第33話 須磨1 旅立ち
寛弘三年(一〇〇六年)、春。
藤式部
「この前は短かったけど、今回はちょっと長めに。」
宮中が病みきっていて、非礼がまかり通っていても何とか見て見ぬ振りしてやりすごそうとしていたものの、まさかこんなことになるとは思いませんでした。
「これから行く須磨って所は、昔は結構人もたくさん住んでたっすが、今ではすっかり忘れ去られてしまって、
なんて話を聞いても、
「人の多いごみごみした所に住んでたんでは隠棲する意味がないし、だからといってあまり都を離れてしまっても京の様子がわからなくなる。」
と小さなことを気にしては悩むばかりです。
今までのことやこれからのことなど、すべてにつけ、考えれば考えるほど悲しいことばかりです。
すっかり嫌気がさして、出家して捨ててしまおうと思った世の中も、実際みんなとさよならして他所に移り住もうと思っても、どうにも捨てきれないことも多く、特に二条院の
「どこをさすらおうとも、絶対また逢える」
と思おうとしても、
「地方赴任のような何年という期限の付いた旅でもないし、定めなき世の中だからいつ二度と逢えなくなるのかもわからないし、これが今生の別れになるかもしれない。」
と最悪のことを考え、
「こっそり連れて行こうか。」
と思ったりもしますが、その海辺がどんなに寂しい所かわかったものではないし、波風のほかに訪れる人もないと思うと、こんなか弱そうな姫君を連れて行っても退屈でしょうがないだろうし、自分としてもいろいろ揉め事の原因になるのではないかと思い直します。
「どんなに苦しい道でも一緒に行けるなら。」
と懇願しては恨めしそうな顔をします。
あの
気まぐれな浮気心で通ってた所はどこも、密かに落胆した人も多かったことでしょう。
入道となったあの
「人が聞いたらまた何と思うかわかったものではないのに」
と自分自身のためにも慎まなくてはならないと思うのですが、こっそりと何度も源氏のところを尋ねてきます。
「もっと前からこんなふうに色良いところを見せてくれていたら。」
と源氏はふと思うのですが、ヤスコが既に出家の身とあれば、こうなったら悩んで悩んで悩み尽くせと言っているかのようもので、廻り合わせの意地悪に辛くなるばかりです。
三月下旬に都を発ちました。
出発する日取りを誰にも知らせず、ただごく親しい側近を七八人程お伴につけて、極秘の内に出発しました。
付き合っていた女の所には手紙だけをこっそり届けさせました。
別れを惜しむ気持ちをこれでもかと歌い上げた歌はそれは素晴らしいものであったのでしょうけど、ちょっとばかり忙しかったためついうっかり聞き逃してしまいまして、あしからず。
*
その二、三日前には、夜の闇に紛れて先の左大臣イエカネの所に行ってました。
みすぼらしく装った
かつての
その残された若君はとても美しく、走り回って遊んでました。
「しばらく会わなかったのに忘れてなかったのが救いだ。」
と言って膝の上に坐らせるにしても、涙をこらえられない様子です。
「相変わらず家に籠ってばかりで、尋ねて行って他愛のない昔話でも話して聞かせようかと思ってたのだが、すっかり体調を崩して宮廷を去り、大臣の位もお返ししたというのに、身勝手に遊び歩いているなどと世間の人もいいかげんな噂をばら撒いてな。
今となっては世間に気兼ねする立場でもないが、何かとぴりぴりしている今の世の中は恐くてしょうがない。
こんな時代となってしまっては長生きするのも辛いもので、まさに世も末のようなことに心傷めることになるとはな。
たとえ天地がひっくり返ってもこんなことはないだろうというようなことを見てしまった以上は、もう何もかもが空しくて‥‥。」
と言っては、ボロボロと涙をこぼしました。
「あれもこれも前世に悪いことをした報いなので、まあいわばただ供養が足りなかったということなんだろうな。
官職と位階を剥奪されるまでではないにせよ、軽薄な行動で官を辞さねばならない人が知らん顔して宮中に留まるなんて、確かに他所の国では重罪だろうけどね。
ただ、それで流罪にすべきだなどということだと、大不敬か何かよっぽどの罪に問われているみたいだな。
身の潔白を主張してだらだら時を過ごしても周囲にいろいろ迷惑かけることになるし、これ以上の汚名を着せられる前にさっさと隠遁してしまおう思ったんだが。」
