愛しいあなたの代替品

エテンジオール

妻の呼ぶ貴方は僕であり、あなたは僕ではない。

 朝目を覚ますと、トーストを焼く匂いがする。コンロに火がつき、少し遅れてパチパチとベーコンの脂が弾ける音。さらに遅れて卵が焼ける音と、水が投入され蓋を閉じる音。よく加熱されたフライパンの上で水が沸騰し、閉じ込められた水蒸気が目玉焼きにきれいなピンク色の膜を作る。


 もう、見るまでもなく状態がわかる、いつもの朝。何度も繰り返してルーティーン化した朝は、けれどもその繰り返した数によって色褪せることなく幸せを与えてくれる。


「おはようあなた。今日も早起きだね」


 僅かに残る眠気を、頭を振って振り払いつつ起き上がれば、ちょうどベーコンエッグを皿に移していた女性、今年で結婚して7年になる妻の○○と目が合った。穏やかに綻ぶ笑みには親愛が込められていて、この表情を毎日見れるのは自分だけなのだとささやかな優越感がおしよせる。


 おはようと挨拶を返して、そのまま顔を洗いに行く。すぐにリビングに戻れば、○○は既に配膳を終え、コーヒーを入れていた。わざわざドリップ式で手間をかけて作られるそれを待ち、香ばしいトーストと共に胃に入れる。一日の仕事を支える、朝のカフェインとカロリー。それを愛しい人と楽しめる僕は、とても恵まれた人間だと思う。


 大切な人が、守りたい人がいて、やりがいのある仕事がある。たくさんの愛情を感じながら朝を迎えることができて、妻との関係も良好。ささやかだが、替えがたい日常だ。幸せで温かい家庭を体現したような、素晴らしい日常だ。


「……今日も、お仕事は遅くなりそう?」


 うん、いつも遅くてごめんと返す。……幸せな日常なのだ。たとえ仕事が忙しくて、家にいられる時間が短くても。


「そう……お仕事、いつも頑張ってくれてありがとう」


 口の中の苦いものを、黒くて苦いもので流し込む。幸せな日常なのだ。たとえカフェインが合わない体質で、摂ると気分が悪くなる体質だとしても。


 幸せな日常なのだ。その日常を守るために無理をしていても、毎日なにか大切なものをすり減らしているような感覚があっても、繰り返す度に罪悪感が、苦痛がする日常であっても、幸せな日常なのだ。僕みたいな人間には過ぎた、幸福な日常。守らなくてはいけない日常。


 それを守るために、僕は今日も身の丈に合わない給料を求めて働き、苦手なものを好物と偽り、その苦痛を押し殺す。どれだけ辛かろうが、関係ない。本来そこにあるはずだった幸せを奪った僕には、歪んでしまったそれを形だけでも守る義務があるのだから。


 普通に幸せになれるはずだった○○の見ている優しい夢を守る。彼女がふたたび正気に戻るその日まで、その現実逃避に付き合い続ける。そんな日常が、僕にとっての“幸せな日常”だ。






 事の始まりは10年以上前。僕には双子の兄がいて、兄は優秀な人だった。とても優秀で、吐き気がするほど優秀だった。どれだけ優秀と重ねても伝わらないだろうが、僕が生まれて初めて抱いた感情が嫉妬だったくらいには優秀な人だった。


 何をやらせても人並み以上、少しの練習で、一般人が数年かけてたどり着く域に届く、本物の天才。おおよそ普段使いする褒め言葉を並べれば、全て当てはまるような人だった。


 そんなに才能があるくせに謙虚で、性格まで良くて、いつもみんなに囲まれる、太陽みたいな人だった。一緒にいるだけで僕の小さい自尊心を踏みにじって、劣等感と自己嫌悪を肥大化させて、そのくせ本心から嫌うことすらさせてくれない、とても厄介な人間だ。人間性が出来すぎなせいで、卑屈で妬んでばかりの僕とすら一度しか喧嘩にならなかったような、一周まわって不気味な人間だ。


