第17話 若紫5 小さな姫君(下)
「内密な話だが、藤式部を女房に欲しいと、中宮様からの打診があった。」
「これだけの人気ですから、取り込もうというのも無理はありませんね。
宮中の女性方の間では、未だに旧定子派が幅を利かせていますから、その辺りの調整が難しそうですが。」
「勝手な写本は困るし、かといって源氏物語のアンチに火がついてしまっても困る。
難しい所だな。」
「今日ちょっと人数減ってない?」
「何か源氏物語聞きに行かないように圧力掛けているお局様がいるって。」
「派閥争い?」
「『輝く日の宮』の次は、この若紫巻を燃やそうとしてるみたい。」
「早蕨の燃えいづる春で、草萌ゆる。」
「たかが物語でいい歳して、草萌ゆる。」
「
藤式部
「では今日も、始まり始まり。」
何度となく手紙を送りました。
夕方になると、例の
《いろいろ事情があってお尋ねできないのを、愚かなことと思ってないでしょうか。》
などと書いてあります。
「兵部卿の宮が明日急に姫君を迎えにと言ってきたので、すっかり心もせかされてます。
長年暮した蓬の生い茂る家を離れるとなると、さすがに心細く、仕えている女房たちも動揺してます。」
と言葉少なに言って、なかなか惟光も相手にされません。
仕立屋がせわしく働いている気配がひしと伝わってくるので、戻りました。
何かかったるくなって、
♪常陸の国は米どころ、他になんにもありません。
だから野を越え山越えて、通うあなたを待ってます。
という民謡を、ぼそぼそとした声で気ままに歌いました。
惟光がやってきたので、呼び寄せて向こうの様子を聞きました。
そこで惟光がかくかくしかじか言うと、目の前が真っ暗になり、あの兵部卿の宮の家に行っちゃったあと、わざわざそっちに結婚を申し込みに行ったりしたらそれこそスキャンダルで、幼女と密かに出来ていたなんて非難されかねない。
なら、その前にちょっとの間あちらの女房達を口止めして二条院に連れてこようと思い、
「日が昇る前にあちらへ行こう。
車を出す準備をして、そのままここに置いておくように。
お付きの者の一人二人に命じておいてくれ。」
と言いました。
惟光も承知して出発しました。
源氏の君は、
「どうしよう、人に知られてスキャンダルになるにしても、相手が一人前の女として物事がわかっていて、女と情を交わしたと思われるなら、よくあることだ。
父親の宮様に探し出されたりしたら、ばつが悪くて徒労に終る。」
と思い悩んではみても、この機会を逃しては元も子もないので、まだ夜も深いうちに出発しました。
「二条院の方に急用があったのを思い出した。
すぐに戻る。」
ということにして出発したので、
自分の客室で
惟光が門を叩くと、何が起きているのかもわからずに誰かが門を開けたので、車を中に引き入れて、小さな方の姫君の寝所の妻戸をノックして咳払いをすれば、少納言の乳母が聞きつけて出てきました。
「源氏の君がここにおられます。」
と言えば、
「小さな子はお休みになってますから。
にしてもどうしたの、こんな夜ふけにやってきて。」
とどこかへ通ってきたついでかと思って言いました。
「兵部卿の宮の所へやるというのなら、そのまえにほんの一つだけ言っておきたいことがあって。」
と言えば、
「一体何なのよ。
どうやればあの子がきちんとした結婚の承諾をすると言うのですか。」
といいながら急に笑い出しました。
源氏の君が寝所の中に入ろうとすると、それは困るとばかりに、
「ちょっと人に見せられないような姿でくつろいでいる年齢の者いますから。」
と咎めます。
「まだ気付かないのかい。
さあさ、起きましょうね。
霧がかかって暗いだけで、もう朝だというのも知らずに寝ているのかい。」
と言って入って行けば、みんな「あっ」と声を上げることすらできません。
若君は何も知らずに寝ていたところ、源氏の君が驚かそうとして抱きしめたので、びっくりして、まだ眠気まなこで兵部卿の宮が迎えに来たのかと思いました。
源氏の君が若君の髪を手でざっと整えると、
「さあさあ。
兵部卿の宮の
と言うと、
「ちがうーーっ!」