と事の詳細を語りました。
若かった時の話や崋山院のことなど、いろいろ思い出を語って聞かせたい心もちがいたいほどわかるので、
若君は無邪気にそこらじゅうを歩き回り、二人に向ってじゃれかかってくると、耐え切れないような気分になります。
「亡くなった娘のことは今でもそこにいるかのように一時も忘れることなく、今でも悲しくてしょうがないのだが、もし生きているうちにこんなことが起きていたらどんなに悲しんだことか。
それを思うと、早く世を去ってこんな悪夢を見ずにすんだと思って慰めるほかないな。
それより、まだこんな幼い子供が、老いぼれしかいないところに置いてきぼりにされ、父親に逢えない日が長いこと続くと思うのが、どんなことよりも悲しい。
昔の人だって、本当に罪があったにせよ、こんなことにはならなかったはずだ。
確かに中国の皇族など讒言で流刑になることも多いとは言う。
それでも何かしらもっともらしい罪過をでっちあげるものだ。
どう考えても思い当たる節がないから困ったものだ。」
と話は尽きません。
途中から
他の女房と違って以前から密かにつきあっていた中納言の君ヒサコが、言うに言えない悲しい思いを抱えているのを、源氏の君もおおっぴらには表には出せなかったけど気の毒に思ってました。
人が皆寝静まったあと、特別な「語らい」をしました。
今日の宿泊もこれがお目当てだったのでしょうね。
夜が明ければ、夜もまだ深いうちに登っていた有明の月が奇麗で、桜の木などもすっかり盛りを過ぎて、わずかに残った花が若葉に埋もれて、寂しさと瑞々しさの入り混じった庭にうっすらと霧がかかり、花の霞みと霧の霞がそこはかとなく混ざり合って、秋の夜にもまして悲しげな美しさをかもし出してました。
「また逢える時があるかどうか、今は想像もつかない。
こんな時代になるなんて知らなくて、気軽に逢いに来れる時もあったというのに、どうしてもという気持ちもなくついつい寂しい思いをさせてしまって‥‥。」
と言うと、それ以上聞くに堪えずに泣き出しました。
若君の乳母である宰相の君に託された亡き妻の母からの言伝を聞きました。
「直接お伝えしたかったのですが、すっかり心を取り乱してしまいまして、こんな夜も深いうちに出発なさるなんてのも、すっかり以前と状況が変ってしまったのを感じます。
こんな時に目を覚まさないあの子のことが可哀想でならないというのに、少しも待つこともなく行ってしまわれるなんて‥‥。」
と聞くと
「
海人の塩焼く浦見に行くよ」
返事をするともなくこんな歌を口ずさんで、
「夜も白む頃の別れは、こんなにも身を削るものなのか。
わかっていただければいいんだが。」
と言うと、
「どんな時でも『別れ』という文字は特別なものですが、今日の朝ほどのものは今後二度とないのではないかと思われます。」
と宰相の君も鼻声で、半端な悲しみではありません。
「伝えたいことはたくさんあって、何を言おうかいろいろ考えるのですが、考えれば考えるほどこんがらがるばかりで、その辺の気持ちを察してください。
眠っているあの子のことも、その寝顔を見たならきっと隠棲の決意も揺らいでしまうので、ここは心を鬼にしてでも急いで出発することにします。」
とだけ
出発する所を女房達は密かに見守っています。
沈みかけた月はとても明るく、思いつめたような源氏の表情をほんのりと美しく照らし出し、その姿には虎や狼も泪することでしょう。
まして、年端も行かぬ頃からずっと見守り続けてきた人たちなら、何にも例えようのないその姿はとても耐えられるものではありません。
それはそうと、この時の亡き妻の母の返歌は、
亡き人の別れも遠くなるばかり
それにつけても悲しみだけが尽きることなく、出発したあとも死ぬほどに皆で泣くばかりでした。
*
二条院に戻っても、東の対の女房たちは一睡もできなかった様子で、所々に固まってはひどいことになったと世の中を憂いている様子です。
側近の者たちでも親しく仕えていた人たちは、一緒に付いてゆく準備をした上で個人的な別れを惜しみに行ったのか、誰もいません。
そうでない者は、源氏の様子を伺いに行くだけでも重い処罰があるやもしれず、そんなリスクも負いたくないので、かつては所狭しと集っていた馬や車の影もなく寂しげで、「人の世というのははかないもんだ」と思い知るばかりです。
