メガネが新たによみがえるとき

兵藤晴佳

第1話

 幼馴染の鹿江良子かのえりょうこは、高校に入ってから間もなく病に倒れて、長いこと入院している。

 友達もろくに作れなかったので、顔見知りは僕だけだ。

 恋人でもないからそんなに会いに行くこともできず、頃合いを見計らってスマホのチャットで連絡を取ってから会いに行く。


〈ごめん、遅くなった〉

〈気にしなくていいよ、尾上おのえ君も忙しいだろうし私も用事できたから〉


 子どものころのように、慎司しんじくん、と呼んでもらえないのが寂しい。

 それにしても、病室からほとんど出られない良子にどんな用事があるというのだろうか。

 もしかすると、何か悪い症状が出たのかもしれない。

 そんな心配をしながら病院へ行くと、ロビーで僕をじっと見ている若者がいた。

 見かけそのものが説得力の塊のような美形だった。

 どこかで見たような顔だが、思い出せない。

 メガネのせいで誰かと間違われたかもしれないと思って外してみたが、やはり見つめられている。

 気のせいだろうと思って病室へ向かうと、若者は凄まじい速さで追いすがってきて、僕の肩を掴んで止めた。

「俺に見覚えがあるだろう」

「人違いじゃないですか……どなたですか?」

「人違いじゃないが、そのどなたかだ。名前は言わん」

 その顔をよく見て、はたと気がついた。

 若者は、それを見逃さなかったらしい。

ちょっと来い、と僕を病院の外へと連れ出す。


名前も分からないような高級車に乗せられて、というか監禁されて、高速道路に乗せられる。

これが都心なら近くをぐるぐる回れば済むのだろうが、田舎ではそうはいかない。

次のインターチェンジがどこにあるのか、そこで降ろしてもらえるのか、いや、降ろしてもらえても生きて帰れるのか、気が気でならない。

そこへ、良子からチャットの着信があった。


〈ずいぶん遅くなりそう?〉


SOSのチャンスなのだが、心配をかけまいと思えば、本当のことも言えない。

そわそわしていると、若者はいきなり本題に入った。 

「何で俺の写真なんか送ったんだ」

 身に覚えのあることだから、それだけで用件は分かった。

「いや、ネットに載ってたので」

 簡単に言うと、良子に友達がいないので、チャットルームを作って招待した。

 ネットから見栄えのする男の写真を拾ってきて、でっちあげのプロフィールを作った。

「うかつに集合写真も載せられんな」

直接会うことのない架空の人物を作るだけだ。

それに、良子はよく言えば素直、悪く言えば単純だから、気づかれることはないだろう。

そう思っていたのだが、甘かった。

良子からの着信は続く。


〈急がないでいいよ、先に来る人がいるから〉


 スマホの画面をちらと見下ろして、若者は言った。

「俺だよ、それ……」

 何でも、良子は良子で何をどうしたものか、写真の主を特定したらしい。

 学校へ行けない分、それだけの時間は充分にあったのだろう。

 というか、そんなことしかすることがないのだ。

 若者は小さな会社を経営していて、そのメールアドレスに連絡があったのだという。

神野扶じんのたすくっていうのは、ハンドルネームってことにしといた」

 話を合わせたのは、最初はいたずらかと思ったからだった。

そのうち、入院先を尋ねたり写真を送ってくれと言ってやったりしてみたが、平気で応じてくるる。

 そこで、事の真偽を自分の目で確かめようと、病院までやってきたというのだ。

 写真には僕の顔も写っていたので、すぐ分かったのだという。

 危ない……危なすぎる。

 入学直後に全校集会で、ネットリテラシーについて1時間くらい小うるさく説教されたが、適当に聞き流すとこういうことになるのだと身にしみてわかった。

 若者は、まっすぐ前を見て車のハンドルを握ったまま、怖い顔をした。

「いっぺん会いましょうとか、そういう話になると思わなかったのか」

「……すみません」

 謝ると、若者はため息をついた。

「いたずらでなくてよかったよ」

 病院に戻ってくると、僕を降ろした若者は、そのまま帰ろうとした。

 慌てて車の前へ飛び出すと、フロントガラスの向こうの顔は、恐怖で引きつった。

「危ないだろ!」

 悲鳴に近い声など聞きもしないで、僕は頭を下げた。

「一度だけ、会ってやってください! 彼女には、励ましがいるんです!」

 

