ていましたから、除雪に関しては母が率先してやっていました。事故が起きたのは、木曜日の、少しだけ授業が早く終わる日でした。僕は児童館で遊んでいて、そうしたら先生が慌てて走ってきて『拓くん、今からお迎えがくるから早く支度して』って大声をあげて。てっきり家に帰るんだと思っていたら、迎えにきたのは父でも母でもなく叔父さんで、行き先は病院でした。そこには母がいて、父がいて、兄がいなくて。どうしたの、と訊ねる前に、父が、『お兄ちゃんが除雪機に巻き込まれて死んだ』と言いました。母の除雪中に兄が少し離れた場所で除雪をしていて、ふと携帯電話が鳴って。母はその電話を受ける前に『きちんと安全レバーは引いた』と言っていました。仮にそれが真実だったとして、あるいは嘘や勘違いだったとして、ともかく、兄は除雪車に近付いて、そのまま刃先に巻き込まれて、まるで挽き肉みたいになってしまった。一瞬で母が気付いて助け出そうとして、でも引き抜けなくて、救急車を呼んで、病院について、死亡が確認されたあとで僕が到着したそうです」

 会社まではあと二十分以上あった。彼の話は続く。一人、近くにいた女性がわざとらしく離れていく。

「母はきちんとストッパーをかけたと主張したし、父は母が殺したんだと主張しました。僕には兄が死んだ、という実感がどうしても持てなくて、ただ両親が口論し続ける様を見続けていました。そのうち両親は離婚して、僕は父に引き取られました」

 キィン、と金属的な音が鳴る。フォークの刃先同士がぶつかるような、そういう不快な音だった。

「不自由はしなかったように思います。食事はいつも出来合いでしたが、それに不満を覚えるほど食に興味のある子どもでもありませんでした。そのまま中学に入って、高校に入ったころ、ふと自分で料理をしてみようと思いました。ちょうどちょっとしたミスで父の役職が外れて、給料がほんの少しだけですが下がったらしかったんです。父はそういうことを包み隠さず僕に話していました。なら、出来合いよりは多少味が落ちても作ればいいだろうと、僕は高校では部活に入らずに、家のことを積極的に行うようになりました。それまでも洗濯や掃除は、簡単にではありますがやっていましたから、あとは食事だけです。スマートフォンでレシピを調べて、ハンバーグを作ってみることにしました。玉ねぎ、パン粉、牛乳、ケチャップ、ウスターソース、そうやって一つ一つ材料を揃えていって、そうして食肉売り場に行ったとき、あ、と思ったんです」

 綿野くんがわたしを見る。

「お兄ちゃんが、いっぱいある、って」

 真っ黒い目が私を捉える。光はない。

「豚のお兄ちゃんが、鶏のお兄ちゃんが、牛のお兄ちゃんが、薄切りのお兄ちゃんが、塊肉のお兄ちゃんが、軟骨のお兄ちゃんが、レバーのお兄ちゃんが、ハラミのお兄ちゃんが、カルビのお兄ちゃんが、お兄ちゃんが、お兄ちゃんがあるって、そう思ったんです」

 私は綿野くんの口元を見る。それは器用に動いて、奇怪な音を発し続けている。

「僕はその場で吐いてしまいました。両親が、決して僕に見せなかった兄の最期の姿が、スーパーの食肉売り場には常に並んでいるんです。あれらは食材で、食べ物で、焼いたり煮たりして食べるもので、それは当たり前のことで、わかっているつもりです。でも、僕には、間違いなく、お兄ちゃんの肉の群れなんです」

 目的の駅で電車が止まる。綿野くんがつり革を手放して、私もそれに続く。

「たまに、冗談で耳にしませんか? スーパーの食肉売り場は死体売り場だって。僕にとっては、あれはね、本当にそうなんです。あそこには、今でもたった一人の僕の兄が、売ってあるんです」


 会社に着いたころには十七時半を回っていた。あと少ししたら退勤時間だ。綿野くんと隣同士、席に座る。ふくらはぎの辺りにこつん、と何かが触れて、机の下を覗く。食べごろを過ぎた弁当箱が、そこで静かに腐っていた。

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