付き人の詰所も半分埃が溜まっていて、畳も所々ひっくり返ってました。
「今見てもこれなのだから、これからはどんなに荒れ果てて行くことか」と憂鬱になります。
西の対の方に行ってみると、格子が開けっ放しで、
「昨日の夜はこんなこんなで、帰りがこんな夜更けになってしまった。
何か良からぬことをしてたと思ったかな。
こうしている間さえ本当は一緒にいたいんだけど、長く世間から遠ざかる以上、いろいろ気を使わなくてはならないことも多いというのに、ずっと家に籠っているわけにも行かないだろっ。
人の心というのも変わりやすいだけに、ここで薄情者と嫌われてしまうのも嫌だしね。」
と言えば、
「こんな状況だというのに、まだ心配なことがあるなんて、一体どんなことなのでしょうね。」
とひどく悲しそうに塞ぎこむ様子は他の人以上で、それもそのはず、兵部卿の宮は何を考えているのか、元から自分の娘にさして興味がない上、世間体を気にして手紙もよこさなければ、まして二条院を尋ねてくることもなく、
「せっかく幸運が舞い込んだと思っていたというのにこの変わりよう。
恐ろしい女だこと。
この子を愛した人はみんな不幸になるのよ。」
と言ってたと風の噂に聞くにつけても悲しくなるばかりで、わざわざこちらから手紙を書く気にもなれません。
他に頼れる人もなく、本当に気の毒なご様子です。
「このまま本当に何十年も復帰できないとわかっているなら、たとえ洞穴暮らしになろうとも君を迎えに行く。
だけど今のところまだ人の噂が絶える様子はない。
天の前に身を慎む人は太陽や月の明るい光を浴びてのうのうとしていてはいけないんだ。
何も悪いことはしてないが、前世の悪い因縁ならこんなことがあってもおかしくないと思うし、ましてこんな時に最愛の人を連れて行くということになると、ただでさえ人の心の狂った世の中、何が起こるかわかりゃしない。」
と言い聞かせました。
日が高くなるまで寝所で過ごしました。
そのままで会うわけにもいかないので
「今は官位がないから」と言って昔よく着ていた紋のない直衣を着ましたが、身分のない人間の姿になっても、やはり美しいものです。
もみ上げのあたりの癖を直そうとして鏡を覗き込むと、頬のこけた姿が映るものの、自分で見てもそんな身分の低い野卑な姿が似合っていません。
「それにしても落ちぶれたもんだな。
本当にこんなに痩せてしまったのかい?
悲しいもんだな。」
と言えば、
「この体どこにいようとこの心
鏡のようにいつも一緒だ」
と詠みあげると、
「別れてもあなたが鏡に映るなら
それ見て心静めるものを」
柱の陰に隠れるように座って泪をごまかしている様子に、なお「女はたくさんいるけど、こんなのはいないな」と惚れ直す、
*
あの花散里でも源氏のことを心配して何度も手紙をよこすのも当然のことで、
とにかく不安でしょうがない様子で、長年にわたって源氏の君の力で何とか暮らしてきたものの、ますます貧窮することは容易に想像できることで、屋敷の中はひっそりとしていました。
月の朧の光に照らされて、大きな池は木の生い茂った山が心細く思えるものの、これから自分の行く洞穴のことを思うと先が思いやられます。
西の対の正面の部屋にいる
仲睦まじいひと時を過ごすうちに夜明けも近くなりました。
「夜も短くなったな。
こんな短い逢瀬でも二度とないかもしれないと思うと、何もしないで無駄に過ごしてきた年月が悔やまれます。
過去にも未来にも物笑いの種となるようなこの俺には、心のやすまる時なんてないんだろうな。」
と過去のことばかり言っているうちに鶏も鳴き出したので、人目につかないように急いで立ち去ろうとします。
あの朧月も沈んでしまい、それが
「月光を含んだ袖は小さくても
閉じ込めてみますあなたの光」
ぐっと来るものはあっても、心苦しさからこんな慰めを言うだけです。
「朧でも季節が廻り月は澄む
曇った空も長くはないさ
悩んだところでしょうがないでしょう。
ただ、今はその時が見えないから泪して心を曇らすだけです。」
と言って、明け方まだ暗いうちに出て行きました。
*
不在の間のあらゆる手配を整えます。
親しく仕えていて今の世の流れを拒んでいる人たちの中から、二条院の留守を預かる責任者やそれに仕える者を決めました。