と何が何だかわからず恐がっているので、
「いけませんね。
私も同じような者です。」
と言ってお姫様抱っこで出て来ると、惟光大夫や少納言の乳母などは、
「どうする気なんだ。」
と口々に言いました。
「ここにはしょっちゅう来ることが出来なくて不安だから、安心できる所にと言ったのに、その意に反して兵部卿の宮にやるというなんて、それこそ理解に苦しむのでね。
誰か一人来るといい。」
と言えば、すっかり慌てふためいて、
「今日というのはいくらなんでも都合が悪すぎます。
それに、兵部卿の宮の所に行かせるというのをどうして知ったのやら。
時とともに自然に落ち着くべき所に落ち着くのでしたらともかく、まだちゃんとした判断の出来ない子供のことなので、仕えている方としても困ります。」
と食い下がってはみるものの、
「そうか、だったら後から来ればいい。」
と言って車を近くに持ってこさせれば、呆然としてどうすりゃいいのかとみんな思うばかりでした。
若君も異常を感じて泣き出します。
少納言の乳母も、止めることができないならばと、昨日縫った
二条院までは近いので、まだ明るくならないうちに到着し、西の対に車を着けて降りました。
若君をいかにも軽々とお姫様抱っこし、車から降ろしました。
少納言の乳母は、
「まだ何か悪い夢を見ているようなんだけど、あたしはどうすればいいのかしら。」
と呆然としてれば、
「それはあなたのお心次第だ。
この子さえ引き渡してくれればいいんだ。
帰りたいなら送っていく。」
と言うので、仕方なく車から降りました。
急にむかむかしてきて、動悸が激しくなります。
兵部卿の宮に一体なんて言われるか、この子は一体どうなってしまうのか、それもこれも頼りにしてきた人たちがみんな死んでしまったのが不幸の元だと思うと、泪が止めどもなく溢れてくるのを、ここで取り乱すわけにも行かず、ぐっとこらえました。
*
西の対は誰も住んでなかったので、御帳などもありません。
惟光に命じて、御帳や屏風などをあっちにもこっちにも配列させました。
御几帳の帷子を引き降ろして、寝所を整えるだけ整えて、源氏の住む東の対にお泊り道具を取りに行かせ、眠りにつきました。
若君は、とにかくおぞましく、何をされるのかと恐怖に震えてましたが、あまりのことに声を立てて泣くことも出来ません。
「少納言の所で寝るぅ。」
と、いかにも子供の声で言います。
「もうこれからはそこで寝てはいけません。」
と告げられると、すっかり意気消沈して泣き伏しました。
少納言の乳母は眠ることも出来なければ何も考えることもできず、ただただ泣いてました。
夜が明けて行くままに漫然とあたりを見渡せば、屋敷のたたずまいやインテリアなどは言うまでもなく、庭の玉砂利もあたかもクリスタルを敷き詰めたようにきらきらと輝いて見えるのに、場違いな所に来たと思いつつも、ここには女房などは仕えていません。
折から珍しい客人が来ているというので、使用人の男達が御簾の外に控えています。
「ここに誰かを迎え入れたと聞いたけど、誰なんだい?」
「さあ、並大抵の人じゃないだろうな。」
と囁きあってます。
洗顔用の水やお粥がここに届けられます。
日が高くなって起き上がると、源氏の君がやってきて、
「女の人手がいなくて申し訳ないので、残りの人たちも夕がたには連れてくる。」
と言って、西の対に女童を連れてきました。
小さい子だけ特別選んで連れて来いと言うので、特に可愛らしいのが四人来ました。
若君は源氏の
「そんなに心配するんでない。
いいかげんな人はこんなことをしたりしない。
女はほんわかしているのがいいんだ。」
などと、さっそく教育を開始しました。
見かけは遠くから見ていたよりもはるかに高貴な気品を漂わせ、親しげに話しかけながら、面白い絵や遊び道具を取りにやらせては見せて、なんとか気を引こうとします。
ようやく起き上がったので見ると、にび色のきめ細かい上物だがすっかり萎えてしまっている服を着て、無邪気に顔をほころばせてますが、その美しさに思わず源氏もにっこりします。
