藍の天使
葛西藤乃
第三楽章 風と海との対話
がたんごとんと電車の揺れる音を聞きながら、車窓からの景色を眺める。
窓からは初夏の強い日の光によって輝く海が広がっていた。
もうすぐ目的地に到着する。私は重いキャリーケースと黒のレザーバッグを網棚から降ろす。
電車の扉が開くと、潮の匂いを含んだ風が吹き抜けた。
キャリーケースを引っ張りながら、祖母が暮らす家に向かう。
以前来たときの記憶を頼りに道を進めば、平屋作りの一軒家にたどり着く。
―ピンポーン―
『はぁーい』
チャイムを押せば、のんびりとした声で祖母が返事をした。
「おばあさん。私です。
『まぁまぁ。瑠海ちゃん。よく来たねぇ。今開けるから、待ってねぇ』
カギが開く音がすると、スライド式の扉が横に動く。だけど、劣化が激しく、途中でつっかえている。
私も扉に手をかけ、横に力を加えた。踏ん張っていた引き戸はようやく重い腰を上げた。
「瑠海ちゃん。久しぶり。元気だった?」
「まぁまぁかな」
簡素な返事をしながら、家に上がった。
外見から見ても築年数がいっているのがわかるが、内装も相変わらず古い。だけど、どの部屋のも人の息づかいが感じられるから、前住んでいた家より好きだ。
「おばあちゃん、瑠海ちゃんがこっちで暮らすって聞いて驚いたわ」
「もともと、高校入学と同時にこっちに引っ越すつもりだったんだけど」
本来なら、3ヶ月まえにはこの小さな港町に来る予定だった。母が反対して地元の高校に進学したものの、結局こっちで暮らす事になった。
普通なら早くに親元を離れて寂しがるのだろうが。うちの両親は2人とも音楽家で、元来家を空けている。
そもそも家を出た理由は、親…というより母と距離を置きたかったからだ。
ほとんど家にいないくせに色々指図する人の家にいるよりも、祖母の家で暮らす方がストレスがなくていい。
「瑠海ちゃんのお部屋は2階よ。前日届いた荷物はもう運んであるから」
「腰悪いのに、大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫。全部業者さんが上に持って行ってくれたから」
「そう。ならよかった」
私は自分が持ってきた荷物も部屋に運ぶ。
部屋の中はダンボールや家具でいっぱいだった。
部屋の整理なんて二の次に、キャリーバッグだけ置き去りにしてに戻る。
「おばあさん。ちょっと散歩してくる」
「そう。夕飯までには帰ってねぇ。今日は瑠海ちゃんの好きなエビフライだから」
「はーい」
レザーバッグを片手に、去年も通った道を歩く。途中、近所の叔父さんに声をかけられた。
「よーお。瑠海、こっちで暮らすそうだな。こんな中途半端な時期にどうしてだ?」
「理由は特にないです。急いでいるので、失礼します」
いちいち答えていたら日が暮れてしまう。舗装されている道を逸れて、あまり人気のない抜け道を使う。木々に覆われ日影になっているから、少し涼しい。
しばらくして、木の葉に覆われあまり目立たない洞窟が現れる。この洞窟は昔こっちで暮らしていたいとこに教えてもらったもので、知っているのは多分そのいとこと私だけだ。もっとも、そのいとこは一昨年東京に上京して、今となっては私しか通らない。
スマホのライトで先を照らしながら暗がりの中を進む。光が見えると同時に今日1番潮風を感じた。
出口の合図に気持ちを逸らせる。
洞窟を抜ければ、眼前に広がる海と手前の白い砂浜。ここは崖下に面した入り江で、崖によって常に陰る海は藍に染まっている。
里帰りのたびに私はここで誰にも知られず、フルートを吹く。こっちに引っ越してきて初日である今日も、フルートを吹くためにここまできた。
レザーバッグから銀色のフルートを取り出す。まず、試し吹きに高いドの音を出してみる。右手と左手、それぞれの人差し指でキーを押さえ息を吹く。
―フー―
ここ最近バタバタしていて、ろくに演奏してなかったわりには悪くない気がする。
目を瞑り、気持ちを整える。いつも演奏する曲の出だしを頭に浮かべて、最初のキーに手をかける。
―ザバァン!—
すると、大きな何かが水に叩きつけられる音が響いた。
瞑想をやめ、目を海へ向ければ、白い服の青年が海に沈んでいる。
「たいへん!」
フルートを浜辺に残し、すぐさま青年の元へ駆ける。
「大丈夫ですかぁあ!」