 こうして、若者は「神野さん」になった。

 病院の中に入ると、僕の後について歩く神野さんはぶつくさとぼやく。

「何しゃべっていいのか分からんぞ」

「僕たちはロビーでたまたま知り合ったことにします。そばでスマホのチャット見てますから、それ見ながら話を合わせてください」

「なんでわざわざそんなことを」

 神野さんはめんどくさそうな顔をする。

 だが、こっちは真剣だった。

「僕じゃない人が必要なんです……良子、もともと友達も少なかったので」

「何でお前じゃダメなんだ?」

 神野さんは苛立たしげだったが、僕が原因なのだから仕方がない。

内気でどんくさくて、おまけに、小学生の頃に近眼になってしまって、不格好なメガネまでかけている。

しかも、物心ついたときから一緒なのだ。

「子どもの頃から、いるのが当たり前になっちゃって」

 そこで、鼻で笑う声が聞こえた。

「当たり前じゃいけないのか?」

 どうしたわけか、そこでつい、ムキになった。

 噛みつくように言い返す。

「特別な人じゃないと、元気づけてやれません」

 そこで、良子からの着信が入った。


〈会えるの、だいぶ遅くなりそう。ごめんね〉


 文面を見下ろした神野さんは、眉をひそめた。

「イラつくな、お前」

 ムッとしたが、頼みごとをした立場からすると、感情を表に出すわけにはいかない。

 努めて冷静に、僕は答えた。

「自分でもそう思います」

 神野さんは吐き捨てるように答えた。

「社員だったら張り倒してる」

 そんな言い方をされると、食ってかかりたくもなる。

「それ、完全にパワハラですよね」

 立場を弁えずにカッとなったのに気付いて慌てたが、神野さんは皮肉たっぷりに受け流した。

「心配いらん。その前に、不採用だからな」

 お仕置きの厳しい一言が待っていた。

 おとなしく引き下がるしかない。

「だからダメなんです、僕じゃ」

 神野さんも、しまったと思ったらしい。

もどかしげにフォローする。

「分かんないかな、お前がいちばんの支えなんだって」

「こんなんじゃ勇気づけられません」

 つい、弱音を吐くと、神野さんは僕と良子しか知らないはずのフレーズを並べ立てた。


  いいときっていうのは誰にでもあるんだけど、人によって違うから、今じゃなかったら後できっと来るんだ。

  ひとりでいるっていうのは、周りに人が無限にいるのと同じことじゃないかな、君が離れていかない限り。

  人生は長いんだよ? その値打ちが、たかが数カ月の出来事で決まるわけがないじゃない?


「なかなかいいこと言ってるじゃないか」

 それは、チャットの文字の上だから言えることだ。

 自分で考えに考えて書いたことだから、その気になれば暗唱だってできる。

 だが、その説得力は見かけで変わるものだ。

 この人が直に言ってくれてこそ、意味を持つ。

「こんなメガネ男には似合いません」

 本音だったが、致命的なひと言だった。

 神野さんは臍を曲げたのか、良子の病室の前で背を向けた。

「俺は帰る」

「会ってくれるって言ったじゃないですか」

 声を潜めて止めると、すらりとした腕が伸びてきて、僕の鼻先からメガネを取り上げる。

 掌の中で、細いフレームが握りつぶされた。

「自分でやれ」

宙に飛び出したレンズを横から掴んだ神野さんの姿は、まっすぐな廊下をどこまでも歩いて遠ざかっていった。

 

 病室に入ると、ベッドの上で良子は僕の顔をじっと見つめた。

 誰だか分からなかったらしい。

 やっと見当がついたのか、ようやく口を開いた。

「尾上くん……メガネは?」

「そこで落として壊しちゃって」

 神野さんのことは、恥ずかしくてみっともなくて、話すことはできなかった。

 だが、そんな事情は知りもしない良子のほうは、良子の都合で気にしていた。

「ごめん、待ち合わせが」

「今日は来られないんじゃないかな」

 とっさに答えると、怪訝そうん顔をされた。

「どうして分かるの?」

 そこで良子は、スマホから着信音がしたので慌てて画面を覗き込む。

「え、そんな!」

 どうしたの、と聞く間もなく、僕にメモ帳とボールペンを押し付けてくる。

「ちょっと、これ写して!」

 つきつけられたのは、僕が「神野扶」の名前で良子と交わしたチャットだ。

「このチャットルーム、もうすぐ消されちゃうんだって!」

 二人して、病室の小さな机にかじりつきながら、その文面をカリカリと書き出しにかかる。

 画面はぼんやりとしか見えないが、「神野扶」の言葉として書いた言葉はすぐに思い出せる。

 だが、顔を上げた良子は、小首を傾げた。

 再び僕の顔をじっと見つめると、さっきと同じ言葉を笑顔で繰り返した。

「メガネは? ……慎司君」


 退院後も、良子の周りに学校で女友達が群がることはなかった。

 別に、避けられていたわけではない。

 どうやら、僕との邪魔をするまいと気を使ってくれていたようだった。

 良子はもう、「神野さん」との連絡を取ることはなかった。

特に詮索はしなかった。

本名は経営している会社の名前をネットで検索すればすぐ分かるのだが、敢えて知りたいとも思わなかった。

 ただ、後でスマホで見せてくれたメールには、こう書いてあった。


 〈よんどころない事情で、メールアドレスを変更します。チャットルームも閉鎖しますが、そこで伝えたことは君の人生に持っていってほしいと思います。すぐにメモを取ってください。その間ずっと、僕は君のそばにいます〉


 握りつぶされたメガネはというと、メモを終えて帰るときはもう、新品のフレームにはめ込まれたレンズの度までぴったり合わせたものが、病院の受付に置いてあったのだった。

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メガネが新たによみがえるとき 兵藤晴佳 @hyoudo

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