霜枯れた草木の植え込みがまるで絵みたいに奇麗で、見たことのない黒い服を着た四位の男、赤い服を着た五位の男が入り混じり、ひっきりなしに出入りするのを、「なにこれ、超おもしろーい」と思いました。
いくつもある屏風の奇麗な絵を見ては、恐かったことをすっかり忘れているのもあっさりしたものです。
さらには、書や絵の手本にといろいろ書いて見せたりしました。
何かとても楽しそうに書き溜めてゆきます。
若君は、「知らなくても武蔵野といえば恨まれるそれこそまさに紫のせい」と紫の紙に書かれた書の特別出来の良いのを手にとって見てました。
少し小さく、
根なくてもいとしくおもうむさしのの
つゆにまみれた草のルーツを
と書いてあります。
「さあ、書いてごらん。」
と言うと、
「まだ、そんな書けないよぅ。」
と言って見上げる目が、無邪気で可憐なので、ついつい口元が緩んで、
「下手でも書かないよりはずっと良い。
さあ、教えてやるから。」
と言えば、つんとした顔で書き始めるその手つきや筆の持ち方が子供っぽいのがただただ可愛く思えて、自分でもおかしく思うほどです。
「失敗しちゃった。」
と恥ずかしそうに隠してるのを強引に覗き込めば、
うらまれるわけがさっぱりわからない
どんなルーツが草にあるのよ
と、まだまだ若いけど、将来の上達を予感させるかのように、のびのびと元気よく書いてました。
今はなき尼君の字にも似ています。
ちゃんとした今の書体を習わせれば、きっと上手に書くに違いないと思いました。
とり残された人たちのところに兵部卿の宮がやってきて、何があったのか尋ねるのですが、説明のし様もなくて途方に暮れるばかりです。
「しばらくは誰にも言うな」と源氏の君にも言われていて、少納言の乳母もそう思ってたことなので、硬く口を閉ざして、
「少納言がどこかに連れてってしまって、どこへ行ったのかもさっぱりわかりません。」
とだけ言うと、兵部卿の宮も言ってもしょうがないと思ったのか、亡き尼君も自分の所に渡すのを渋っていたことを思えば、少納言の乳母もその気持ちを察するあまりに、すんなりと渡すのが嫌だとも言えず、勝手な判断で若君を連れ出して姿をくらましたと思い、泣く泣く帰ってゆきました。
「もし何かわかったら知らせてくれ。」
と言われても面倒なことです。
兵部卿の宮は僧都の所に何かわからないか聞きに行ったけど、これといった情報もなく、こんなボロ屋敷にはもったいないような端正な若君の姿を恋しくも悲しく思うのでした。
兵部卿の宮の奥方も、若君の母を憎む気持ちにもなれず、ただ自分の思い通りになると思っていたのが違ったのが、くやしがってしょうがありませんでした。
*
ようやくその仕えていた人たちも二条院にやってきました。
遊び相手の童女や稚児たちも、それこそ見たことのないような最先端の生活環境にびっくりし、思う存分遊びました。
若君は
もともと滅多に会うこともなく、いないことに慣れていたので、今はただこの二人目の父親にすっかりなついて、いつもくっついて歩いてます。
帰ってきた時はすぐに出迎えて、楽しそうにおしゃべりをして、胸元におさまっても恥ずかしいなんて気持ちがまるでありません。
その趣味の人にはたまらなく可愛らしい仕草でした。
いろいろ計算するようになり、何やかんやと面倒くさい年頃になれば、自分の思い通りでないこともあるかと身構えたりし、相手に不満を感じることも多く、自然とぶつかり合うことも多くなるものなのですが、今はまだ心から楽しく遊べる相手なのです。
普通、娘というものはこのくらいの歳になれば、こんな気安く相手したり、分け隔てなく寝起きをともにしたりなんてありえないことなので、源氏の君も、これはまったく別個な親子関係なんだと受け止めているようです。
「お持ち帰り。」
「あたしもさらわれたいな。」
「生活には困んなそう。」
「俺もさらってっていいよ。」
「源氏の君は男でもOK.」
「俺も二条院で暮らしたい。」
「みんなで行こう二条院。」
「空蝉の弟はさらわなかったんですけど。」
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