青年の側まで来てなにかに足を取られた。貝かヒトデ、あるいはゴミなどの漂流物かな思った。
「ん………」
躓いた物の正体もわからず、私まで溺れてゆく。このまま死ぬかもと思った。
いつもなら、まぁ別にいいやなんて呆気ない人生の幕い引きを受け入れられた。だけど、私より先に溺れていた青年が気がかりだった。
あの人は私と違って気に心配してくれる親や、気にかけてくる友人がいるかもしれないから。
―バッサバッサバッサ―
細いながらも男性特有のしっかりとした手に握られる感覚ののち、鳥の羽ばたきを耳にした。
体が引き上げられている事を理解した。しかし、海面から出ても吊り上げられ続け。最終的に私の足はは海面から離れ、体は浮いていた。
「大丈夫?」
浮遊感が怖くて下ばかり向いていたが、頭上からの心配の声が聞こえた。反射的に顔を上へ向ける。
最初太陽の光で目が眩みよくわからなかったが、徐々に目に映る者の輪郭がはっきりした。
姿態は一見すればごく普通の青年だ。たぶん私と同じくらいの。しかし、その青年には大きな二本の翼が生えている。
まるで天使のような羽。しかし、それは神話の天使の絵姿とは違い、純白ではなくこの下に揺蕩う海の青だ。
しかし、羽ばたく姿は天使そのもので、彼はゆっくり砂浜に降下した。
「……………」
受け入れ難い現実に唖然とする。
「おーい。耳聞こえる?そもそも意識ある?」
目の前の彼は、私がいつまでも無言でいることに訝る。意識確認をするために、片手を顔の前に掲げて、軽く左右に振る。
メトロノームのように動くそれに、意識が誘引する。
「よかった。ちゃんと意識ある」
瞬きをする私に安堵する彼は、翼がなければ人間とあまり相違ないようだ。
「あなたは何者ですか?」
しかし、明らかに人外である彼に気心を許すようなのほほんとした性格ではない。たとえ、その翼が作り物で、空を浮遊したのもなんらかのトリックだったとしても、それはそれで変人で気色悪い。
私の問いかけに「見ての通り、俺は天使。天使だよ」とカランと答えた。
「ふざけないでよ!」
こっちは真剣なのに彼の声音から、おちょくられているように感じて憤慨する。
「ふざけてないよ。それに命の恩人に対してそれはないんじゃない」
彼の言葉にハッとした。冷静に思い返せば、彼に手を引かれていなかったら自分が溺れ死んでいたから。まあ、そもそも彼が原因で覚えたようなものだけど。
「す、すみません。助けていただてありがとうございます。では、失礼します」
「ちょい!ちょい!ちょい!このまま帰るなんてそれはないよ!」
立ち去ろうするや否や引き止められたわ
「お礼は言いましたよ。まだなにか?」
「普通はもっとつっこむところでしょ!天使って本当にいるのとか、ここでなにしていなのとか。あと…」
「あと?」
「お礼は言葉だけじゃなく、なんかちょうだい」
見た目天使なのに、けっこう図々しい。
「助けていただいたことに関しては感謝しています。ですが、あなたのような不審人物と関わりたくありません」
「天使を不審人物って…きみおもしろいね」
ケラケラ笑う彼にますます青筋が浮かぶ。
「とにかく今日は帰ります」
私はこれ以上会話を続けるのが億劫で、急いで洞窟の中に駆け込んだ。あとをつけられるかもと思い家まで急ぎ足で駆け込んだ。
「ただいまぁ…」
フルートの演奏のために肺活量を鍛えているから、 入りえからここまで走ったくらいではバテたりなどしない。どちらかといえば、あのマイペースな天使(?)に気を乱された。
「おかえりなさい。まぁまぁ、濡れているじゃない」
「熱いから水浴びしてきた」
「あらそうなの。瑠海ちゃんは昔から海が好きねぇ」
特別というわけではないが、海の音は心地よくて日常を忘れさせてくれる。でも、母はなぜか海が嫌いで、こちらへ帰省した時もなかなか海に行かせてくれなかった。
いとこがあの入り江の場所を教えてくれたのは、その事を不憫に思った事が起因だ。
「夕食前にお風呂に入っておいで」
「うん。そうする」
二階に上がり、フルートケースを置いて、ダンボールから着替えを出す。
お風呂の窓からも海が見えた。黄昏時の海の色は私の好きな色とは正反対で、昼間のちぐはぐ感に切なくなる。
あの深い青の海に飛び込んで、なにもかも忘れてしまいたい。藍色の海に沈む感覚を思え返す。
