第14話

 陽凪は、帰りのホームルームから一時間ほどで教室にやってきた。


「部活のことは片付けてきたから、存分に時間使っていいよ。冬真くんの本性暴いてやるから」


「今から話すことは、フィクションみたいだけど全部実話だから信じてほしい。あと、今日話したことは絶対口外しないように。誰かに漏らしたことが判明したら、契約については破棄させてもらう」


「分かってるよ。そんな前置きいいから、早く早く」


 陽凪は、おやつの時間を待っている子どもみたいにワクワクと楽しげに言った。

 相反して、ゆっくりと丁重に告げる。


「あと、あんまり楽しい話にならないと思う。高萩さんは、好きな人が自分の想像や期待を裏切るような秘密を抱えていても、好きなままでいられる? 」


 陽凪は浮つく感情を消し去って真顔になった。

 そのとき、夕日が雲に隠れて陽凪の顔に影を作った。重苦しい沈黙が流れる。


「当たり前じゃん。ウチは、簡単に消えてしまうような軽い気持ちで夏恋ちゃんを好きになったわけじゃない。ウチにとって、人を好きになるのは自分と向き合うことでもあるから。苦しむ覚悟はできてる」


「分かった。最大限尊重させてもらう」


 真剣に紡がれた言葉に、決意の頷きを返す。

 陽凪がおちゃらけた様子なのだとしたら、正直に話すのをやめようと思っていた。嘘をつくのは気持ち悪いけど、ふざけた相手に正直に話す方が苦痛だ。

 だから、陽凪が真剣に答えを返してくれて安心した。


 安易に嘘をつくような人間になってしまえば、自分の過去に対して嘘をつくことになる。嘘が嫌いな自分を否定したくなかった。嘘で自分を苦しめた周りの大人を拒絶していたい。絶対に、嘘でエゴを貫くような人間にはなりたくなかった。


「じゃあ……」夏恋と出会った夜に戻る。姉と母の言い合いも一緒に思い出してしまう。仕方がない。不可抗力だ。



 話を終えて、記憶の掘り起こしに疲れた僕がため息をつくと、陽凪は窓の外を眺めて頬杖をついた。


「なるほどね。ウチってなにも知らなかったんだな。夏恋ちゃんが言う、嘘の姿を好きになってただけの浅い人間だったんだね」


 自分への失望を滲ませた陽凪のつぶやきが漏れる。


「仕方ないよ。嘘をつかれる方はなにもできないから。かと言って、夏恋は嘘をつくことでしか自分を守れないから、誰が悪いってわけじゃない。誰かを悪者にしたいのであれば話は別だけど」


 一言皮肉をつけ添えると、陽凪は僕に軽く頭を下げた。


「首締めて悪かったよ。もしかしたら、遂に恋人ができちゃったのかもしれないって先走ってた。周り見えなさすぎだね、ウチは」

 

「伊東冬真に恋人なんかできるわけないって、一年間一緒に過ごしたら分かるでしょ」


「そうだよね。なんでそんな当たり前のこと思いつかなかったんだろ。ごめん、冬真くん」


 陽凪が半分痛みながらも笑ったことに安心する。

 今、陽凪の心模様はどのような状態なのだろうか。悲しい色か、怒りの色が混ざっているのか、それとも色がなくなったのか。


「夏恋が求めてるのは都合のいい関係だから、自分を好きにならない異性との接触が好ましいはず。だから、高萩さんからの好意をどう受け止めるのかについては、見当つかない。本気で伝えられた想いを簡単に否定するようなことはしないと思うけど、未知数だとしか言えないな」


