第3話

 アイラが宮殿を抜け出してから、三日目の夜。


 王都からアイラが拝領した北の辺境ホウリックまでは、クッキーの全力ならすぐだが、のんびり歩けば五日ほどの道のりだ。

 湖畔でのソロキャン中に、何の前触れもなく転移させられたアイラにとっては、一人の旅と野営も目的の一つ。迷うことなくのんびり行軍を選択したので、このあたりがちょうど中間地点である。


  ▽


「……お嬢? 何か、近づいてきてるよね」


 クッキーが、その大きな口を少しだけ開いてアイラにそっと耳打ちをした。


「しっ……静かに、クッキー」


 小川のせせらぎに混じり、僅かだが確かに不自然な葉擦れの音が聞こえた。


 アイラは、自身の詳細な位置を特定されないように、熾火となっていた火に、あらかじめ傍らに用意しておいた川砂をたっぷりかけて消火。同時に息を殺し、人から常に漏れ出す微弱な魔力すら完全に体内に封じ込めた。

 途端に朧気になる存在感。並の人間であれば、腕を伸ばせるほど近くにいたとしても、見失ってしまうだろう。


 アイラは、旅の夜の楽しみとして王都で購入しておいた蒸留酒に栓をし、読みかけの農業書と一緒にクッキーの首から下がるポーチの中に放り込む。

 代わりに、矢筒と神器『迅雷の弓』を取り出して装備。さらに、気休めではあるが酔い覚ましにと、氷砂糖を一つ、口に含んだ。


「敵、何者かな。お嬢に気取られず、こんなに接近できるなんて……ただ者じゃないよね? 幽鬼系の上位魔物とか?」

「ここは、魔王城辺りとは比べものにならないくらい魔素が薄いの。だから、そんなに強力な魔物はいないし、凶暴な獣が棲息してるなんて話、聞いたことはないよ。つまり、近づいてきているのは――」

「まさか! 人ってこと!? お嬢は世界最高のレンジャーだよ? ボクだって、バレずにあんなには近づけない!」


 小声ではあるが、抑揚からクッキーの興奮が伝わってくる。


「元、ってことにしておいてよ。魔王城からの帰り道は敵と遭遇しなかったし、王都での式典とかパレードとか何とかで、もう半年は戦ってないんだ。……だから油断は絶対にダメ。熟練の山賊なら、気配ぐらいは上手く消すよ。大きいクッキーは目標になっちゃうから、『隠微』の魔法で隠れておいて」

「……ボクが出ようか? お嬢、接近戦はあまり得意じゃ無いでしょ?」


 クッキーの提案に、アイラはゆっくりと首を左右に振った。


「領地に着く前に、リハビリしなきゃって思ってたんだ。安心して。闇討ちされたのならともかく、もう敵を認識してるんだよ。私、そう簡単にはやられないから」

「心配はしてないけど……無事でいてね。もしもアイラがやられちゃったら、ボクが次の魔王になって人類に復讐しちゃうかもしれない――……!」

「冗談に聞こえないよ、クッキー……? だったら私、人類のために山賊さんと戦わなきゃ、だね」


 アイラ抜きで全力のクッキーと戦うとなれば、勇者パーティーでも危うい。

 くすりと笑い、アイラはクッキーの身体を一撫で。それを合図に、クッキーは〈隠微魔法〉を自らにかけ、木陰で丸くなった。鍛えたアイラの目でも認識は至難。さすがは自然の化身たる精霊である。


「おっけー! それじゃ、山賊さんのお手並み拝見と行こうかな」


 音を立てずに頬を軽く叩くと、アイラは身体を低くし、夜の森を走り始めた。

 闇が深ければ深いほど、夜目を基本スキルとするレンジャー、アイラの力は高くなる。しかし、今宵は満月。慎重を期したアイラは、『消音』の魔法を使って身を潜め、ひとまず刺客との距離を広げる事にした。


 大木の陰に隠れる寸前、アイラは微かな空気の揺らぎを感知。

 魔力の探知では捉えきれない環境の微細な変化をも瞬時に察知するそれは、アイラを世界最高のレンジャーへと押し上げた技術で、彼女の二つ名『風謡い』の由来でもある。


「――……ッ!?」


 ピタリと歩みを止めるアイラ。その鼻先を猛然と飛来した矢がかすめる。


 アイラが身を隠そうとしていた楠の巨木の幹には矢が突き立てられ、反動で矢柄が上下にたわんでいた。


「魔力を探られた……!? 違う、私の動きを読んでるんだ。いい腕だけど、どうしてだろ? 少しだけ迷いがあったみたい。……上等。撃ち合いだったら、いくらでも相手になってあげる」


 鼻をすんと鳴らしたアイラは、すぐ近くのカヤの巨木を、外柱に張りつくヤモリのように、するすると登っていく。

 生来の夜目があるとはいえ、賊は暗殺者らしく〈隠微魔法〉を使用しており、アイラにもその姿は視認できない。が、獣の動きや風の影響によるものではない不自然な揺らぎは、人が動けば必ず起こる。


