湘南幻燈夜話 第七話「風邪の猿股三郎の伝説」

湘南幻燈夜話 第七話「風邪の猿股三郎の伝説

 栗林老人は長屋の縁側に新聞紙をひろげ、足の爪を切っていた。

  囲いもない平屋造りニコイチ、つまり二軒がひっついて一棟になった長屋の西のはずれだ。縁先はそのまま雑草の生えた土手になり、ゆるい傾斜をえがきながら庄内川の浅い川底につづいている。

 時は春、見はるかす緑の土手の中ほどにぽつんと生えた不格好なキノコのような長屋は周囲の景観からみごとに浮いていた。あんなものは戦前にはなかったと土地の古老はいう。戦後復興期のどさくさにごっそり建てられた掘立小屋の名残らしい。取り残されたニコイチ長屋の東は只野老人と妻女が、西には栗林老人がひとり暮しをしている。

 右足の爪を切りおえて足を組みかえ、左の親指にとりかかったときだ。栗林老人の動きが止まった。目はさっきまで右足の下に隠れていた新聞記事に落ちている。しばらくながめていたが、

「こうっと……あ、ちゃうわ、コーニョやった」

 なにやら意味不明のことばをもらし、膝のフケを払って立ちあがった。

 そのまま縁先のちびた下駄をつっかけると、ラクダのシャツに股引姿のまま、あたふたと東の方角へ歩みさった。

 しばらくして、東隣に住む只野老人がやってきた。

「クリやん、これな、うちのバさまが煮込みこさえて……」

 公設市場の安売りで買ったすじ肉の味噌煮込みを持ってきたのだが、

「ありゃ、おらんわ。物騒だがや、鍵からんで」

 からっぽの部屋をきょろきょろ見まわしてぶつくさいった。

「近間に用足しかいな」

 只野老人は首をかしげた。

 主のいない縁側には新聞紙がおっぴろがって、のどかに日向ぼっこしている。強情そうな爪が飛びちったあたりに詰襟の男の写真が載っていた。二センチ足らずのぼやけた黒白写真だが、着ているのは学生服らしい。

 気をひかれ、只野老人はすかすような目で見ていたが、すぐに首をふった。

「あー、もういかんでかんわ、老眼鏡かけんことにゃなんも見えん」

 やおら上がりこむとそそくさとせまい台所へまわり、煮込みの小鉢を冷蔵庫に入れた。

 うららかな日ざしの降りそそぐ四月のとある午後のことだ。


「待て! おい、こらっ、ちょっと待てといってるんだ!」

 背後からぐいっと腕をつかまれ、

「ヒッ、ひえ~~~っ!」

 思わず悲鳴を上げた凡児は、洞窟のかたい地べたにドサっと尻もちをついた。

 昨夕逃げ込んだ浄明寺じょうみょうじ釈迦堂しゃかどう付近にある穴倉は子どものころからの遊び場だ。高さはあるが奥行きは浅く、どこにも抜け穴がないのは先刻承知している。入口をふさがれてしまえば逃げられない。それでいいのだ。ここが終焉の地になるのだから。なのに、

「あ、あ、あんた、い、いったい、いつ、どこから……」

 あまりの驚愕にワナワナふるえながら、洞窟の壁から湧いて出たとしか思えない老人を凡児は見上げた。

「細かいことはいい。早まるなよ、三・一五事件の捕まりぞこない学生」

「あ、か、さ、た、な、なんで、し、知って……」

 昭和三年三月十五日の春半ば、全国で共産党員が大量に検挙された。そのさい多くの大学生が連座起訴されて学生の赤化が問題になるのだが、

「おまえさん、それで省線の鶴見駅をふっとばそうとしたろ。まあ、未遂でよかった。罪もない人たちを巻きぞえにしようとはとんだマヌケだぜ。それ、よこしな」

 老人は凡児の手からダイナマイトとマッチをもぎ取った。

「け、けい、京浜地帯の、労働者のぉ、えっと、地位向上と……」

 凡児は丸暗記したセリフをどもりつつ口にしながら、上目づかいに老人を見た。

 最初の衝撃がおさまると、春まだ浅い寒空の下、ラクダのシャツと股引という老人のいでたちは異様だ。しかも足もとは素足に下駄ときてる。一瞬、キ印を疑ったが、老人の面立ちはきりりとして目は定まり、狂気の陰りはない。下着姿の事情はべつにして、老人の言葉は自分よりはるかにまともだ。おのれの行き詰まりを打破したいがため、過激分子の口車に乗せられた自分に内心は忸怩たる思いだった。

