名前しか知らない少年と遊んでいたら、妹が恋に落ちました(短編集)

Wacco

名前しか知らない少年と遊んでいたら、妹が恋に落ちました

「いや、そろそろお前帰れよ。」


 思わず突っ込んだら、そいつはいつものように飄々ひょうひょうとした態度で言った。


「いいだろ別に。減るもんじゃなし。」


(いや、減るよ。間違いなく俺のプライベートな時間がな。)


 そう言いかけて、喉まで出かかった言葉をぐっと飲みこんだ。代わりにガシガシと頭を掻いて深く深くため息をついた。

 こいつはいつもこんな感じだった。ふらっと俺のところに来ては何をするでもなく延々と居座る。目的はなんとなく理解してるが、邪魔なものは邪魔だった。


(そんなに気になるなら堂々と会いに行けばいいのに……)


 昔に比べて遠慮のなくなったそいつを見て、俺はまたため息をついた。




 ***




 初めての出会いは俺が8歳のときだった。いつものように里の友人たちを誘って森に探検しに行くと、魔獣なんていないはずのその森で、巨大な熊のような魔獣に遭遇した。俺たちの5倍はあろうかというその巨体は硬そうな毛皮に覆われており、口元からは2つの凶暴な牙が覗いていた。その魔獣は俺たちを見つけると、よだれをボタボタと垂らしながら、のそりのそりと近づいてきた。

 俺はその場にどさりと尻もちをつくと、足がすくんでその場から一歩も動けなくなった。足がガクガクと震え、歯はガチガチと音を鳴らす。友人たちの喚き声と逃げ回る足音が遠く聞こえた。そのまま魔獣は近づいてくると、前足をゆっくりと振り上げるの見えた。途端、誰かが俺の名前を鋭く呼ぶ声がした。

 ハッと我に返って飛びずさると、先ほどまで座っていた地面に魔獣の爪がめり込んでいた。全身が恐怖にあわ立つ。あのままだったら今頃生きてはいなかっただろう。後ろを振り返ると、友人が2度手招きして走り出すのが見えた。俺も後を追うように走りだそうとして、足がピタリと止まった。


 視界の端に見えてしまったのだ。怯えた少年に魔獣が襲い掛かろうとするさまが。いつも弟のように可愛がっていた少年だった。

 

 気が付くと、俺は太い丸太を持って駆けだしていた。そのまま大きく跳躍すると、あらん限りの力で魔獣の頭を殴打した。サッと後ろに退くと


「逃げろ!!」


と思い切り怒鳴る。少年は俺の怒声に驚いたのかびくりとした後、われに返って一目散に逃げだした。俺は額に冷や汗を浮かべながら、魔獣に向かって挑発するように嘲笑った。



 そうしてどれくらいの時間がたったのだろうか。俺は未だに魔獣との命がけの追いかけっこをしていた。最初は逃げようとしてみたり、倒そうと戦ってみたりしたが、どちらも徒労に終わってしまった。魔獣はその見た目にそぐわず俊敏だった。


(まあみんなの逃げる時間は稼いだし、完全に無駄なわけじゃないよなぁ。)


そう思ったとき、体力の限界を告げるかのように膝がガクンと崩れた。


まずい。そう思っても後の祭りだった。視界を巨大なかぎ爪が横切り、左脇腹に焼けるような痛みが走った。妙な浮遊感を感じた後、右肩に大きな衝撃を感じた。かはっと空気を吐き出して、その場にずるずると崩れ落ちた。木にたたきつけられたのだと気づいても、どうすることもできなかった。最後の悪あがきだとでも言うかのように俺は不敵に微笑んで、砂をがしりと掴んだとき、、、


短い黒髪をさらりと風になびかせて、そいつは颯爽と現れた。


群青色の2つの瞳が真っすぐ魔獣をとらえている。


突然のことに呆気にとられている俺を放置して、そいつはスラリと腰の剣を抜き放った。

 

気がつくと魔獣は物言わぬ躯になり果てていた。


その後、けがで動けない俺を家まで送ると、一言


「今度は気をつけろよ」


とだけ言って去っていった。


いやどこの恋物語だよって突っ込みたくなるような出会いだった。




 もう会えないかと思いきや、それからその森でちょくちょく見かけるようになった。そのたびに俺はそいつに話しかけ、仲良くなろうと必死になった。何せ俺にはヒーローだったのだ。牙狼族フォン・リベなら里で会えるかもしれないが、そいつは牙狼族には見えなかった。自慢の三角耳もふさふさの尻尾も持っていない。いったいどこの誰なのか、ここで何してるのか聞きたかったけど、なんとなく聞いてはいけない気がして聞けなかった。

 そんな関係が半年ぐらい続いたある日、そいつは唐突に名前を言ってきた。言われた瞬間は何のことかわからなかった。それがそいつの名前だと分かったとき、一瞬ポカンとしてしまったけど、すぐに飛び跳ね回りたくなるほどの歓喜がこみあげてきた。けど俺はそんなことはおくびにも出さずに


