眼鏡と鏡とゴルゴオン

IS

石になった世界のおはなし


 これは、世界が石になる前のお話です。あるところに、洞窟で暮らす娘がいました。親はいません。兄弟や姉妹もいません。家族といえるものは、同じく洞窟に住む動物たちでした。彼らは娘に言います。


「僕らが世話してあげるから、決してここから出てはいけないよ」


「外には危険なものがいっぱいいるんだ」


 娘は彼らの言いつけを守りました。実際、洞窟に暮らしている限り、衣食住には困らなかったのです。しかし、娘には密かな不満がありました。他の動物たちのように、彼女にはものを見る視力がほとんどなかったのです。そのように生まれ落ちたのだから、どうしようもないのだけれど。


 いつか自由にものを見てみたい。できるなら、洞窟の外の景色をその目に収めたい。叶わない願いを抱えながら、娘は洞窟の中で、静かな日々を送っていました。





 どれだけの時間が経ったでしょうか。ある日、娘は何かに躓いて転びかけました。洞窟で暮らしていて、初めての経験です。なにしろ、長く暮らしていたので、動物の助けがなくても彼女は一人で洞窟内を自由に歩けたのですから。たまたま誰かが寝ころんでいたのか、そう思い、娘は謝りながらそれに触れました。


 ……大きい。最初に娘が感じた感触です。洞窟に暮らす他の者たちはおチビばかりで、彼女の掌より大きいものはいませんでした。これはいよいよ、彼女の知らないなにかが迷い込んだ可能性があります。彼女は大急ぎで助けを呼び、程なく、動物たちが現れました。


「ニンゲンだ!」


「ニンゲンだ」


「どうする、助ける?」


 動物たちが会話しているようです。娘は迷わず、助けてあげてほしいとお願いしました。号令を受けた兵隊のように、動物はキビキビと動き、水とエサを運び込み、倒れたニンゲンにそれらを与えてやったようです。しばらくして……ニンゲンが目を覚ましました。


「助けてくれてありがとう、お嬢さん」


 ニンゲンが言いました。今までに聞いた事のない、落ち着いた柔和な声です。娘が返答に戸惑っていると、ニンゲンが質問を投げかけました。


「お嬢さんはここに住んでいるのかい?」


 娘は首を縦に振りました。肯定を示すサインだと、動物に教わったのです。


「こんな暗いところに、一人でかい? 危険だよ。眼鏡もかけていないのに」


 眼鏡。その言葉に娘は興味を抱きました。なにしろ、娘は外のことを何も知らないのです。すかさず、眼鏡について彼女は聞き返しました。


「眼鏡というのは、魔法で作られた特殊な道具さ。これをかければ、どんな盲目でもたちまち視力が手に入るんだ」


 かくいう僕もかけているんだ、そうニンゲンは言いました。娘はたいそう、眼鏡に興味を抱きました。その様子を察したのか、動物たちが口を挟みました。


「やいやい。こいつは好きでここに住んでるんだ」


「眼鏡なんてガラクタ、疑わしいもんだぜ」


「目が見えなくたって、こいつは洞窟で暮らしていけるんだよ」


 動物たちは眼鏡を快く思わなかったようです。口々に否定しては、ニンゲンを洞窟から追い出してしまいました。しかし、娘は眼鏡のことがますます気になってしまいました。自分も目が見えるようになる、そんな可能性があるなんて。