「そっか。じゃあ、ウチはずっと片想いのままかもね。最初っから分かってたことだし、全然いいけど。本当は告白する気もなかったしさ」


 露骨な強がりだと分かっているのに、反論に使える言葉が出てこない。共感と同情は余計なお世話だろう。


 おそらく、陽凪はこれまで誰といても、どんな状況にあっても疎外感を感じていたのではないだろうか。

 安直な態度で陽凪の孤独に触れることは許されない。

 陽凪のこれまでについては詮索するべきではないと思っていた。僕ができる最大限の配慮だろう。


「でも、なにもしないのは悲しくないか、寂しくないか。体は好きって感じてるのに、心が抑制かけて本音を殺したら苦しくなるだけなんじゃないか。一目惚れだろうが、なんだろうが、好きは好きなんだろ。高萩も、西川みたいに嘘で自分を守るようになってもいいのか」


 ここまで一切口を挟まず、黙って窓際で風を浴びていた楓が言った。陽凪は楓の背中を縋るように見る。


「でも、でも……」


「諦めるにはもったいないし、絶望するにはまだ早すぎるだろ。高萩は正々堂々自分の現実と向き合ってる。俺はそういう人間が報われるべきだと思う。逃げちゃダメだ」


 楓が陽凪に目を合わせてはっきりと言った。楓の口調には、陽凪の真摯な想いへの絶対的な肯定が感じられる。本気なときの楓だ。


「僕は契約を全うするつもり。首絞められたくないし。だから、友達として夏恋と接するのか、好きな人として接するのかは、高萩さんが好きにすればいい。機会は提供するから、全部高萩さん次第だよ」


 僕と楓は、高萩陽凪という人間の抱える感情を理解し得ないだろう。

 どれだけ努力しても、人は誰かと全く同じように感じることはできない。だから、自分と相手の間には無限の隔たりがあると思う。

 なぜ、僕らはそれでも自然と手を伸ばして分かり合おうとしてしまうのだろうか。お互いを傷つける結果が待っていたとしても。


 陽凪はまた痛みながらも笑った。でも、今度は明るい色を見て取れる。


「せっかく運良く撮れた写真なんだから、最大限活用できるように頑張ってみるよ。冬真くん脅しながらね。ウチが付き合うことになってから恨み節吐かないでね」


 陽凪はどこか得意げな顔して僕に告げた。


「だから、僕は夏恋のことを恋愛対象として捉えてないってば。恋敵じゃないんだよ。ちゃんと話聞いてた? 」


 僕と陽凪のくだらないやり取りに、楓が広角をあげただけの顔で、おしゃれに微笑んでいた。楽しそうでも嬉しそうでもない、肯定的で深みのある笑みだ。

 最近、生存時間を急激に伸ばしている夕日が僕らに光を当てる。オレンジ色に染まった教室は影を消して揺らめいていた。



 帰宅すると、リビングからテレビの音が漏れ聞こえた。夕方のニュース番組だ。

 おそらく姉だろう。最近、姉は夕方の時間帯にリビングでぼーっとしていることが多い。夕方は姉にとっての起床時間だ。太陽が眠たそうになると、姉は目を覚ます。太陽の輝きが鬱陶しいのだと思う。


「ただいま」


 玄関の扉を閉めて、靴を脱ぎ、作業みたいに言う。

 自分の口から無機質な味がする。姉が今見ているニュース番組よりも遥かに無味だ。


「おかえり」


 大方の場合帰ってこないおかえりが帰ってきて、廊下で滑り転げそうになる。


 廊下からリビングを覗くと、姉と目が合った。


「冬真、彼女でもできた? 」


 姉からの唐突な問いに、リュックが肩からずり落ちそうになった。


 姉と日常会話をするなんていつぶりだろうか。

 体調のいい日に限った話だが、姉は母と雑談をしたり、近くのコンビニに行くなど、人と関われるようになった。以前は人と関わる全ての局面を怖がっていたので、大きな進歩だと言える。


 ただ、姉弟間で会話する機会はここ一年半ぐらいほぼないに等しかった。


 高校に入学したら、それなりにやることがあって生活時間が合わないことも多かったし、シンプルに長いブランクのせいで喋り方を忘れた。話しかけようとしても恥ずかしかったり、気まずかったりで言葉が出てこない。