「そっか」


とだけ言った。なんとなく小っ恥ずかしかったのだ。




 それからまた1ヶ月ほど過ぎると、俺は魔術学院マジックアカデミーの入学試験を受けることになった。なんとなくそいつと離れるのがさみしくて、一緒に受けないかって誘ったら、再来年受けるからといって断られた。なんで再来年なのか不思議に思う。小首をかしげて理由を聞くと、


「いや、だいたいみんな8歳で受けるもんなんだろ?」


という答えが返ってきた。同い年か年上だろうと思ってたから、2歳下ということに驚いた。驚きを隠さずに、おまえ2歳年下だったのかって言ったら、1歳下だと言われた。ならなぜ再来年受験するのか。聞いても答えてくれなかった。こいつの考えてることはよくわからない。


 そいつはいまだに謎だらけで、どこから来たのかもどこに住んでるのかもよく知らなかった。かろうじて知ってるのは名前だけだ。誰かの家に泊めてもらってるのかとも思ったが、そいつが他の誰かと喋っていたり、森の外へ出ていたりするところを見たことがない。いつもこの森で会ってるけど、俺が友人達とこの森に来たときには決して姿を現さない。おそらくこの里の中でこいつの存在を知っているのは俺だけなんじゃなかろうか。




 それからまた1か月ほどが過ぎた。俺は魔術学院に入学が決まっていて、移動日が刻一刻と迫っていた。

 もうこいつとは会えないのかと思うと急に寂しくなってくる。そもそもこいつはこれからどうするつもりなのか。俺が魔術学院に行ったらここからいなくなるんじゃないかと不安になる。断られるとわかっていても、つい家に遊びに来ないかと誘ってしまった。俺以外にもこいつのことを知っている人が一人でもいれば、来年以降もここに留まっていてくれるんじゃないかとそんな気がしたんだ。

 あまり人と会いたがらないやつだからまぁだめだろうなと思って期待せずに返事を待っていると、


「いいよ」


という短い返事が返ってきた。俺はびっくりして、何度も聞き直してから、家に帰ってすぐに両親に報告した。




 翌日いつもの森で待ち合わせをして家まで連れていくと、そいつは見たこともないような愛想笑いを顔に張り付けていた。両親と弟、妹たちとにこやかに挨拶をしている。こいつが笑えたことにびっくりだった。


 そして俺は人が恋に落ちる瞬間というのを生まれて初めて見た。


 恋に落ちたのは妹だった。妹はそいつを見た途端、目を真ん丸に見開いて頬を赤く染めた。話しかけるときは伏し目がちな目に憂いをたたえて、返答があると花がほころぶような笑顔になって、そいつの行動一つ一つに一喜一憂していた。


 そんなあからさまな妹に対して、そいつは何も感じていないとでも言うかのように、何食わぬ顔で接していた。


 ああ、これが恋に落ちて失恋する瞬間なんだと、気づかずにはいられなかった。


 妹はもうこれ以外の恋はできないだろうと、直感がそう告げていた。


 俺たち牙狼族フォン・リベつがいに対する執着心は獣人族ラファン・ラセの中でも随一だ。番を失えば狂い死ぬともいわれるほど生涯たった一人だけの番を愛する。番以外に恋することもあるというが、妹の憂いを帯びたその姿からは、ただの淡い初恋ではない、それほどの感情がにじみ出ていた。


 だがその気持ちは決してそいつに理解されることはないのだろう。そう思うと、俺は妹が哀れになった。おそらくそいつは噂に聞く人族だ。獣人族の特徴である獣のような尻尾や耳を持たず、エルフ族のような尖った耳もない。人族には番という概念がないというのは有名な話だ。人族と獣人族の番は悲劇を生みやすいという。


 俺が妹の恋を奪ってしまったのかと思うと、拭いきれない罪悪感がじわりじわりと湧いてきた。




 それからまた1年半ほどが過ぎて、俺は魔術学院の夏季休暇で帰省していた。そいつは相変わらずその森にいて、俺たちはゆるい交流を続けていた。


 事件が起こったのはそんな時だった。


 妹がさらわれた。両親によると2ヵ月ほど前に魔法属性を確認する儀式が行われ、妹はその儀式で聖属性持ちであることが判明したのだという。聖属性の魔法は非常に稀有で有用だ。喉から手が出るほど欲しがるものも多い。里をあげて厳重に警戒はしていたが、祭りの準備で警戒が緩んでいたところを狙われたのだとか。俺はそれを聞くなり、制止する声も聞かずすぐさま森まで駆けて行った。


 なぜかはわからない。


 俺のときのように颯爽と助けてくれると思ったのかもしれない。とにかく森でそいつの名を叫び続け、見つけるなり一部始終をまくしたてた。そいつは初めは落ち着いて聞いていたのに、妹がさらわれたくだりになるとサっと顔を青ざめさせた。次いで般若のような形相になり青筋を立てる。噛みしめた唇からは一すじの血が流れ落ちた。だがそいつはそんなこと気にも留めず、俺の胸倉を掴み、どこにいるのかと怒鳴りだした。こいつがこんなにも感情をあらわにしたのは初めてだった。


