色彩の日々

蒼逸るな

色彩の日々

 わたしの恋人はときどき不機嫌になる。

 といってもべつに、周囲に当たり散らすようなことはしない。彼女は実に理性的な人間だからだ。しかしその際立って端麗な顔立ちに、他人には読み取れぬほどのかすかな嫌悪の皺を浮かべ、憂鬱な面持ちで溜息を吐く。

 わたしはそのさまに見惚れながら、口先だけは平常を装って声を掛ける。

「どうしたの」

「最悪だ」恋人は言う。彼女の口調は端的で、ともすれば男性のそれのようにも聞こえる。「十三日の水曜日。なにもかも合っていないだろう」

 わたしは有名な映画に登場する殺人鬼を連想した。たしかそれが現れるのは金曜日であったはずだが。

 わたしの戸惑いを察して――ある特定の感情に対して、彼女は非常に過敏に反応する――彼女は続ける。やや厚みのある唇。

「色が合っていない。赤と青は両立しないだろう」

「混ぜて紫にすれば?」わたしはとりあえず折衷案を口にしてみる。

「一が邪魔だ。濁ってしまう」

 ということでその日は彼女にとって原色が混ざり合い濁った日だったようだ。そのせいか昼休みの後、体育の授業で彼女はハードルを跳べずに躓いて出血していた。どんな天才の血も赤いのだ。青くはない。


 わたしの恋人はときどき上機嫌になる。

 といってもべつに、周囲にそれを表明したりするようなことはしない。彼女は実に理性的な人間だからだ。しかしその際立って端麗な顔立ちに、他人には読み取れぬほどかすかな喜びを頬に刷いて、その唇はいつもよりも赤く艶やかになる。

 わたしは少し、はしたないことを考える。だが高校生の砌で、それを考えない人間のほうが稀有だろう。わたしはみずからの乾いて薄い唇が彼女のそれに重なることがあればと想像する。彼女は顔色を変えないだろう。彼女は一方的に他人に害されることに慣れている。

「君」恋人はわたしの名を覚えられない。だから誰のことも平等に君と呼ぶ。「今日は二十二日の金曜日だぞ。宝くじでも買い給え」

「高校生って宝くじを買ってもいいの?」

 わたしはあまりに単純な疑問を口にしたが、彼女はその程度ではわたしに見切りを付けたりしない。彼女は他人に失望することに慣れきっている。

「当せん付証票法には購入できる年齢を制限する条項は設けられていない」

「億万長者も夢じゃないってことだね」

「夢を見るのは人間の特権だ」彼女はたまに哲学者のようなことを言う。たぶん、彼女の生はそれを必要としてきたのだ。

「今日はお金の色の日なの?」

「ああ。黄色の日だ。君の財布も多少は潤うだろう」

 ということでその日は彼女にとって煌めく金色に満ちた日だったようだ。わたしは放課後に駅前の宝くじ売り場に向かい、240322番の宝くじを買った。後日公開された当選番号によれば、わたしの買ったくじはその購入額を二千円上回っていた。


 その二千円でわたしは恋人をデートに誘った。高校の最寄り駅に併設されたドーナツ店の前で、わたしはささやかな膨らみしかない胸を張る。

「好きなものを選んでいいよ。奢るから」

「それは君が――」彼女の舌が少し逡巡した。「わたしを好いているから?」

 わたしは頷く。彼女は少し、安堵したような顔をした。予想が外れなかったことに対するものだろう。彼女には、恋愛というものが理解できない。人間が繁殖のために太古から持ち続けたその欲求を。それでも、彼女は慈悲深くわたしに付き合う。

「今日はなんの色の日なの?」トングを空中でかちかち鳴らし、ドーナツを威嚇しながら訊ねる。

「赤、少し茶色」細く骨の浮いた手首に巻かれた時計を見て、彼女は答える。そこに白く浮き上がる白い傷たち。神経繊維が切断され、それが塞がったあとも抜けた色素は戻らない。「三十日の土曜日は苺とドーナツの日にすべきだな」

 わたしのトングは三月限定の苺クリームが乗ったドーナツを挟んだ。

 土曜の昼下がり、ドーナツ店はさまざまな年齢層の人間をその内側に留めていた。スーツを着たサラリーマンがお代わり自由のコーヒーを狂ったように啜り、その隣の席では若い母親が騒ぐ子どもたちを窘めていた。わたしと同じ制服を着た学生の姿もある。土曜の授業は午前中で終わり、部活動に所属していない学生は晴れて自由の身となるからだ。

 三つ目のドーナツをトレイに乗せて会計を済ませ、恋人の姿を探す。彼女は窓際の席に座り、硝子の向こうを見ていた。駅前の、絶え間なく行き交う人々。その流れがひとつの大河だとすれば、彼女はそこに落とされた一粒の宝石だ。彼女のしらじらとした頬、高い鼻、なにをも見ているからなにをも見ていないに等しい、淡い色の瞳――それが硬い光芒を放ち燦としてみえるのは、彼女を受け入れなかった大河がその流れで彼女を削り、いっとううつくしい宝石に磨き上げたからだ。

 彼女の前に置かれたトレイを見る。なみなみと注がれた赤黒いコーヒー、そしてプレーンドーナツ。

「苺は?」わたしは訊ねる。

「青果が好きなんだ」彼女は答える。それは、わたしを愛しているからではない。

 わたしたちは向かい合って、かつて生きていたもの、その死骸を口に運ぶ。歯形のくっきりついたわたしのドーナツと、小さく千切られて口許へと運ばれる彼女のドーナツ。彼女に隙があったなら、もしかしたらその口許に屑をつけてくれたかもしれない。だが彼女は人に弱味を見せることを嫌う。

「どうしてわたしを受け入れてくれたの」

 わたしはさり気なく訊ねる。肋骨の内側で跳ね回る心臓の鼓動は、人いきれが掻き消してくれた――はずだ。

 彼女は手許に落としていた視線を上げ、その琥珀の虹彩と星の瞳孔にわたしを映した。映しただけで、彼女はわたしという存在、顔かたちを認識できない。わたしは彼女にとって有象無象と変わりない。

 わずか、彼女の口端が上がった。微笑みじみたかたち。彼女が獲得せざるを得なかった擬態。

「君の声だけが、色彩を持っていたから」

 彼女は目を伏せ、マグガップに手を伸ばす。

「安心し給え。たとえ君が人の大河に攫われたとして、わたしは君を見つけられるよ」

 そして小さな唇が赤黒い液体に触れる。広がる波紋。カフェインが彼女の唇を汚して、その泥のような色さえいとおしい。

 彼女は目を細めた。湯気が立ってその長い睫毛に凝る。どうしてかその無表情のほうが、彼女の感情をわたしに知らしめている気がした。人間の持つそれと形が違ったとしても、愛していると。

「頬が赤い」彼女はなんの臆面もなく言った。「まさに今日に相応しい色だ」

 わたしは頬を両手で挟んだ。トングに掴み上げられたドーナツの気持ちがわかった気がした。



 了

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色彩の日々 蒼逸るな @tadaokinnu

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