第30話 見ている女(ひと)の憂鬱①

 また一人、急な予約の女性が七色書房へとやって来た。


 からん、からんころん


 書房の玄関扉が開く。


「こんにちは」


「いらっしゃいませ」


 いつものように七色は書房にやって来た人を出迎える。

 その女性が書房の玄関扉を開けて入って来た時、まっすぐな女性の視線を見た。その視線は七色の顔に向っている。外から一緒に入って来る風が柔らかだった。


「お好きな席にどうぞ」

 七色がそう言うと、女性は軽く会釈をして、入口付近の窓際の四人掛けのテーブル席の奥に静かに座った。


「少々お待ちください。今、お茶の用意を」


「あ、ありがとうございます」


 女性の返事を待ってから、七色はカウンターの奥へと入っていく。


「ここから見る風景、綺麗ですね」

 女性は座った席の窓から見える外の風景に喜んでいるようだった。わざわざこの席を選んだのだろう。


「そうですね。今日は、遠くの海の方まで見えていますね」


 高い丘の上に書房があるかのような風景が、今日は外に見えていた。


「ここは、見える風景も時々変わりますから…」

 七色がそう言うと、笑いながら女性は楽しそうにしていた。


「そんなこと、あるんですか? 風景が変わるだなんて、面白い」


「ええ、あるんです。ここはそういうところ、なんです」

(はい。これは冗談ではないのですよ…)


「遠くまで海が見えるんですね。どこまでも広がっていくようで気持ちがいいです」


「はい。私も今日のような海は久しぶりに見ました。いいですね、海が見えるのって」

 カウンターの中で時々返事をしながら、七色はお茶の準備をしていた。


「不思議な場所、なのか…不思議な人、なのか…な…」

 窓から見える風景が変わるだなんて、そんなことがあるのかと女性は信じられないようで、七色に気を遣ってなのか、声をほんの小さくして呟いた。


 壁面にあるカップ&ソーサーから、今回は好みのものをご本人に選んでもらうことにした。

 淹れるお茶の種類は七色がもう決めていた。


「あの、こちらの壁面のカップから好きなものを選んでいただけますか?」


「えっ、選んでいいんですか?」


「どうぞ」


 さっそく女性は席から立ち上がって移動し、長いカウンター越しに、たくさんあるカップ&ソ-サーを急ぐこと無く時間をかけてゆっくりと見ていた。その合間にも穏やかに吹く柔らかい風が彼女の周りに流れているかのように七色には感じられた。

(潮の匂い…これは海風…)


「お決まりになったら、声をかけてください」


「はい、ありがとうございます」


 七色はお茶を淹れる準備を進めていく。お湯はもうすぐ沸くだろう。

 用意していた新鮮な生のハーブからいくつかを選んで、透明ガラスのティーポットに入れている。


(二度と同じ味のお茶にはならないかも)

「今日は、今日のお茶を」


 そう呟いた。その後すぐに女性の声がした。


「お願いします。じゃぁ、あの一番右側の棚の真ん中の段の白のカップで」


 女性が選んだのは、艶のある白地で器の下部に丸い膨らみのあるティーカップと葉の形にさりげなく寄せているデザインのソーサーのものだった。カップ全体に浅い凹凸があり絵柄の無いものだ。凹凸の重なる、影になる部分には薄いグリーンが入っている。離れて見るとその凹凸は花びらの重なりを表わしているようで、カップは開きかけた花の蕾のようにも見える。これから開いていきそうな花の蕾。葉の形に似たソーサーも浅い凹凸になっていて、葉脈を表わしているかのように影の部分には薄いグリーンが入っている。その中央には羽を広げた蝶らしい形が小さく表わされている。カップを置くことで蝶は隠れる。花にも蝶にも色は無い。


「はい。こちらですね。それでは、お席の方でしばらくお待ちください」


「お願いします」


 トレーにティーポットとカップ&ソーサー、そしてティースプーンを乗せて運ぶ。

 彼女の前に一つずつを置いていく七色。

 その後に一度カウンターの奥へと戻って、同じティーカップを自分用に持ってきた。


 丁度よい頃合いだろうと、女性の選んだ白地の花の蕾のようなそのカップにお茶を注ぐ。淡い黄緑色。ティーカップからハーブの匂いが湯気と共に広がった。

「摘み立てのフレッシュハーブティです。どうぞ」


「えっ。そうなんですね。ありがとうございます。いただきます」

 そう言うと、女性は肩までの長めの髪を小さくかき上げて、カップに手を伸ばして匂いをゆっくりと吸い込んでいる。


 女性の向かい側に座ると、正面に座っている女性の顔を見た。

「はじめまして、七色と申します」


「初めまして。私は…」

「お名前、無理されなくていいですよ」

「…、ニックネームでもいいですか?」

「ええ、もちろん」

「じゃぁ、海の…いえ、そうだな…なぎです。なぎって呼んでください」

「はい、なぎさん、はじめまして」

「ありがとうございます。よろしくお願いします」


 女性はほんの一瞬考えて、すぐに「凪」と名乗った。

 おそらくは今日の書房から見える風景と関係があるのだろうと思われた。

(そして…潮風、やわらかな風と…)


 七色もお茶を飲んだ。小さく深呼吸。息を整える。


「爽やかなお茶ですね。」


「ガラスポットの中のグリーンが鮮やかです。見て楽しむことの出来るお茶の一つですよね。その中でも今日は新しい目覚め、新しいステージへと背中を押してくれる、そんなお茶にさせていただきました」


「はい?」

 そんなお茶があるのか、どうしてそのようなお茶を選んだのかは不思議だった。心当たりが無かったからだ。でも美味しいので良しとすることにした。この座席からは海が見える。海岸線が遠くまで広がっていて、沖には船の影が揺れて浮かんでいた。


「お話いただくその前にまずは、出生年月日、わかればですが出生時間、そして出生地を教えてくださいますか」


 七色の声に、「今ここ」へと引き戻され、ハッとしたなぎがいた。



 




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