やっぱりあのまま死んでもよかったかもしれない。
私は海に水没したときを再現するかのように、お風呂に頭まで浸かる。でも、温かいお湯と冷たい海は全然違う。
またしても昼間とはちぐはぐな現状に虚しさを感じるのだった。
※
入り江で天使だと名乗る青年に出会してから二日後。今日から私はこの港町唯一の高校に通う。
「
クラスさ学年ごとにひとつしかなく、一クラスあたりの総人数は30人にも満たなかった。
自己紹介を終えると、30人未満の視線が刺さる。
「『潟湊』ってあれじゃない!音楽一家の!」
「あぁ。指揮者の『潟湊
「本人もフルートのコンクールで何度も賞を取っている、すごい人!」
「どうせ親の七光だろ」
「そういえば、今年の6月のコンクールには不参加だったけど。どうしてだろう?」
騒々しくなった生徒を鎮める担任教師の叱責が教室の後ろまで響いた。けれど、もっと早く注意して欲しかった。
やっぱりここでも音楽家の潟湊夫婦の娘。そのレッテルは棲家を変えても私にまとわりつく。
ホームルームが終わると矢継ぎ早にクラスメイトか押し寄せてきた。
「潟湊さんって、やっぱりあの天才フルート奏者の三里瑠海だよね。名前同じだし」
「ねえ!吹奏楽部に入らない!私はホルンやっているんだけど、一緒に演奏しようよ!」
「賛成‼︎潟湊さんが入部してくれたら、うちの部にとって心強いよ」
「ってか、今ここで演奏してみて。俺は楽器やってないけど、フルートすごいんだろ?興味あるから、吹くところ見せてよ」
興味本位で集まってきた人たちの中には、先ほどの喧騒の最中、私の受賞暦が親の七光にやるものだとコケにした者も入っている。
私は周囲の人と壁でも作るかのように、わざと敬語で返事をした。
「悪いけど私のフルートは見世物ではないので、学校には持ってきていません」
おそらくこの中に本心からフルート奏者としての私を欽慕している人は1人としていないだろう。だから、はっきり拒絶の意を見せる。
『えっ……』
「それから部活するつもりもありませんから。私はもうフルート奏者でもなんでもないので」
仮にいたとしても、もう公衆の面前で演奏することのない。一般人の私にはもう関係ない。
「………」
「これ以上、用がないのなら、自分たちの席に戻ってください」
一蹴した途端、好機の目が不満、憤怒、嫉妬、蔑視などに変化した。
これだから上辺だけの人間は嫌いだ。
体育の授業から戻ってくると、教科書やノートが机の上に散乱していた。端がボロボロになっていたり、破れていたり、『七光り‼』『高飛車‼』『カンチガイのブス‼』なんて落書きがされていた。
―クスクスクス―
後ろ穢い嗤い声。
「あーあ。ひどいなこれ」
「転校初日で生意気な態度取るから、こんなことになるのよねー」
「まぁ、礼儀知らずの潟湊さんにはいい薬になったんじゃない」
「ぷっはは!言えてる‼」
確か吹奏楽部あれは吹奏楽部だと名乗った人たちだ。彼らが中心になって私を侮蔑する。
私に吹奏楽部に入って欲しいと懇願したくせに、断ったらこの仕打ち。礼儀知らずはどっちだって話しだ。だから、ちょっとした意趣返しをした。
「確かに、ひどいですね。これ」
「なに、落ち着いてんの?他人事みたいに」
「数学の問題をまともに答えられなかった人たちがこんなことで嗤っている暇があるのかなって思うとおかしくて、こっちの方はどうでもよく思えましたから」
『⁉』
「嗤ってないで、今日の授業の復習をした方がいいと思いますよ」
『ぐぬぬ……』
「あっ、どちらかというと、こんなくだらないことをする人たちに言うべきだったかもしれませんね」
私の煽りに、顔を真っ赤にして悔しがる吹奏楽部。
「今のはあなたたちに言ったわけじゃないのに、どうしてそんな顔をするのですか?まるで『犯人は自分たちです』って言っているかのよう」
最後の言葉に反応したら、自白したも同然になる。それだけは避けたいようで、それ以降なにも言わずに退散した。周囲の人たちも重い空気に耐え兼ね、大多数が教室をあとにする。
「……?」
ズタボロにされた教科書などの扱いに思い悩んでいると、ひとりの男子生徒がこちらを見ていた。男子にしては髪が長く、目元まで伸びている。
「なにか?」
「……に、逃げたいと思わないの?」
「逃げる?」