 ……その様子を去り際に見ていたのか。その夜、再びニンゲンはやってきました。





透鏡とうきょうという小さい鏡があってね。それを通して物を見るんだ。魔法の鏡が、なんでも見れるようにしてくれる。このツバの部分を耳に引っ掛けてね」


 ニンゲンは語りました。空高く浮かぶ鏡の国でその鏡は取れたのだと。そして、目の見えぬ娘の手を取って、眼鏡の形を感触で伝えました。


「さあ、かけてみて。初めて見る景色を教えてくれ」


 ニンゲンに促されるまま、娘は眼鏡をかけようとしました。すると、止める声がありました。


「やめろッ!」


「そんなものかけちゃいけない」


 それは、洞窟に住む動物たちでした。


「寝静まる頃だと思ったのに」


「ばかめ。俺たちはほんとは夜行性なのさ」


 ニンゲンの驚愕の声に、動物は敵意を隠しませんでした。


「さあ、そんなガラクタ早くこっちに渡しな」


 動物たちが娘に迫りました。今まで世話してくれた、大事なお友達。娘は彼らに恩義を感じていないわけではありませんでした。それでも、ものを見たいという欲求は、それ以上に大きかったのです。彼女はこれまで使ってこなかった声帯に力を入れ、自分でも驚くような声で言いました。


「だま、だ、黙って!!」


 大声が洞窟内に反響します。そうでなくても、彼女が反抗するなんて、動物たちは思わなかったのでしょう。彼らが怯んでいる間に、娘は眼鏡をかけました。ぼんやりした視界が急に鮮明になり……。


「わ、私……見たいの。世界が、見たいの……!」


 そうして、彼女ははじめて”見る”ことに成功しました。はじめてみた景色は、たくさんの石に囲まれた場所と、その足元に転がる小さな石と、石と、そして石でした。動物たちはいませんでした。


「私、み、見れたよ……ニンゲンさん……」


 拙い言葉で、感謝を伝えようと、彼女は振り返りました。石の柱が建っていました。ニンゲンはいませんでした。


「……?」


 ニンゲンも、動物たちも、怯えて逃げてしまったのでしょうか。娘は訝しみましたが、すぐに視力を得た喜びで心がいっぱいになりました。


(そうだ。私、外に出てみたいわ)


 動物たちがいなくなったら、もう咎める声はありません。それに、ものが見えるのだから、危険にだって対処できます。我慢できず、娘は洞窟の出口をめがけて走り出しました。今までも、外への出方だけは、ずっと頭の中に描いていたのです。


 そうして、光が差し込む方向に飛び出し……彼女は見ました。辺りを覆う木々。坂を超えた先にある村。遠くに見える赤くて綺麗な山。すべて動物たちに聞いた通りです。色とりどりの美しい景色に娘は心を奪われました。次の瞬間、すべて石に変わってしまいました。





 石の坂道を、娘はゆっくりと登っていました。洞窟の中でもそこまで運動したことはありませんでした。疲れていたのです。それに加えて、彼女が見る景色1つ1つが、次の瞬間には石に変わってしまうのです。流石の彼女も、違和には気づいていました。


(そうだ、この眼鏡がおかしいんだわ……)


 そう思った彼女は、坂の上の村までたどり着きました。ここでは洞窟の代わりに家という住居にみな住んでいるようです。木で作られているというそれは、彼女が来たときにはすべて石に変わっていました。


(眼鏡……新しい眼鏡を探さなきゃ)


 彼女は今つけている眼鏡を捨てて、一軒一軒石になった家を調べ始めました。眼鏡を取ると、やはりものが見えなくなってしまいます。慣れない場所でしたが、幸いにも彼女には、慣れ親しんだ触覚がありました。また、石化した家にはなかなか入れませんが、壁を伝っていくと、ボコっと押して通れる部分がありました。そうやって彼女は家に押し入り、居住者のいなくなった家の中を探すのです。


 何軒家の探索で彼女が気づいたことは、眼鏡はなかなか見つからないということでした。あのニンゲンは、もしかしたらとても貴重なものを娘にくれたのかもしれません。それが不良品だったなんて、娘はなんだか申し訳ない気持ちになりました。ちゃんとした眼鏡を見つけよう。そうすればあのニンゲンも喜ぶはずだ。そう思いました。