お供についていく人についても、また別に選定しました。
これから行く山里の棲み処に持っていくものは必要最低限の質素なものだけにして、それに『文選』などの書物を入れた箱、それに七弦琴を一張持たせました。
場所をとる家具や華やかな衣装などは特に持っていくことなく、まるで山奥に住む怪しげな樵になるようなつもりで準備をします。
仕えている人たちをはじめ、二条院の財産のことはすべて西の対の
実際に所領としている荘園、馬の放牧場をはじめ、権利を持っている他の所領など、その管理をすべて任せることになります。
そればかりでなく、外部の倉庫街や邸内の蔵にある財産に至るまで、かつての乳母の少納言の実務の才能を見込んで、長年仕えてきた
自分に仕えていた中務や中将などの女房達も、これまでほとんど見向きもされなかったものの、傍に居れることで慰めていましたが、これからどうすればいいのかと思ってみても結局、
「いつか生きてまた帰ってくることもあるかもしれないし、待ち続けたいと思う人は姫君の元に仕えてくれ。」
と言うと、上の者も下の者もみな姫君の元に参上しました。
前大臣家の若君の乳母達や
*
《お手紙も下さらないのはしょうがないこととは思いつつ、これでお別れかと、この世を見限りたくなるくらいの悲しい出来事もそれ以上に辛いことでして、
逢う瀬まで涙の川に沈んだか
時の流れは待ってくれない
と思ってはみるものの、罪は免れないのでしょう。》
ちゃんと届くかどうかもわからないので、これ以上詳しくは書きませんでした。
「涙川浮かぶ泡さえ消えるだけ
流れた後の逢瀬待たずに」
泣きながら書いた乱れた文字が、独特な味を出しています。
もう二度と逢うことがないかもしれないと思うと心残りですが、気を取り直し、二人の仲を快く思わない親族がたくさんいることを思ってここはぐっと堪えて、これ以上手紙を書くこともありませんでした。
*
明日には出発という日の暮れには、崋山院のお墓参りをしようと北山に行きました。
月が夜明け間際に昇る頃なので、まず入道となった
近くの御簾の前に座って
春宮のことを大変気にしていた様子でした。
切っても切れぬ間柄同士の会話は、何を言ってもますます悲しくなるばかりでしょう。
あれほど恋焦がれていた美しい容貌は昔と変わっていないので、これまでの辛かったことをそれとなく伝えたいと思ったけど、今さら言ってもどうなるものでもないと思ったのか、自分の気持ちもこれ以上抑えきれなくなってしまいそうなので、思いなおしてただ、
「こんな思いもよらない濡れ衣を着せられてしまったのも、思い当たることが一つあるだけに、何か悪いことが起こらなければと思ってます。
自分の身はどうなってもかまわないが、春宮の皇位継承が何ごともなく行なわれれば‥‥。」
と伝えるだけに留めるのも無理もないことでしょう。
「院の御陵にお参りに行くんだが、何か伝えたいことはあるか。」
と訊いてはみるものの、すぐに返事はできません。
言っていいものかどうか迷っているようです。
「主人はなくいる人も悲しい運命に
出家したけど涙絶えない」
忌まわしい出来事の多かっただけに、いろいろ思い出したところで次の句が継げません。
「悲しさはあの日の別れに尽きたのに
もっと悲しいことがあるとは」
明け方の月が昇るのを待ってから出発しました。
お供にはほんの五六人ほど、血縁のある下男下女だけにして、馬に乗っての出発です。
別に珍しいことではないのですが、かつての遊び歩いた時とはわけが違います。
みんな本当に悲嘆に暮れてましたが、その中に、あの禊の日に一時的な随身となった
加茂の下社が向こうに見えてくると、ふとその時のことを思い出しては自分の馬を降り、あの日のように源氏の乗っている馬の轡を握ります。
「導いて葵飾ったその髪を
思えば辛い加茂の玉垣」
と歌うと、
「辛い世を去っても残る俺の名を
そう歌い上げる様子は、何ごとにも素直に感動する年頃の人には、身にしみて悲しくもありがたいものです。
院の御陵に墓参りすると、生前の姿が目の前にいるかのように思い起こされます。
どんなけ力がある人であっても、既にこの世にいないのが残念でなりません。