「こんな理不尽な目にあって……」
「あんなバカのすることにいちいち過剰な反応をして逃げていたらキリがないですもの。あんなのは脳みそ虫食いだらけの珍獣と変わりありません」
「ち、珍獣……」
「えぇ。いつまでもあんなの続けていたらそのうちしっぺ返しを食らうに決まってます」
「……」
「あなた、名前は?」
目の前の男子は、初対面で名乗らず私に根掘り葉掘り聞いてきた人たちと違い、ちゃんと名乗った。
「
「浦風くん。これからよろしくって言いたいところだけど、なるべく私には話しかけないのを推奨します」
「えっ……」
「私と話しているところをあの人たちに見られたら、きみまで理不尽な目にあいます。私のことは空気だと思ってください」
「……」
それから、浦風くんは一言もしゃべらなかった。いや、かける言葉が見つからないと言った方がいいだろう。けれど、それが正解だ。もう誰も巻き込みたくないから。
あれからあからさまなことはされなかったけど、掃除当番を押しつけられた。まぁ、教科書の件と違って誰がやったかは確実なのと、我先帰るところを目撃されているから、先生にありのままを報告した。
どうやらあの吹奏楽部の人たちはもともと素行がよくなく、部活もあの人たちの所為でまともに機能していないそうだ。
本当に入部しなくてよかった。だけど、音楽をやる者として、せめて部活動は真面目にやってほしいわ。
気分をすっきりさせたくて、家に学校かばんだけ置いて、入り江に向かう。もちろん、フルートを持って。
私は嫌な事があると、一曲吹いて気を紛らわせる。
「げぇ!」
なのに今日もあの天使(?)が入り江にのさばっていた。
「やっ!二日ぶり!」
「なんでまたここにいるんです?」
「出会い頭に『げっ!』って奇声上げたり、そんなこと言って、きみ言葉キツイよ」
「だって、あなたみたいな奇妙奇天烈な存在、信用しろって方が無理です。それに、『天使』って名乗ったけれど、そうして翼の色が白じゃなく、藍色なんですか?」
天使の翼は白というイメージが強い。ギリシャ神話の
「あぁ。この色ね。天使の羽は、自然の物に触れているとその触れた物の色に染まる性質があるんだ。まぁ、一日たてば戻るんだけど、俺は日がな一日この入り江で遊泳しているから、ずっと藍色なんだ」
「へぇー。暇なんですね」
「そう。暇なんだ」
開き直った。
「あと、天使って名乗ってけど、天使は名称であって、名前は別にあるんだ」
「じゃあ、本当はなんて名前なんですか?」
いつもならこんな奇妙なものの名前など尋ねたりはしないが、彼はこの入り江に居座っているらしい。早く出ていってほしいから、とりあいず彼のことを知った方がよさそう。いま、出てけって言ったところで素直に従わないだろうから。
「本当の名前は名乗れないけど、そうだな…『アイ』って呼んで」
「アイ?藍色だから『アイ』。なんか単純ですね」
「ひど」
彼…アイは悲観しながらも、ケラケラ笑っていた。こんな他愛のないことで笑っているアイに呆れはしたが、同時に羨ましくもあった。
「ってか、どうして敬語なの?」
「初対面なので、一応。尊敬できる人柄かどうかはともかく」
「あれ?いま、俺貶されなかった?」
アイは単純だった。また悲観したと思ったら、「まっ、いっか」とすぐに立ち直る。
「ねぇ、これからは普通に話して」
「どうしてですか?」
「同じ年くらいなんだから、敬語なんておかしいだろ?」
「天使に年齢とかってあるんですか?」
アイは「ん-。一応は十六歳なんだけど……」と首を傾げる。
一応ってなによ。一応って。
でも、面倒だからここは言われた通りにしておこう。
「アイ。わかったわ。敬語は使わないから、安心して」
「そうそう。こういう普通の会話がしたかったんだ」
これが普通の会話なのか疑問だ。話法はともかく、会話の相手も話す内容も異様だから。
話しの流れで、アイに本当に天使なのか、そもそも天使ってなんなのか尋ねてみた。
「あなたは本当に天使なの?天使っていったいなんなの?」
「んー……天使は要するに神様に仕えるものかな?その辺の事情は下界の神話と相違ないよ」
「ふーん。でも、アイは全然天使っぽくない」
「嘘!」
「だって、一日中ここで暇を潰しているんでしょ。ニートと一緒じゃない」
「あー。それね。俺の仕事は、まだ死ぬべきでない者の命を救う事だから」
