大事なもの、大事な人

櫻葉月咲

眼鏡は買って頂きました

「やっちまった……」


 ああ、と達仁たつひとはその場にくずおれる。


 目の前には眼鏡が一着、見るも無残な姿で壊れていた。


 レンズが割れ、ツルが有り得ない方向に曲がり、鼻パッドは踏んづけた拍子にどこかに飛んでいってしまった。


「親父から貰ったものが……ううっ」


 達仁の言う親父こと田宮たみや久司ひさしは、数年前まで裏の世界の住人だった。


 今では引退し、表の世界でやっていた建設会社の会長だ。

 久司を慕っている人間らは数多おり、足を洗うと宣言したと同時に達仁も着いて行った一人だった。


 眼鏡は久司に出会ってすぐに貰ったもので、達仁にとっては命よりも大事なものなのだ。

 縁なしのシンプルなタイプは、至ってどこにでもあるものだった。


 そもそもベッドサイドに眼鏡を置いていたのは自分だ。


 今日は運悪く眼鏡が取れず、それだけならばまだしも拾おうとした達仁の不注意で踏み付け、こうなってしまったのだが。


「あー……仕方ねぇ」


 達仁は半ばふらつきながら支度をし、家を出た。

 家から会社まで徒歩ですぐの距離だが、やはり視界はぼやけたまま。


 今日が休日だったらな、とは少しも思っていないが仕事をするには眼鏡が無いと見えにくかった。


「……チッ」


 まばらな一通りを幸いと思ったのも束の間、舌打ちが止まらない。


(なんだって朝から、こんなクソみてぇな思いしないといけないんだ)


 そもそも自分が悪いんだろう、という久司の呆れ声が幻聴として耳に入る。


 自分に対するイラつきと、久司からの贈り物を壊してしまったことの不甲斐なさと、それに加えて朝のカラッとした陽気にすら今の達仁にはわずらわしい気分だった。


「おはようございま……うわ、目付き悪っ!」


 いつも通り会社のエントランスを通り、事務所の中に入ると頭一つ分身長の低い男に鉢合わせた。


「ああ?」


 輪郭はぼんやりとしか分からないが、キンキンと響く高い声は忘れたくても忘れられない。


「いや、その顔で凄むの止めて? ただでさえ怖……うぐっ」


清雅せいがか、うるせぇ」


 達仁は清雅の頭を摑み、軽く押すようにして中に入る。


「おはようございます」


 そして何事もなかったように近くの人間に挨拶をする──これが達仁のルーティンでもあった。


「お、おはようございます」


 しかし今日ばかりは皆が達仁を避けていく。


 当たり前だ。

 自分で言うのも悲しくなるが、達仁は目付きがすこぶる悪い。


 加えて視力も悪いため、二重に怖がられる事が多かった。


(やっぱ休んで眼鏡屋行くべきだったか)


 行く事自体頭に入っていたものの、今日だけは絶対に会社へ来なければならなかったのだ。


「──おや、皆早いんだな」

「っ!」


 聞き馴染みのある低く掠れた声は、他でもない久司のものだ。


 達仁はややあって振り向くと、ばちりと久司と目が合った。


「なんだ、誰かと思えば達仁じゃないか。いつもの眼鏡はどうしたんだい」


 久司がこちらに向かって歩いてくるのが分かり、達仁は慌てて頭を下げた。


「す、すみません!」


 周囲の視線が一斉に突き刺さるのが分かるが、今はなりふり構っていられない。


「眼鏡は、その……」

「ん?」


 もごもごと口の中で言っているからか、何なのか分からないといったふうに久司は首を傾げた。


「達仁、はっきりお言い。それでは聞こえないよ」


 ぐいと達仁の顔に手を添え、久司が言う。


 ぼんやりとした視界でも、久司のトレードマークである帽子と左目の泣きぼくろが見えた。


「あ、あの、眼鏡が壊れちまって……その」


 そこから先はボソボソと声にならず、けれど達仁の言いたいことを理解してくれたらしい。


「成程ね、怪我なく来てくれたのはありがたいけど……達仁」


 不意に頬に伝わる温もりが消え、達仁は緩く顔を俯かせる。

 あれは言わば久司との絆のようなもので、愛だ。


 それを自身の不注意で壊してしまい、きっと久司は立腹するに違いない。

 そう思って怒気あらわに一発殴られる覚悟でいたが、聞こえてきたのは溜め息だけだった。


「私は裸眼の達仁も好きだよ。そうだ、コンタクトにしないか? 今なら少し車を飛ばして行けば、すぐに買えるだろうし」


 ね、ととびきりの笑顔を見せる久司──恋人の姿を、しっかりとこの目で見れないのが悔しい。


「します! そうと決まれば行き……」

「こら、その前に朝礼が先だよ」


 猫のように首根っこを摑まれ、今すぐにでも事務所を出ようとした達仁の足はつんのめる。


「待たせてすまないね。じゃあ──今日も始めようか」


 にこりと久司が言うと、集まっていた社員らは安堵の表情を見せる。


「定期的に惚気のろけられる俺らの身になって欲しいよ、本当……」


 ぼそりと呟いた清雅の言葉は、果たして聞こえていたらしい達仁に締められるまで後少し。

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大事なもの、大事な人 櫻葉月咲 @takaryou

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