これまでの一部始終を泣きながら院に訴えても、それに対して何の判断も仰ぐことができず、生前に残したあれほど事細かな遺言もどこに消えてしまったのかと言っても、どうしようもないことです。
墳墓は道に草が生い茂り、掻き分けて入っていくと露でびっしょりになり、月も雲に隠れて森の木立は鬱蒼として恐いくらいです。
もうここから出れないのではないかという気持ちで手を合わせると、生前の姿がはっきりと浮かびぞくっと背筋が寒くなります。
「亡き人にどう見えるかと想像し
月眺めても雲があるだけ」
すっかり夜が明けてから帰り、春宮への手紙を書きました。
王命婦に自分の代わりにお世話をさせているので、その部屋へと、
《今日都を離れます。
最後に会うことができなかったことが、どんな悩みよりもまして心残りです。
どうかそこのところを察して春宮にお伝え下さい。
いつかまた都の桜見れたなら
今は季節も知らぬ山人》
既に桜の散ったあとの枝にくくり付けました。
これこれこうですよと春宮に説明すると、幼いながらも真剣になってお聞きになります。
「お返事はどうしましょうか?」
とお伺いすると、
「しばらく会えないだけでも会いたくなるのに、遠く離れるとなればどんなだか、
と言っておいてくれ」
と言いました。
何のひねりもないお返事だなと、それはそれで可愛いものです。
どうにもならない恋の仲立ちをした昔のことや、いろんなことのあったその時そのときの二人の表情など次々と思い起こしてみても、本来なら自分も源氏や中宮も何の苦労もなく過ごせたというのに、こんなに悲しいことになってしまったのを悔いては、すべて自分一人のせいだったかのように思えてなりません。
春宮からのお返事には、
《これ以上どうにも言葉が見つかりません。
母上には伝えておきました。
心配そうに顔を曇らせた様子にもいたたまれなくなって‥‥。》
といった調子で、自分でも何を書いているかよくわからないくらい取り乱してたようです。
《咲いてすぐ散るは悲しいがゆくゆくの
春は花咲く都に帰って
きっとその時もありましょう。》
と添えて、源氏の帰った後もいろいろ悲しい思い出話をしながら、屋敷中みんな一緒になって忍び泣くばかりでした。
一目でも今の源氏の姿を見たなら、このような生気の失せたような様子に溜め息をつき、去って行くのを惜しまぬ人はいません。
まして長年お仕えしてよく知っている人たちは、源氏からすればほとんど気にかけたことのないような雑用係や便所掃除のおばちゃんたちまでも、なかなかないような待遇を得てただけに、ほんの少しの間でもお仕えできない時があるなんてと深く溜め息をつくのでした。
世間の人もおおむね誰もこうやって源氏が追いはらわれていくことを良いとは思ってません。
七つの頃からずっと
そうそうたる家柄の上達部や太政官の弁などの中にもそうした人たちはたくさんいます。
それより下のたくさんの人たちもまた、その恩恵を知らぬわけではないけど、取りあえずは恐ろしい世の中を思っては躊躇し、尋ねてくる人もいません。
世の中はこぞって源氏の隠棲を惜しみ、影では宮廷のやり方を批判し、不満を顕わにしたりはしても、我が身を犠牲にしてまで見送りに行った所で何か得することはあるのか、といった所でしょうか。
こういう時になると、人間というのは弱いもので不満はあってもどうすることもできない人ばかりで、とかくこの世はままならぬものだと、ただすべてそう思うだけです。
「きっと帰ってくると信じてます。」
「源氏はこのままでは終わらない。」
「そうそう、行く先々に女あり。」
「そっちの方は間違いなく終わらない。」
「式部さんも物語を燃やされた時期を乗り切ったし。」
「その前に式部さんって受領で余所へ行ってたよね。」
「浅水のとどろとどろ。」
「ととろとなるも侘しい。」
「浅水橋、越前ね。」
「まあ、式部さんも源氏物語も乗り切ったから。」
「今は栄光の中宮付き。」
「源氏もこのままでは終わらない。」
「そうそう、行く先々に女あり。」
「そっちの方は間違いなく終わらない。」
「なんかぐるぐる回ってない?」
「須磨いえば行平。」
「やはり間違いない。海女と付き合う。」
「尼から海女へ。」
「花から花へ、尼から海女へと。」
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