影と光のメガネ

kou

影と光りのメガネ

 オフィスは活気に満ちた雰囲気で、仕事に取り組む従業員たちの姿が見られた。

 デスク上にはパソコンや書類が整理されキーボードの音やマウスのクリックが聞こえ、忙しく仕事に取り組んでいる様子がうかがえた。

「村上!  来い!」

 部長の鋭い呼び声が、事務所内に木霊した。

 すると一人の青年がデスクを立ち上がり、部長の元へ向かって行く。

 幼さが残っているように見える。

 丸い瞳には常に穏やかな光が宿り、メガネのレンズ越しにも彼の内面の優しさがにじみ出ている穏やかな笑顔と柔らかな表情が特徴であり、優しそうな印象を受ける。

 名前を村上健太という。

 健太は上司の前にたどり着くなり、緊張した面持ちで背筋を伸ばした。

「何だこの書類は?」

 厳しい口調で問いかける部長に対し、健太は必死に言葉を紡ぎ出した。

 しかしそれは言い訳じみた内容であった。

「口答えするな」

 冷たく言い放つ言葉に萎縮し、健太は何も言えなくなってしまう。

「今日中に直しておけよ」

 命令と共に渡された書類の束に目を移すと、その量の多さに愕然としてしまう。それでもやるしかないと思い直し、彼は席に戻った。


 ◆


 健太が会社を出られたのは23時を過ぎてからだった。

 ようやく解放されたと思ったが、次は心配事が頭をよぎる。これ以上残業が続けば、ストレスで胃に穴が空きかねないと医者に注意されている。

「先生に怒られるかな」

 そう呟きながら、健太は溜息を吐く。

 終電を逃してしまったため、タクシーを利用しなければ帰ることができない状況だが、深夜料金のため財布へのダメージはかなり大きいものとなるだろう。

(今から帰宅してどうする?)

 と健太は思った。

 疲労困憊な状態で家に着くとすぐに風呂に入る元気も無く、ベッドに倒れ込んでしまうだけだ。それから目が覚めると同時に出勤に追われることになる。

「ネットカフェで過ごそう……」

 そんな考えが浮かぶとスマホで検索し、一番近いネットカフェに向かって歩き始めた。

 大通りから外れ、人気のない裏通りを進んでいると脇にある路地から異様な気配を感じ取った。

 不可解な気配を放つ影が、路地の奥に潜んでいる。薄暗い路地深くで、何者かが蠢いている。

 罵倒する言葉や鈍い打撃音が微かに聞こえてくる。

 見ると、中年男性が3人の男に囲まれていた。

 チンピラ風の男たちが男性の胸倉を掴みながら怒鳴り散らしている様子が見える。暴行を受けている男性は恐怖のあまり顔面蒼白になっており、抵抗する気力すら残っていない様子だった。

「……だ、出します。許してください」

 弱々しい声で許しを乞う中年男の姿に、男達は嘲笑うような笑い声を上げた。

 中年男性は懐から財布を差し出すと、一人が財布をかっさらう。

「チッ! 6千円しか入ってねえじゃねえか!」

 男は舌打ちをしながら怒りをぶつけるように、男の腹を蹴り上げた。

 苦痛の声を漏らして倒れ込む男を見下ろし、他の2人はニヤニヤとした笑みを浮かべるだけだった。

 すると、男達の一人が健太が見ていることに気づく。

「おい。見られたぜ」

 その言葉に反応するように残りの二人も視線を動かし、こちらを睨みつけてきた。

 身の危険を感じた瞬間、その場から逃げ出すべきだったのかもしれない。しかし足がすくんで動けず、その場に立ち尽くしてしまった。

 彼らはじりじりと近づき、やがて健太を取り囲むように立った。

 逃げ場を失ったことで絶望感に襲われつつも、健太は必死になって逃げ道を探すべく辺りを見渡す。

 しかし、どこにも見つからなかった。

 怯える彼を見て満足したのか、男たちはニヤリと笑みを浮かべ始めた。

 そして一人の男が拳を振り上げると、それを振り下ろす。

 殴られる痛みに備えようと目を瞑った。

 痛みと共に、健太はその場に転がり、メガネが外れてしまう。地面に倒れ込んだまま痛みに悶えていると、頭上から笑い声が上がるのを感じた。

「いけない……。早く逃げて!」

 健太は男達に向かって叫んだ。

 しかし、男達は彼のことなど眼中にない様子でゲラゲラと笑うばかりだ。

 その時、健太の表情に影が差す。

「奴が来る……」

 健太は怯えた。

「何が来るってんだ?」

 男が笑いながら問いかけてくるが、健太は何も答えなかった。いや、答える余裕などなかったのである。

 次の瞬間、健太の表情が一変した。

 まるで悪魔か悪霊にでも取り憑かれたかのように、目を見開き、口を大きく開け放ち、奇声を発するのだった。

 その様子を見た男達は驚愕し、後ずさりを始めた。

「よお。俺からメガネを外したのはお前らか? 感謝するぜ」

 健太の口から発せられる声は、別人のようだった。低く掠れたような声音ではあるが、口調は明らかに違うものだった。

 その身からは禍々しいオーラのようなものが放たれており、見る者を圧倒させる威圧感があった。周囲の空気までもが変わったかのような錯覚に陥りそうになるほどだ。

 男たちの一人は思わず後退りをしたが、もう一人は勇敢にも立ち向かおうとしていた。

 彼はポケットからナイフを取り出し、刃先を向けながら健太に叫ぶ。

「バカか。ナイフを向けたら叫ぶんじゃなくて刺すんだよ!」

 健太はパンチを繰り出すと男の顔面を強打し、吹き飛ばした。

 さらにもう一人の男に回し蹴りを放ち、壁に叩きつける。

 一瞬にして二人の仲間が倒された光景を目の当たりにして、最後の一人は慌てて逃げ出した。

 だが、逃げる男の脚に向かって拾い上げたナイフを投げつけ命中させると、バランスを崩し転倒する羽目になる。

「オレ様にケンカを売ったのはテメエらだろう。しっかり買ってやるよ」

 健太は馬乗りになり、殴りつけ始める。

 左右の拳を何度も叩きつけ、自分の拳が男の血で濡れていく。何度も繰り返し殴るうちに男は意識を失い動かなくなったところでようやく攻撃を止めた。

 荒い呼吸を繰り返しながら、健太は立ち上がった。

 周囲には静寂が広がりつつあったため、自分の息遣いだけが聞こえるような感覚に陥るほどだった。

(他人を屈服させ、支配することに喜びを感じるなんて最低だな……)

 と優しげな声が脳裏に走る。

 健太は、しかめっ面をして頭を押さえ込んだ。

「黙れ! オレ様が出こなかったらテメエは死んでたんだ! 感謝しろ! ついでに偉そうな部長も殺してやろうか」

 再び低い声音で恫喝すると、健太の脳に鋭い痛みが走った。

「チッ。うるせえ野郎だ……」

 舌打ちをすると、溜息をつく。

 健太はレンズに亀裂の入ったメガネを拾い上げて顔にかける。

 静かに閉じられた目が、ゆっくりと開かれた時、その瞳には理性的な光が宿っていた。

 先ほどまでの荒々しい雰囲気が消え去り、穏やかな雰囲気が漂っていることに安堵しつつ、健太は自分が人を傷つけてしまったことに対する罪悪感に苛まれていた。

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