 僕はそんな兄のことを心底苦手に思っていて、なるべく関わりたくなかった。誰だってそうだろう。好きで一緒に生まれたわけでもない相手と、何をしても比べられる環境。何をしても自分の方が下で、どれだけ努力しても見習ってもっとがんばれと言われる日々。そんな人生でも兄のことを苦手に思うだけで済んだのは、半分はその人間性によるものであり、残りの半分は意地だった。


 嫌ってしまったら、逃げたような気がしたから。何をやっても一生叶わないのだと、敗北を認めるような気がしたから。そうならないために、そうならないためだけに、僕は兄のことを嫌わずにいたのだ。意識的、意図的に嫌わないよう自分に言い聞かせてその状態を保っていた。


 その事が、きっと良くなかったのだろう。最初から諦めて、距離をとってさえいれば、あんなことにはならなかった。兄と対等の、比べられる人間であろうとしたことが、そうであると自分をみなしていたことが、全ての原因だった。


 身の程知らずにも、僕は恋してしまったのだ。相手は唯一、僕のことを兄と比べずに見てくれた人で、物心着く前からの幼なじみ。そして僕が想いを自覚した時には既に兄の恋人になっていた○○だった。


『そもそも、みんな比べてばかりなのがおかしいの。貴方は貴方で、あの人はあの人。比較すれば確かに優劣はつくけど、明確な基準をもって評価すれば二人とも優秀。それでいいじゃない。現に私は一度もあなたに勉強で勝てていないのだし、周囲の比較だってプロのスポーツ選手を比べて片方を貶しているようなものだよ。酒場で酔っぱらいが選手に下手くそとヤジを飛ばしていても、誰も本気で下手なんて思わないでしょう?』


 理屈っぽい話し方をする人だった。人の感情や思いを陳腐化させるのが上手な人だった。僕の中に長年溜まっていた汚い感情を話した時に、人間なら誰でもそう思うことがあると教えてくれた人だった。


 誰も認めてくれなかった僕のことを認めてくれる人だった。誰にも話せなかった僕のことを受け入れ、笑い飛ばしてくれる人だった。そんな人だったから、僕が想いを寄せてしまうのも仕方のないことで、そうなった時にはもう手遅れだった。


 だって、○○にはもう恋人がいたのだから。それも、もう結婚の話までまとまりつつある相手が。そんな時期に、結婚相手の弟から思いを寄せられたとしても、そんなもの迷惑以外の何物でもないだろう。もっと僕が自分の気持ちを自覚するのが早ければとも思ったが、相手はあの兄だ。たとえ早かったとしても、僕の思いが実を結ぶことはなかっただろう。


 そう失意にくれて、逃げるように家から出ようとした。いや、家から出ることで逃げ出そうとした。誰だって初恋の人が自分の苦手……自分の嫌いな相手と幸せそうに過ごしている姿なんて、見たくないだろう。一部の特殊な性癖の持ち主なら違うのかもしれないが、あいにく僕にその手の趣味はなかった。


 そうして僕は逃げて、一人自分を知る人のいない場所に行った。……そうなるはずだったのに、あの兄はあろうことか僕のことを引き留めようとしたのだ。生まれた時から一緒に過ごしてきた半身と別れるなんてとんでもない!とのことらしい。


 つまりはあれだ、僕にとって兄は羨ましくて妬ましくて嫌いな相手だったが、兄にとっての僕はそばにいることが当たり前の愛すべき家族だったということだ。僕の気持ちを知らなかったのか、知った上での言葉だったのか、今となっては確かめる術はない。ないけれど、きっと前者だったのだろうなと確信めいた予感はある。あの兄は、本心から嫌がっている人に何かを強制しようとするような人間ではない。それくらい、一番近くで見ていた僕が誰よりも理解している。