「まだ、死ぬべきでない者?」
「そう。まだ寿命が残っている人間が事故かなにかで死にそうになったとき、助けるのが仕事」
「それってサボったらまずいんじゃないの?パトロールとかしなくていいの?」
「あぁ、平気、平気。パトロールしても、こんな田舎じゃ事件とかは起きないし、陸の事故より海の事故の方が多いから。海辺で待機している方が都合がいいんだ」
「言われてみたそうかもしれないけれど、だったら人の多い浜辺を黙視すべきじゃないの?こんなところで泳いでいたら事故が起きたとしても気づけないわよ」
「それなら大丈夫。こうして体の一部を海に浸けていれば、近くの海で異変が起きると直ぐにわかる」
そう言ってアイは海に浸かり、出会ったときのように空を仰ぐ。藍色の翼が海に同化して境目がわからない。
「それも天使の力なの?」
翼が簡単に変色や脱色するように、
「うん。そうだよ。人間の第六感を100倍にしたようなもの」
「海以外の事故はどうやって知るの?」
「陸地でも、地面に足を着けていればいいし。空ならなにもしなくてもわかる。空は俺ら天使のホームグラウンドだから」
するとアイは「少しは尊敬した?」と聞いてきた。
ここで正直に言ったら図に乗ると思いそっぽを向く。そんな私に、困ったものだという感じで今度はアイがため息をつく。でも、アイは微笑ましいものを見るような目で私を移す。
アイは砂浜に上がり、私の隣の戻ると「俺のことは話したんだから、瑠海のことも話してよ」と仰ぐ。
「あれ?私、まだ名乗っていなかったような……」
アイのペースに乗せられて、すっかり失念していた。だが、アイはそんなことには構わず「まぁ、いいから。いいから」と話すように促す。
アイは私の荷物に目をやり「それ、フルートケースだよね。瑠海はフルート演奏できる?部活も吹奏楽部だったりして」。
「まあまあ吹ける。アイの予想通り、前の学校では吹奏楽部だった」
「前の学校では?今の学校じゃどうなの?」
誰があんな珍獣たちがいる部活に入るものか。
「答えたくない」
「しらけているなぁ。でも、フルートは吹けるんだ。ここで吹いてよ」
「それもイヤ」
「えーーー。あっ、じゃあ、この前助けたお礼ってことで、聴かせて」
「絶対イヤ。常語で話すようになったのをお礼ってことにして」
「えーーー」
「えーーーじゃない。そもそもあのときは、アイの翼に躓いて溺れたんだから」
「そんなぁ。お願い。ちょこっとだけ」
「ダメ」
「ほんの少し」
「イヤ」
「どうしても」
「ムリ」
こんな押し問答に付き合っていられない。当初の目的はできなかったけれど、家に帰る。
しかし、アイと話している内に、憂鬱とした気持ちは晴れていた。
※
「潟湊さん。今日も掃除当番よろしくね」
「潟湊は告げ口が趣味みたいだから、いいネタ作ってやったぞ」
「私たちに感謝してよね」
そんな捨て台詞を吐きながら、珍獣は一目散に校門を目指す。
この学校に来てから早一週間。彼らが掃除当番の日は毎回押し付けられた。無視してそのまま帰ってもいいけれど、それだと学校が汚いままだから。
あの人たちは、私の放課後の時間を奪えて満足なのだろう。しかし、なんの部活には入らず、学校外での用事も特にないから、痛くも痒くもない。寧ろ、私にノーダメージで、彼らは翌日には先生に𠮟責を受けるのだから、自分で自分の首を絞めるようなものだ。それすら気づけないのだから、心底脳が空っぽなんだ。
私がひとりたんたんと机を動かしていると、毎回たったひとりだけ手伝ってくれる人が来た。
「手伝わなくていいって言っているのに」
「
汐後さんとはさっきのメンバーのひとりだ。彼女を筆頭にうちのクラスの吹奏楽部が幅を利かせている。あの人たちに怯えて、誰も私に味方しないのに、浦風くんだけはこうして手伝ってくれる。
転校初日の翌日。
その日あの人たちは理科室の掃除当番だった。理科室は無駄に広く、授業で使う器具や実験の薬品なんかも置いてあって、ひとりで掃除するには普通の教室より大変だった。
『手伝うよ』
固定されている机を避けながらほうきを掃いていたら、浦風くんがモップで床を拭いてくれた。
『昨日は手伝えなくてごめん』
罪悪感いっぱいにモップを動かす。
気にしなくていいよと言っても、浦風くんはかまわず毎回手伝う。