 おれはカエルににらまれた蛇のように固まっていた。恐ろしいほどの威圧的で膨大な魔力があたり一帯を包み込んでいる。一陣の風が吹き抜けると、陽の光を反射した黒曜石のような漆黒の髪がふわりと靡いた。激情をたたえた真紅の瞳がい殺さんばかりに俺を見ている。


「北西の街道へ向かったのを見た人がいるらしい」


その言葉をなんとか絞り出した。


 途端、ばさりという音とともに浮遊感を感じた。気が付くと、あたり一面真っ青な青空の中、俺たちは空に浮かんでいた。ほかの鳥たちを抜き去りながら、猛スピードで飛んでいく。不思議と風圧は感じなかった。


 思考停止した俺の頭でも理解せざるを得なかった。


 ああ、これが獣人族最強とうたわれる、竜人族ラゴ・リベの力なのかと――


 それから数分ほど飛び続けていると、逃げるように疾走する馬車が見えてきた。周りにはガラの悪い男たちが馬に乗って駆けていた。もしやあれかと思っていると、そいつは躊躇なく馬車の上に落下した。ドスンと四肢で着地する。いつの間にか両の手足は光り輝く硬い鱗に覆われていた。指先から生えたかぎ爪が、馬車の天井を貫いている。そいつはくぐもった唸り声を上げながら手に力を入れると、馬車の天井を紙のように引き裂いた。周りにいた男たちの顔には驚愕の色が浮かんでいた。


 中にはこちらを驚いた目で見る妹がいた。抵抗でもしたのか衣服はボロボロで、体のあちこちにあざや切り傷ができている。手足は縄で縛りつけられ、赤黒い跡が残っていた。口にはさるぐつわが嚙まされて、苦しそうな息が漏れ出ている。泣きはらした真っ赤な目からはボロボロと涙がこぼれ落ちていた。

 それを見た瞬間、そいつの何かがプツンと切れる音がした。


 そこからはもう地獄絵図だった。


 そいつは狂ったような声で喉の奥底から咆哮すると、御者台を掴んで馬車を止め、御者の男を地面に叩きつけた。力を受け止めきれなかった地面はビキビキと音を立てて割れていく。尻尾を一振りしただけで、数人の男たちが宙を舞った。殴り、蹴り、なぎ倒し、見ている者を戦慄させるほどの絶大な力と暴虐性をもってあたりを蹂躙していく。俺はただただ見ていることしかできなかった。


 そいつが腕を一振りするたびに、あたりには暴風が巻き起こり、砂埃が舞う。動物たちは恐怖に逃げまどい、木々はキリキリと悲鳴を上げていた。すべてが終わった後のその場所は、嵐が去った後のような凄惨な姿に成り果てていた。


 そいつは誘拐犯が隠れていないことを確認すると、馬車の扉をそっと開いた。妹はまだはらはらと泣いていた。そいつは柔和な笑みを湛えて何かをささやくと、妹を壊れ物のように慎重に丁寧に抱き上げて、ゆっくりと馬車の外に出た。そのままそばにドカリと座る。妹をぎゅっと抱きしめて、安心させるようにゆっくりと背をさすっていた。何かをささやくそいつの唇が,かすかに震えているような気がした。


 俺はただただ見ていることしかできなかった。


 あれほどの激情を一体どこに秘めていたのだろうか。そいつが妹と会ったのは、妹が恋に落ちたあの瞬間ときだけだ。あの後は妹と会おうともしなかった。なぜそれほど妹を避けるのか、何か理由でもあったのか。


 あの激情をおくびも出さず、淡々と接するほどのそのに、俺は得も言われぬ恐ろしさを感じた。




 ***




 あれからもう7年が経った。あの後こいつは妹と同じタイミングで入学し、飛び級制度を使って俺と同じ学年にきた。

 こいつがどこのだれで、なぜあんな所にいたのか、今ではもうなんとなく予想はついている。竜人族ラゴ・リベで漆黒の鱗をもつ家系と言えば一つしかない。そこの跡取りが出奔しているとの噂も聞いている。

 何がこいつを駆り立てているのかはいまだによく知らないが、俺には到底想像も理解もできないようなことなのかもしれない。


 あれから7年たった今でもこいつは妹に会おうとしない。あの事件の後こいつは妹にお守りのようなものをあげていた。妹は今でもそれを肌身離さず大事そうに持ち歩いている。誰がどう見ても両思いなのは確かなのに、出くわさないよう目に留まらぬよう、慎重に慎重に避けている。まともに会話をしたのなんて、片手で数えるほどしかないんじゃないか。

 妹が恋に落ちたあの瞬間、俺は妹を哀れんだが、今では少し考えを改めている。




 本当に哀れなのはむしろこいつの方なんじゃないか――

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