 けれどもそれは冷静に考え直した今だからわかることであって、当時は後者かと思ったのだ。好ましくないことが続いて被害妄想を拗らせた僕は、兄が僕をバカにしているのだと考えて激昂した。それまでの鬱憤を晴らすように口汚く兄を、自分を含めたその全てを貶してこきおろした。


 それが、兄とした初めての喧嘩だ。初めてで、最後の喧嘩だった。なんてことはない、ただ喧嘩別れをして、そう思った直後に命を救われたのだ。直前まで本人のみならず親類友人その他全てを貶していた相手に押し飛ばされ、直後目の前でミンチが出来上がっていた。直前まで生きていたとは信じられない、生を感じさせる真っ赤な温もりを頭から浴びたその時に、たぶん僕の人生は一回終わったのだ。


 少し前まで僕がたっていたところに突っ込んできたのが、居眠り運転のトラックだと知ったのは数日後のことだった。その事を知って最初に驚いたのは、喧嘩の直後だった僕を助けるために兄が馬鹿なことをしたこと……ではなく、まるで死んだのが僕だったかのように振る舞う家族たちだ。


 ……本当に、びっくりした。兄の死を受け入れられなかった両親は、兄が車に轢かれるわけがないと言って、死んだのが僕だったことにしたのだ。とてもまともとは思えなかったし、実際にまともではなかった。僕が自分の名前を言っても、兄の死んだ経緯を伝えても、そんなものは勘違いだと言って聞かない。


 事故で死ぬのなら兄ではなく、僕であるべきだった。直接言葉にはされなかったが、誰もがそう思っていることだけは理解出来た。僕の無事を喜んでくれる人がいなかったのだから、誰だって理解できる。兄に惹かれて集まっていた人たちは太陽を失った惑星みたいに離れていって、残ったものは現実を受け入れられない家族と、結婚の直前で相手を失った○○だけ。


 家族の方は、正直どうでもよかった。いつも兄と比べて出来損ないと言ってきた人たちに対して、大した情は持っていない。とても優秀な息子をなくしたかわいそうな親として、勝手に自分たちを慰めていればいいだろう。


 問題は、○○の方だった。これから幸せの絶頂が待っているという時期の、突然の悲劇。それを受け入れられるほど、彼女は強くなかったらしい。意外と言えば意外だったが、理解のできることだった。家族みたいな本当は理解した上での現実逃避ではなく、本心からそう思っているような現実逃避。最初からそうであったかのように、彼女は僕に愛を向けるようになった。


 まるで兄がいなったみたいに、兄が存在しなかったかのように、○○は兄との思い出の全てを、僕とのものとして扱った。知らない言葉、知らないやりとり、知らない約束。そんなものは知らないと突っぱねてしまうのは簡単だし、きっとそうするべきだったのだとも思う。


 けれど、僕はそうはできなかった。……いや、しなかったと言った方が正確だろう。兄のものになるはずだった○○が僕を見てくれたことで、魔が差したのだ。魔が差した。そうとしか説明できない。そうでなければ、いったいどうして唯一僕を見てくれた○○が、僕のような何かを見ている現実を受け入れられようか。


 もしかしたらと、考えてしまったのだ。○○の勘違いが、全て僕にとって都合のいい方向に向かえば、僕は手に入れたかったものを手にできるのではないかと。そこまで上手くいかずとも、どちらにせよ手に入るはずのなかったもの。このまま目の前で失われるのを待つよりも、掴んだ方がいいのではないかと。


 冷静になれば、そんなことは考えるまでもなくありえないことだ。僕を助けて死んでしまった兄に対しても、そんな兄を思っていた○○に対しても、失礼極まりない行為だ。けれど、僕が冷静になった頃には、もう全てが遅かった。周囲には誰も残っていなくて、法律は彼女を僕の伴侶だと語った。そしておかしくなってしまった彼女は、壊れたまま治らなくなった。君は僕じゃない人と結ばれるはずだったと言っても、君が愛したのは僕じゃないのだと言っても、ただ面白くない冗談でも聞くように首を傾げるだけだった。