 賊もまた、枝葉の不自然なざわめきから、アイラの動きを予測。樹上から俯瞰されていると知ったのだろう。一所にとどまっていることが危険だと悟り、目先に物を投げたり、故意に音を立てて動いたりと、敵であるアイラを攪乱する技術を使って対抗してくる。


 しかし、万が一囲まれでもしたら全滅を覚悟しなければならない秘境――凶悪な魔獣が跋扈する魔王の森――を踏破したパーティーの目であり耳であるアイラにとって、その程度の偽装など、看破するのは容易いことだ。アイラは目を見開き、耳をそばだてて敵本体だけを観察していた。


 最大限に警戒しつつも賊は、正確にアイラとの距離を詰めてくる。満月とは言え、月明かりでは微弱だ。恐らくは煙の臭いや、夕餉の焼き魚の匂いを追っているのだろう。消臭剤も使いはしたが、一定以上の実力者相手では、あまり意味をなさない。


「それにしても変。あの賊の動き方、私が誰だか知ってるみたい……。尾行されてた? ううん。昼間に私が人の気配に気づかないわけないし、大陸一の駿馬だって、クッキーの常歩にも付いてこられないんだから――」


 樹上で身を潜め、思考を巡らせている間にも、木の陰を渡りながら賊は一歩、また一歩とアイラへと近づいてくる。


「何が狙い……? そりゃあ高価な宝石とかアイテムとか少しは持ってるけど、それが目当てなら、他にやりようなんていくらでも――……!?」


 思考の合間に、一瞬だが隙が生まれた。

 その瞬間を狙い澄まして放たれた矢は、既に眼前。アイラはそれを、念のために抜いておいた短刀で払う。


 矢は、無防備な脳幹を貫くには十分な弓力で、寸分の狂いもなくアイラの眉間を捉えていた。アイラは矢払いの技術も高く、身代わりの魔道具も所持しているので、ただの矢など当たるはずもない。

 それでも、油断した一瞬の隙を的確に突かれたことに、さすがのアイラも少し肝が冷えた。


「私とクッキーの網にかからないレベルの魔力操作、基本通りの馬鹿正直な矢の軌道。それに、王国製の鏃。……なるほど、そういうことね。だったら、生け捕りにしないといけないのかぁ」


 左手でキャッチした賊の矢の片割れを確認し、アイラはくすりと笑ってそう呟く。


 滑るように木の幹を蹴って着地すると、背負っていた『迅雷の弓』を携え、腰の矢筒から――鳳凰の羽を矢羽根に、ギザ刃の鏃を組み合わせた――矢を二本引き抜き同時に番えると、一瞬で引き絞り、狙いを合わせた。


「そこっ!」


 息を吐き、アイラは、地を這うような矢を二本同時に打ち出す。


 狙いは賊ではない。迅雷の如き速度の矢は、賊の両脇に生える腰丈ほどの草を何本も切断し、少し浮き上がってその先の木の幹に突き刺さって止まる。


「……ごはっ! ごほっ! ごほぉ!!」


 大声で咳き込む声は、賊のもので間違い無いだろう。暗殺者同士の戦闘で声を出すなど自殺行為なので、かなりの事情があるのだ。わけを知るアイラの鼻腔をもツンとした臭いが刺し、堪らず咳払い。


 慣れたのか、再び音を殺して賊は、アイラから距離を取ろうと闇雲に森を動き始めた。


「残念だけど、そっちはハズレ! これで……とどめだよ!」


 アイラは賊の進行方向の地面を狙い、今度は山なりに矢を撃ちだした。


 大きな弧を描いて矢は、百メートル近く離れた地点――動く賊の足下――に少しの狂いもなく突き立つ。


「むぎゃあぁあああ!」


 静寂の権化たる夜の森に、似つかわしくない男の悲鳴がこだまする。

 潜んでいた昼行性の小動物が、音を立てることも憚らず一斉に動き始めた。


「狩猟成功、っと。煮ても焼いても食べられない獲物だけどねー……」


 ざわめきは束の間、夜の森はすぐに元の静寂を取り戻す。


 賊に向かって悠然と歩みを進め、貴重な矢を地面から引き抜くと、アイラはゆっくりと顔を上げた――

 アイラの夜目に映るのは、上下逆となった男の顔。髪の毛は重力のまま、下に吸い寄せられている。アイラは、野営の近くに仕掛けておいたブービートラップのうちの一つを矢で起動し、賊を捕らえたのだ。


 蔦で編み上げたロープで逆さ吊りにされている男の鳩尾に、アイラはたっぷりと恨みを込めた拳を、思いっきり突き出した。


「ごはぁ!」


 やはりこの悲鳴。飽きるほど聞いたあの男性の声で間違い無い。



「……ちゃんと説明してもらうよ。エルド?」



 怒れるアイラの肩は震え、口元はヒクヒクと動いていた。

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