【KAC20248】愛の所在〜カエデが愛した眼鏡

七緒ナナオ

カエデが愛した眼鏡

 間宮まみやカエデは眼鏡を愛していた。

 ひとが猫を愛するように、推しを愛でるように、カエデは眼鏡を愛していた。

 そう、


 カエデと眼鏡の話は、過去形で語られるべき物語。

 カエデはもう眼鏡を愛せなくなってしまったし、今後二度と、愛することはない。


 カエデと眼鏡の関係は、深く長い。

 切っても切れない腐れ縁のような関係だった。

 カエデが小学四年生になった頃、学校で行われた視力検査の結果が著しく悪かった。

 学校から発行された眼科での再健診を進める紙切れ一枚が、カエデと眼鏡を出会わせたきっかけだ。


 眼科での検診結果は、視力矯正を強く推奨する、というもの。

 カエデの保護者はカエデの意見も聞かずに、眼鏡の処方を医師に求めた。


 黄斑疾患や緑内障、網膜剥離はないか。

 屈折異常の程度や眼位異常はないか。

 視力が弱くなっている原因は、心理的なものではないか。


 幼いカエデは胸に抱いた不満を漏らすことなく医師の言う通りに検査を受け、そうしてカエデの眼鏡は処方された。

 それから眼鏡の処方箋を眼鏡店に持ち込んで、カエデはファースト・メガネを作成した。

 なんの変哲もない銀縁眼鏡。それがカエデの世界を支える相棒となった。


 眼鏡を日常生活に迎え入れたカエデは、眼鏡との付き合い方を学んだ。

 なにせ、寝ているあいだとお風呂に入っているあいだ、顔を洗っているとき以外のすべての時間を眼鏡とともにしているのだ。

 付き合い方を学んで然るべきだ、と幼い頭は考えた。


 レンズには極力触らない。

 指紋がついたレンズだなんて、視界不良で気持ち悪くなるだけだから。

 眼鏡をかけたままのうたた寝なんて、もってのほか。

 テンプルやヒンジが曲がったら最後、眼鏡店で調節してもらうまでのあいだ、傾いた世界で生きなければならないから。

 

 眼鏡を尊重しなければ、カエデの眼はぼやけたまま。

 世界にアクセスできなくなる恐怖を、小学四年生にして知ってしまったのだ。


 だからカエデは、眼鏡を愛することで、繊細で華奢な眼鏡という煩わしい存在を認めることに切り替えた。

 愛しているなら丁寧に扱えるはずだから。

 カエデの保護者がカエデを慈しみ、愛してくれるのと同じように。


 ——眼鏡を愛そう。たとえこの愛が偽りの愛だとしても。


 そうやってカエデは眼鏡と七十年以上連れ添った。


 七十年ものあいだ、カエデは眼鏡一筋だった。

 コンタクトレンズに浮気をすることも、レーシックをすることも、ICLをすることもなく、眼鏡だけをただ盲目的に愛した。

 年を重ねれば重ねるほど眼鏡は進化したからだ。


 眼鏡をかけたままうたた寝しても、歪まないテンプルやヒンジ。

 一日中かけていたって、重さを感じないフレーム。

 瞬間的に気温差が起こっても、曇りにくいレンズ。

 皮脂や指紋がつかないパーフェクト・レンズだけは、ついに開発されなかったけれど。

 

 フレームの色や形だって、個性豊かに様々なバリエーションが現れた。

 丸いだけじゃないフレーム。

 用途に合わせたカラーレンズ。

 TPOに合わせて、もっとも相応しい眼鏡をいつも選んでかけていた。


 こうしてカエデは生涯合わせて、100本以上の眼鏡を所持した。


 眼鏡を尊重するために愛することを自分に強要した偽りの愛は、長い年月を経て真実の愛へと変わっていたのだ。


 そんなカエデの眼鏡たちは、今、主のいない部屋で沈黙と静寂を守っている。

 もう二度と、カエデは眼鏡に触れられない。

 もう二度と、カエデは眼鏡を愛することができない。

 眼鏡はカエデの愛を返すことができない。

 けれどその姿に曇りはなく、傷はあれど磨かれて美しい形を保っている。


 カエデが愛した眼鏡たちは、今もなお、主がいなくなった部屋で静かに黙し、カエデに注がれた愛を証明し続けている。




<了>



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