「どうして毎回手伝ってくれるんですか?わざわざあの人たちが帰った隙を狙って」
他のクラスメイトは自分たちの掃除をしたり、部活動に行ったりしているのに、浦風くんだけだ。こうしてくれるのは。
「これくらいしかできないよ。僕だって卑怯者だ。汐後さんたちの前だと隅に隠れて静観している。なにより……」
浦風くんは重い口をどうにか開こうとする。
「はぁ…はぁ…はぁ…」
でも、うまくいかず、このまま放置したら過呼吸で倒れてしまいそう。
私は彼の首を手刀で軽く叩く。
「クッハ‼」
「無理して話さなくていいので。あの人たちの前で助け船出さないことも気にしていませんし」
「でも……」
「目立たず、じっとしている。それが賢い生き方です」
私にかまわなくていい。助けなくていい。もうあんなことになってほしくないから。
「こんな話しはやめにして、早く掃除おわらせちゃいましょう」
だけど、掃除に関しては少し甘えよう。せっかくの厚意だもの。
「急がないと日が暮れますよ。波夛くんも放課後は用事あるんじゃないんですか?」
「う、うん」
私たちは急いで掃除を終わらせた。
放課後。あの入り江に行くことが私の中で恒例となっていた。
「アイ。また遊んでる。海の入っていればいいとはいえ、少しは真面目に働いたら」
「いいだろ。この町の海は澄んでいて、泳ぐと気持ちいいんだから」
最初、胡散臭くて信用ならなかったアイとは、友達とは言いづらいけれど、それなりに打ち解けていた。
でも、アイは海から離れられないから、砂浜に腰を据えて会話をするくらいしていないけれど。
「にしても、まだ信じられないな。アイが天使だなんて」
「なんだと。翼の色を無視したら、どっからどう見ても天使だろ。瑠海を助けたときも、飛んでたじゃないか」
「そもそも、今まで天使という存在を見たことないし、天使の存在自体突拍子もないから」
「それはそうだけど、実際に目の前に翼を生やした空想上の生き物がいろだろう」
「その軽薄な性格で、余計に天使だと思えないんだけど」
「また、辛辣。俺、傷ついちゃう」
そういうおちゃらけた態度が不信感を与えていることに気づかないかなぁ。
「天使を見たことないのは当たり前だと思う。天使は数はあれどほとんどの人員は神様の元で働いていて、地上で活動しているのはごく僅かだから。それに、大抵の人間は天使を視認できないし」
「そうなの?」
「あぁ。でも、例外はある。霊感の強い人間だったり、死にかけた経験のある人間だったり」
かなりスピリチュアルな体質が求められるらしい。
「あと、天使の生前……つまり人間だったころに関わりのある人間も、その関係性のある天使だけ視認できたりする」
生前?人間だったころ?…これではまるで、むかしは人間だったと言っているよう。
「あー。これはまだ教えていなかったかぁ。天使は元々死んだ人間なんだ」
予想は正しかった。アイはむかし人間で若くして亡くなったんだ。
「……」
アイは自分は十六歳だと言った。つまり、死んだのは私と同じ歳、つまり高校生のときだ。そんなに早く亡くなったのに、辛くはないのだろうか。
「同情はしなくていいから」
「!」
「死んだのは十年以上まえだから、もう気にしてもいない。だから、これまで通り友達として接して」
「……友達」
「うん。友達だろ俺ら」
「……」
友達なんて作る気はなかった。そもそも私の人生において友達という関係性の人間はできたためしがない。
こういうとき、どうするのが正解なのだろう。否定するのはアイに悪い。
いつもなら擲って、キツイ言葉を返す私。だが、こうしてアイを憂いるあたり、彼を憐れんでいる自分がいる。
返答に窮し押黙っていると、アイがいつになく深刻な表情で海を見た。
「アイ?」
「ごめん。今は声をかけないで。集中できないから」
アイは自身の肉体を海に沈め、瞑想する。ほどなくして、「あっちだ‼」と翼を羽ばたかせ、海水浴場の方へ飛んでいった。
私も陸地からそちらを目指す。洞窟を抜け、でこぼこ道を走り、海道から浜辺に降りる。
海開きをしている海水浴場の波打ち際に人が集中していた。その中心には肌色を青くさせた意識のない子どもが横たわっている。周囲の大人たちは人工呼吸や心臓マッサージを施し、懸命に救命し続ける。
子どもの側にはアイもいた。