 そうして、村のはずれの大きな家の中で……それは見つかりました。彼女は眼鏡の手触りをちゃんと覚えていたのです。身に着けると、最初につけた眼鏡よりも、うんと世界がよく見えるようになった気がしました。再び、彼女の心は幸せでいっぱいになります。早く世界を見渡したい。石ばかりじゃない、ちゃんとした世界を。彼女は家から飛び出し、周りを見渡しました。


 その眼鏡は、本当に遠くまでよく見える、すごい眼鏡でした。たとえば、いくつもの山を越えた先に、とても大きい水たまりがあります。その傍には大きなお城がありました。グルっと反対を見ると、今度は遠くにたくさんの砂の集まりが見えます。やはり傍にも小さなお城。他にも、たくさんの景色や住処を、眼鏡によって覗くことができます。また、真上を見れば、空には明るく輝く丸いものがあり、他にもたくさんの小さな丸が輝いていました。娘は、それらの光景に惚れ惚れとしました。


 ――すべて、石に変わりました。





 娘は、石の上を歩いていました。そこが草原だったのか、海だったのか、砂漠だったのか、あるいは空の上だったのか、もうわかりません。すべて石に変わってしまったからです。


(わたしが……)


 いつしか、娘は石の上を歩くのに慣れてしまいました。もう、石でない場所はどこにもなかったからです。


(世界を見たいと、願ったから)


 かつて、動物が言いました。『外には危険なものがいっぱいいるんだ』。危険なもの。そのうちの一つは自分でした。己こそ、洞窟で閉じこもっているべき、最も危険な存在だったのです。娘は来る日も来る日も泣きました。しかし、足元を見ると、涙のしずくさえ石になってしまいます。


 はじめのうち、空の上から誰かがやってくることがありました。彼らは口々に言いました。『魔女め』『滅ぼしてやる』『人間の敵め』、その通りだと彼女は思います。打ち倒されることを娘は期待しますが、やはりすべて石になってしまいます。今では、そうしたことも起こらなくなりました。


 眼鏡をかけなければいいのでは? そう思われるでしょう。実は、今の娘は眼鏡をかけていません。いつの間にか、彼女の視力は回復し、眼鏡をかけなくても同じくらい見えるようになってしまったのです。彼女には知る由もありませんが、視力がなかった理由は、実は長い洞窟暮らしにこそあったのでした。


 今では、石化の力もまた強大になっています。すぐそばにあるものは、石になるばかりか砕けてしまうようになりました。手近な石で自分の目を抉ろうと試みても、もはや娘には叶いません。そうして、彼女は来る日も来る日も歩き続けました。洞窟からどこまで離れたのか、彼女にはもうわかりません。





 そうして、彼女はついに見つけました。見上げると、そこにはかつてニンゲンから聞いた、鏡の国がありました。国の全体が鏡張りで、映すものすべてを反射してしまうという幻の国。今では一件すると宙に浮いた石の塊に見えるでしょうか。しかし、石になったのに落ちてこないこと自体が、いまだにそれが鏡の国である証なのでした。


 娘は鏡の国の真下まで来て、食い入るように鏡の国を見つめました。そのために来たのです。それは、娘が見る最後の瞬間でした。何もかも石になった世界の只中に、一人ポツンと取り残された者がいました。ぼさぼさに髪を伸ばし、全身傷だらけの、肌色の生き物が。


「ああ、これが、私――」


 最期まで、彼女は自分がニンゲンだということは知りませんでした。あるいは、本当はニンゲンとは違う種族だったのかもしれません。もう確かめようのない話です。鏡映しに自分を見た娘は、これまで通り石に変わりました。


 草原も。森も。海も。砂漠も。村も。城も。すべて等しく石に変わりました。これ以上、世界に命が芽生えることはないでしょう。あるいは、風化という現象自体も石に変わってしまったかもしれません。


 これは、無数にある終わった世界の、様々な顛末の一つでした。願わくは、次の世界の礎にならんことを……。





【眼鏡と鏡とゴルゴオン】終




 


 

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眼鏡と鏡とゴルゴオン IS @is926

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