めがねの魔法はほどけない

月見 夕

だらしない眼鏡のお姉さん

 近所にあった駄菓子屋の番台に座るお姉さんは、少年時代の僕らの憧れだった。

 いつもほとんど部屋着みたいな首が伸びきったシャツを着ていて、赤く染めた長い髪を無造作にかき上げるのが癖で、そして大きな黒縁眼鏡を掛けていたっけ。

 駄菓子屋の一人娘だったお姉さんは確か二十歳そこそこで、咥え煙草で子供たちの相手をするのが日課だった。

 子供相手のじゃんけんにはめっぽう強く、何度やったって勝てなかったな。勝てないのに、眼鏡越しに笑うあの瞳の虜になった僕らは何度でも勝負を挑んだ。

 その度にお姉さんは、

「よう少年、懲りずに来たのか」

 ニヤリと笑って煙草に火を点けたものだった。


 いつかの夏休みの日、僕は突然の夕立に降られてずぶ濡れになりながら走っていた。

 するといつもの飴色の店構えの奥から、気怠げな声がかかった。

「おう少年、屋根入ってけよ」

 振り向けば、番台で煙草を吸いながらこっちに手招きするお姉さんの姿があった。相変わらず大きな黒縁眼鏡はだらしなく鼻の上で傾いていた。

 どうせズボンの中までびちゃびちゃになってたからもうこのまま家まで走っても良かったのだけど、お姉さんのご好意を無下にしたくなくて言う通りにする。

 服の裾を絞りながら軒下に入ると、滝のような通り雨が帰り道を白く染めていた。僕はこの中を走ってたのか。

 滴る顔を手の甲で拭っていると、お姉さんは僕の頭にタオルの束を無造作に乗せた。

「使いな。貰いもんだから、好きなだけな」

 新品で一度洗ってないせいか全然水を吸わないタオルだったが、ありがたくその通りにする。

 一息つく頃、お姉さんは番台を降りてのそのそとやって来た。手には安い棒アイスが二本握られている。

「アイスで勝負しようぜ」

「あ、でも僕、お金」

「馬鹿言え、今日は特別にサービスしといてやる」

 言うが早いか袋を破り、僕の口に突っ込むお姉さん。優しいミルクの甘みが口の中に広がった。

 二人にして雨の降るさまをぼーっと眺め、黙ってアイスを食べる。蒸した空気に、バニラアイスはひんやりと気持ち良かった。溶けかけの頭を頬張ると、無地の棒が顔を出す。

「当たりだからあたしの勝ちだな」

 お姉さんは当たり棒を自慢するように見せた。子供相手に勝ち誇った顔は、今思い出しても胸がぎゅっとなる。

 話を逸らすように、僕はお姉さんの顔を指差した。

「お姉さん、眼鏡ズレてますよ」

「ああこれか。重いんだよ、フレームが」

 じゃあ買い換えたらいいのに、と口にする前に、お姉さんはすっと眼鏡を外して僕にかけさせた。

「ほれ」

「うわ、何これ。目の前がボワボワする」

 ボワボワ、という表現が適切なほど度が強いレンズに目が眩む。まるでゴーグルなしでプールに入ったみたいだった。

「大人になったらそれくらいが丁度いいのさ」

 戸惑う僕から再び眼鏡を奪い、かけ直すお姉さん。うっかり眼鏡を外した顔を見逃してしまい、少し残念に思っていると

「眼鏡、似合ってるぜ」

 お姉さんはそう笑い、煙草の灰を土間に落とした。

 何でもない黒縁眼鏡に憧れるようになったのは、お姉さんのせいかもしれない。


 雨が止んだのはそれから三十分ほどで、門限の六時を少し過ぎていたからか、お姉さんは一緒に歩いて送ってくれることになった。

 お客さんのいないお店にシャッターを下ろしたお姉さんは、ボロボロのサンダルを突っかけて僕についてきた。

 いつも店先から動かなかったお姉さんが一緒に帰ってくれるなんて。何でもない帰り道が今日は特別に感じて、僕はどぎまぎしながら並んで歩いた。

 その時僕はたくさん話をしたと思うけど、もう今では何を喋ったのか思い出せない。多分小学校のことだとか友達のことだとか、当時の僕の世界のすべてについてだったんだろうと思う。

 お姉さんは相槌を打って、そんなありふれた話を黙って聞いてくれていた。

 いくつかの話題が終わって自然と間が生まれたとき、お姉さんは突如口を開いた。

「あの店さ、来月なくなるんだ」

「えっ……!? どうして」

 驚愕の事実に僕は振り向いたけれど、お姉さんは細く煙を吐くだけだった。黒縁眼鏡越しの瞳はいつもの気怠さで、揺らぐことなく前だけ見ていた。

 それが本当なら大変なことだった。毎日駄菓子を求めて通う僕らにとってそれは死活問題だったし、ただ単に「もうお姉さんと会えない」という事実が余計に寂しかった。

 しかしそれきり黙ってしまったお姉さんに僕はそれ以上の言葉を紡げず、歩くしかなかった。


「じゃあな少年」

 僕の家の近くでそう言い、お姉さんはひらひらと手を振って引き返して行った。赤い夕日に向かって歩く後ろ姿はどことなく寂しくて、僕は黙って手を振った。

 あの時、僕は去り行くお姉さんの背に何か声を掛けられただろうか。

 尻ポケットから覗いていた煙草の銘柄だって今でも覚えている癖に。子供の僕はお姉さんの気持ちなんて分からないまま、暮れる夕日に伸びる影が消えるまでその後ろ姿を見つめているしかなかった。


 ――――

 ――


深見ふかみさん、制服の裾からシャツ出てます」

「えっちだろ?」

「えっちじゃないです。早く仕舞って下さい」

「はい店長〜」

 一日ぶり通算二十三回目になる指導を彼女にして、僕は黒縁眼鏡をかけ直した。

 地元で唯一のスーパーに就職した僕は、入社五年目の先月にこの店の店長になったばかりで、なかなか忙しい日々を送っている。

「労働契約書の更新がありますので、よく読んで下の方にサインしてください」

「時給上がった?」

「今年は変動なしです」

「マジかよ〜店長時給上げてくれ〜」

「深見さんの働き次第ですね」

「鬼店長め……名前ってどこ書くの」

「下の方にあるでしょ」

「んん? ……ああ、これか」

「……なんで見えないのに眼鏡外してるんですか?」

「こうした方が見えるんだよ」

「老眼じゃないですか」

「かわいくねー大人になりやがってよ。次老眼ってったらぶっ飛ばすぞ」

 大人になっても、時折その黒縁眼鏡越しの瞳に胸が鳴ってしまうから、僕はたまに悔しくなる。

 そんな胸の内を見透かすように、あの頃と変わらない笑顔を向けるお姉さんはずるいなあなんて思うのだった。

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めがねの魔法はほどけない 月見 夕 @tsukimi0518

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