 あと、なにより姉に対する罪悪感があって、気軽に声をかけられない。謝るにも謝れないし、慰めようにも慰められない。

 僕のどうでもいい話なんて、姉の気持ちを明るくするのに役立つはずがないのだ。姉は、絶望の底にいる。


 姉に何度も名前を呼ばれていることに気がついて、我に返る。意外と返答は自然に出てきた。


「彼女なんかいないよ。いるわけないでしょ」


 姉はソファのクッションをお腹の辺りに抱えた。


「じゃあ、好きな人ができたんだ」


「好きな人もいないよ。恋愛興味ないし。彼女作る予定もない。好かれてもいないしさ」


「なんだ。彼女の一人や二人ぐらい作りなよ。華のセブンティーンでしょ」


 透き通った声に安心する。最近、叫び声や怒号、それに泣き声しか聞いてなかったから、姉の本来の声色を忘れていた。

 姉が壊れる前までの記憶が蘇りそうだ。

「いや、遠慮しとく。恋愛面倒くさそうだし。僕は、学校に楽しさとか面白さを求めてるわけじゃない。ただ勉強して、それなりの生活ができればそれでいい」


 どんな言葉が姉の逆鱗に触れるか分からなかったので、そそくさに心と体を自分の部屋に向かわせる。


「でも、冬真最近なんだか楽しそうだよ」


 一歩出た足を止めて振り返ると、姉がえくぼを作った優しい顔でこちらを見ていた。


「私、冬真の楽しそうな顔見て安心した。私が冬真の人生めちゃくちゃにしたんじゃないかってずっと思ってて。目にしたくない光景を見せつけちゃってるよね。ごめん、まだ自分を制御できなくてさ」


 上手に言葉が出てこない。姉が自分を心配していたとは全く思わなかった。

 まるで、僕に起こることが、同じように姉にも起こっているようじゃないか。

 僕が楽しい表情を浮かべれば、姉も楽しいと感じてくれるのだろうか。僕が幸せだと口にすれば、姉も幸せだと思えるのだろうか。今日みたいに他愛もない会話をすれば、姉の心は満たされるのだろうか。

 いや、ダメだ。許せない。絶対に違う。


 あれだけ努力していた姉が辛い思いをして、後部座席で言葉なく、ただ唇を噛んでいた僕が楽しい思いをするなんて許されることじゃない。

 姉に幸せだなんて口にしてしまったが最後、僕は僕を殺すだろう。


 この前の夏恋と遊んだ帰り、電車で罪を感じて苦しくなった。


 たくさん笑って、ただ純粋に楽しんでしまった自分の姿を思い出して、気持ち悪くなった。そして、気持ち悪くなって安心した。

 吹き出る嫌悪に何度も頷いて、自分を嘲笑った。 苦しみよ、僕を愛して二度と離さないでくれ。僕に日向を生きる権利はない。


「気のせいだと思うよ。楽しくもないし、苦しくもない。至って普通だよ」


 心の底から正直に伝えると、姉はあたたかくも寂しげな声で「そっか」と言って、テレビに視線を戻した。


 姉の声に、胸の内側から一ミリぐらいのトゲが生まれて、細く小さな一筋の痛みが走った。

 痛みは一瞬で消えたクセして、大きな違和感が広がる。なにかが変だし違う。


 夏恋と出会ったときに感じたものと、似ているような似ていないような。

 多分、久しぶりに会話した照れくささと驚きが、痛みと違和感に変換されただけだな。特段気に病む必要はない。


 結論を自分に与えると、広がっていた違和感が一瞬にしてなくなった。

 やっぱり、暗闇にいるのが唯一の正解なのだ。紛うことなき正答だ。


 真っ暗な心に、清々しい気持ちを抱きながら歩き出す。

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