 彼女を正気に戻そうという努力は、半年でやめた。何度言い聞かせても理解しようと、受け入れようとしない彼女に疲れてしまったのだ。いや、正確には、僕が疲れてしまったのは彼女から向けられる視線だ。最初は面白くない冗談を聞くようなものだったそれは次第に不快な妄言を聞くそれになり、最終的には僕が話題に出すと彼女が声を荒らげて話を止めさせようとするようになった。


 それが辛くて、諦めてしまったのだ。辛かったのは向けられる視線だけではなく、かつて必要であれば自身の常識すら疑ってみせた彼女がここまで自分の中の事実に固執してしまっていることでもあったが、大した違いはないだろう。大事なのは僕が彼女を正気に戻せなくて、おかしくなってしまった彼女とともにいることを選んだこと。それ以外のことなんて、多少の違いがあろうと大したことではないのだから。





「おかえりなさい、あなた。晩御飯の準備はできているよ」


 いつものように身の丈にあっていない仕事を終えて自宅に帰ると、いつも通り笑顔の〇〇が迎えてくれた。今晩はあなたの好きな焼き鮭だよと微笑まれて、魚が苦手な僕はそのことを隠して笑う。いつものことだ。兄の好物は、どれも僕の苦手なものだったから。彼女が喜ばせようと作ってくれるものはどれも、僕の苦手なものだった。


 苦手なものを喜んで食べ、違和感を持たせないようにおかわりまでして見せる。こうやって、好きだと偽って食べなければいけなことで余計にこれを嫌いになっているのはわかっているが、それでも〇〇が作ってくれたものを残すなんて選択肢は僕には存在しない。


「今日も喜んでもらえたみたいで良かった。あとはもう少しだけ、早く帰ってきてくれたら嬉しいかな」


 空になった炊飯器を見てうれしそうに微笑む彼女。少し恨めしげに続く言葉に、ごめんと謝罪を口にする。兄ならば簡単に与えられたであろう生活を、金銭に困らない生活を〇〇に与えるためには、僕では少し無茶をしなくてはいけない。身の丈に合わない仕事をして、それが終わらずに残業を重ねて、そうしてようやく兄と同じくらいの収入を得られるのだから。


「お金なんて、気にしなくていいのに。あなたがいてくれれば、他に何もいらないのに」


 ○○が、お金なんかのことよりも兄のことを大切に思っていることはよくわかっている。兄と同一のものとして認識している僕のことも、大切に感じてしまっていることはわかっている。だから○○の満足だけを考えるのであれば、僕は仕事なんかじゃなくて○○と一緒にいる時間を大切にするべきなのだろう。そのことも、よくわかっている。


 わかっているのにその通りにできないのは、罪悪感があるからだ。だって、彼女と幸せに過ごすはずだったのは、僕ではないのだから。人のものだったはずの幸せを何も感じずに喜べるほど、僕の面の皮は厚くない。


「……何もいらないって言ったけど、そろそろ、その、……ほしいな」


 窺うような、媚びるような表情と、お腹に当てられた手。想い合った男女が結ばれて、やがて当然のようにおこなわれる行為を、彼女は僕に求めた。兄ではない僕に。選ばれなかったはずの僕に。


 その言葉に乗ることはできない。だってそれは、僕に許されたことではないから。きっといつか正気に戻った彼女が嫌がるであろうことは、僕はしてはいけないのだ。罪を贖うべき僕が、これ以上罪を重ねてはいけないのだ。




 想い人と共に暮らし、限界まで働き、自分以外の誰かとして生きる。兄を死なせてしまった僕にはお似合いな日々。これが僕の幸せな生活だ。

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