「がんばれ!まだ間に合う!その道を引き返すんだ!」
アイは力なく垂れ下がる子どもの腕を握る。
「さあ!俺の声のする方へ足を向けて!」
必死で子どもを呼び止める姿。これが
次第に子どもの顔色に生気が戻り、息を吹き返す。
「ガハッ‼」
「息を吹き返したぞ‼」
「坊主、大丈夫か?」
「ごめんね。ごめんね。お母さんがちゃんと見ていなかった所為で、怖い思いさせてごめんね」
周囲の大人たちの歓声を背に、アイが私のいるところまで飛んできた。
「瑠海も来ていたんだ」
「うん。ちょっと心配で……」
「心配してくれてありがとう。でも、もう大丈夫。水は全部吐いたし、命に別状はないだろう。それより、俺の活躍っぷりはどうだ!かっこよかっただろ!」
子どもを救ったときのアイの神秘性はすっかり鳴りを潜め、いつもの能天気な彼に戻っていた。
「助かったとはいえ、溺れ死にしかけ子どもが近くにいるのよ。不謹慎よ」
「そうかもだけど、もう助かったんだし」
理解した。これがアイという天使なんだ。平常時はおちゃらけていて。でも、誰かの命が危機に瀕したときには、颯爽と駆けつけ命を救う。
そこに
深く考える必要なんてなかったんだ。素直で、単純で、陽気なこの天使に、気遣いも憐憫も必要ない。それがどんな過去であろうと。
「あーーー。本当に私の友人は阿呆で困るわ」
もう認めなきゃ。アイといると、楽しい。アイは私の初めての友達だ。
私たちは入り江に戻って、いつものように話し合う。
それは『さっきのこと、褒めて』など、『ご褒美として、フルート聞かせて』など、相変わらず厚かましい。
でも、この天使と友達になった以上諦めなきゃ。こういう天使と友人として付き合っていくのだから。
※
アイとの友人関係はその後も良好だった。だけど、ひつとだけ疑問がある。
私がアイを見ることができる理由だ。
私には霊感という類は無縁だ。幼少期、いとこと肝試しにお墓に行ったとき、いとこは幽霊を見たなどと言っていたが、私はまったく感じなかった。それにアイ曰く、生半可な霊感では存在に気づけても、肉眼でとらえることはないそうだ。
生と死の間を彷徨ったというのも当てはまらない。今まで命にかかわるような事故にも事件にも巻き込まれた覚えはない。物心がつくまえならあるかもしれないけれど、親や親戚一同からそういった話しはまったくなかった。
そもそもこの二つのどちらかが原因だとしたら、アイと出会うまえに他の天使と会っていたはずだ。ここは田舎だから、天使はアイひとりだけど、都会だと人口密度にともなって、配備される天使も多いとのことだ。
残るはアイが人間だったころに知り合いだったという可能性があるが、アイが死んだのは十年もまえ。私はまだこの町に住んでいなかった。里帰りでこちらに来たときに顔を合わせたとしても、当時の私は最低でも幼稚園入園以前…あるいは物心すらついていなかった。そんな幼児と当時高校生だった青年が顔見知りだったとは考えにくい。
だが、私が覚えていないだけで、本当に会ったころがあるかもしれない。アイに心当たりがないか問いただしたが、『そんなに
しかし、幼少期アイと繋がりがあったとして、今の関係性に変わりはないだろうし、やはり気にしてなさそうとはいえ、生前のことを聞くのは野暮だ。これ以上深掘りしないことにした。
今日は珍しく学校にフルートを持ってきていた。理由は、憂さ晴らしのため。
昨日、汐後さんが図工で制作した粘土細工が壊されていた。この犯人として吊し上げられたのは私だった。もちろん覚えはないが、汐後さんと同グループの人たちが私がやったと担任に告発した。そんな最中、粘土細工を壊されたはずの汐後さんは、大衆の前では流涕したが、私が職員室に呼び出されたときには嘲笑っていた。
私を陥れるために、汐後さんがわざと自分の作品を壊して、その犯人が私だと教師に報告するように仲間とグルになったのは明白だ。
幸い、粘土細工が破壊されたのは私が帰宅したのちだと証明してくれた生徒がいた。
だが、穢いやり口で私をハメようとした事実は変わらない。むしゃくしゃして気分直しにフルートを吹きたかったけれど、ひとりで演奏できそうな場所は旧校舎の音楽室した思いつかなかった。
アイを友達だと認めてはいるし、アイになら聴かせてもいいと想えてきた。それでも、あの入り江を選ばなかったのは、演奏を聴かせたらアイが図に乗りそうだからだ。聴かせるのはあのひょうきんな面が改善されたときだ。
旧校舎は文系の部活が活動部屋として使うことがあるようでわりと綺麗に掃除されていた。でも、吹奏楽部は本校舎の音楽室で活動しているらしいから、それなりに埃が溜まっていると見越していた。
しかし、実際に音楽室に入ってみると、埃ひとつなく、机やイスも整頓されていて、他の教室と遜色ない。
あまりに散乱していたら掃除する気でいた。その必要はなかったようで、ラッキーぐらいにしか思わなかった。
イスをひとつ拝借して、腰を据えた。
奏でるのはドビュッシーの交響詩『海 第三楽章 風と海との対話』。順番からいけば、第一楽章だが、第三楽章は第一、第二にはない、風と海が荒れ狂う躍動感がる。むしゃくしゃしたときは、こういったテンポの速い曲で気分をすっきりさせる。まるで、風が海を巻き起こして、海上のものすべてをかき消すように。
激しい風と荒波立つ海は十分ほどで静まる。
―パチパチパチ―
ふいに小さな拍手が鳴った。扉の方には、浦風くんが立って両手を叩いている。
「すごかった。この場に立っているだけで、吹き荒れる海上にいるような迫力だった」
「浦風くん、聴いていたんですね」
「あっ……ごめん」
まずかった。今の言い方だと責めているよう。
以前、『私のフルートは見世物ではない』とクラス全員の前で演奏を拒絶したから、私が人前での演奏を拒んでいることに浦風は気づいているはずだ。
「立ち聞きするつもりはなかったんだ。でも、演奏しているのが潟湊さんだとわかった時点で声をかけるなり、立ち去るなりすればよかった。本当にごめんなさい」
案の定、罪悪感からいつにも増して後ろ暗かった。
「今のは私が悪いので。もう気づいているんでしょうけど、私は他人に演奏聞かれたくありません。でも、偶然聴いてしまったことに対して、批判的な態度とってごめんなさい。あと、ありがとうございます」
「褒めたぐらいでお礼なんて……」
「そのことに対してお礼をしたわけじゃないです」
汐後さんの作品が壊されて、犯人扱いされたとき。弁明してくれたのは……
「浦風くんですよね。先生に私のアリバイ証明してくれたの」
「……っ‼わかっていたの……」
「状況的に浦風くん以外に心当たりがありません」
事件当日、例によって私は汐後さんたちに掃除を押しつけられた。場所は事件現場の図工室で、汐後さんたちが去ったあと、浦風くんがやってきた。このとき、彼も私もまだ粘土細工が無事であることを知っていた。
「それに、この学校で私の見方をする人間も浦風くんだけです」
「……」
「なのに、嫌な思いさせて申し訳ありません。私は帰るので、浦風くんはこの教室使ってください。ひとりの方が気兼ねしないでしょう」
帰り支度を始めたら、「感謝しているのなら。ひとつだけ頼みごとがあるんだけど、聴いてくれる」と問われた。
無罪を証明したことをダシに頼みを請うという浦風くんらしくない行為に怪訝する。
「……内容次第です」
だがしかし、彼が勇を鼓して頼み込んでいる様子だから、耳くらいは傾けた。
「僕、バンドやっているんだ。この音楽室が綺麗なのも、バンドメンバーとここで定期的に練習するためで……」
浦風くんは帰宅部なのに、私の掃除に付き合ったあとは帰宅せず、学校に残っていたのはそういうことだったんだ。この教室が綺麗な理由にも納得する。
「それで頼みたいのは、その……僕が所属しているバンドにフルート奏者として、入ってくれない?」
「⁉」
想像もしていなかった。てっきり、フルート奏者としても経験による音楽のアドバイスを求められるかと思っていた。
「バンドでフルートってミスマッチじゃないでしょうか?」
「そんなことない!音楽って……自由なものだから……」
浦風くんが熱心に私のフルート奏者としての腕を求めているのはわかった。それに、浦風くんは本心から、私の演奏を褒めてくれた。
だけど……
「ごめんなさい。私はもう人前で絶対にフルートは吹かないと決めたんです。バンドのメンバーが足りないなら他を当たってください」
藍の天使 葛西藤乃 @wister777noke
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