 それにしても、この老人はなんだ。

「なんて格好してるんです。寒くはないんですか」

 珍妙な身なりの老人はにわかに狼狽した。

「あ、いや、その、なんだ、ほれ、あわてて出てきたもんで」

「間男してるとこにいきなり旦那が帰ってきたみたいだな」

「怒るぞ、ほんと。だれのためだと思ってんだ」

「だれです?」

「おまえさんだよ。こんなことになっちゃって。おおかた貧乏くじ引かされたんだろ?」

「い、いや、ぼくは労働者の啓蒙と人民のため、一命を賭して……」

 ダイナマイトとマッチを地べたにおき、老人は骨ばった手で凡児の肩をがっしとつかんだ。

「死ぬな。生きるんだ」

 凡児の目から大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。

「もう、おそい……一昨日の新聞にぼくの顔写真が出てた」

「いんや、遅かない。おれが手をかしてやる。ただし、だな」

 そらきた、と凡児はいがらっぽく思った。

「ただし、なんです」

「いままでのことはぜんぶ、忘れちまうぜ。生まれてからいままでに会った人間、親も兄弟も友だちも恋人も。ぜんぶ、ぜーんぶだ」

「恋人なんかいないし、二親は病死したし、兄弟はいないからいいけど、ハナばあちゃんがいる。いま病気なんだ。おばあちゃんのことも忘れちゃう?」

 老人はうなずいた。

「つまり、おまえさんはこの世には初めからいなかったんだ」

「 死ぬ、んですか」

「いや、そうじゃない。そうじゃなくてだな、まあ、解釈のちがいなんだが」

 老人は腕を組んで考えていたが、

「なんちゅうか、こう、メビウスの輪みたいなもんでな」

 どうも説明しづらいという顔でつづけた。

「生きるも死ぬもおんなじ紙の裏表なんだが、ちいとわかりづらいだろう。おまえさんはこれからべつのところでべつの人生を生きるんだよ」

「べつのところって」

「あんなあ、ごちゃごちゃいいなや、男だろが。そんな簡単に説明できることじゃないんだからさ」

「だって、そんなわけのわかんない話をいきなり聞かされて、みんな忘れちゃうとかいうし、死ぬも生きるもおんなじっていわれても、ああ、そうですかっていえますか。もっとちゃんと聞きたいですよ」

 口をとがらせて抗議する凡児はそのとき、山の下方で吠えたてる犬と男たちのざわざわとどよめく声を聞いた。

「あっ、追手だ!」

「ああ、もうじきだ。只野凡児くんよ」

 凡児はひるんだ。

「新聞、読んだんですね。ぼくの名前も顔も知れわたった……。ここで華々しく死ぬつもりだったけど……ああ、もういいや、どこへでも行きますよ。もう、ぼくはおしまいなんだから」

 この老人が連れていってくれる場所へ行こうと凡児はホゾを決めた。

「ひとつだけ教えてください。これからぼくが生きるというところは大義に命をかける価値のある世界ですか」

「いんや」

 老人はいった。

「そこではな、おまえさんはそんなことには係わりを持たずに生きるんだ」

「だって」

「だってもヘチマもあるかい。平凡がいちばん幸せなんだ。いまのおまえさんにはわからないだろうけどな」

「そんなぬるま湯につかったような人生はいやだ」

「ふふん、いっぱしの口をききやがる」

 老人は鼻で嗤った。

「こころやさしい女を女房にして、可もなく不可もなく、平穏無事に生涯を終える。それがおまえさんの生きる道なんだよ。只野凡児」

「さっきからひとを呼びつけにしてるけど、あなたの名前はまだきいてません」

「名前か。そんなん記号だが、まあいい。風邪の猿股三郎とでもしておこうか。へ、へーーっくしょいっ!」

 猿股三郎は大くしゃみをして、水っ洟をじゅるじゅるすすった。

「ほらほら、いつまでもそんな格好してると風邪を引きますよ。これ、着てください」

 凡児は詰襟を脱いで、猿股三郎の骨ばった肩へかけた。

「むかしから、やさしいやっちゃったんだなあ、おまえさんは」

「むかしからって、なにをわけのわからないこといってるんです。名前もヘンだし」

「ああ、もう、いちいちうるさい男だなあ。ほんじゃ送るぞ。バレ!」

「送る? バレ? なんです、それ? あ、ちょっとまって!」

 そのときはもう、風邪の猿股三郎は変容していた。

 やさしげだった目はいまや白熱の溶鉱炉と化し、双眸は炯炯と燃え、発光し、全世界は眩い光の中に炎上した。凡児は自分という意識が宇宙いっぱいに膨張したような、はたまた粒子の核へ吸い込まれるような、果てしなく遠ざかりながら限りなく近づき、破壊と再生、分裂と融合、死につつ生まれる時間軸はねじれて反復し、耳であったものと脳であったものが捕獲した最後の音を無限の彼方に聞きつつ、記憶した。


  ∞∞∞∞∞ α へえーっくしょいっ! Ω ∞∞∞∞∞


「へえーっくしょいっ!」

 只野老人は大くしゃみをして目がさめた。

 二つ折りにした座布団を枕にテレビを観ているうち、うとうとしてしまったようだ。暖かかった春の日もすでに陰り、さすがにうすら寒い。只野老人は毛羽立った古毛布をのけて起き上がった。風邪を引かないよう毛布をかけてくれた古女房のハナ婆さんは夕餉の買い物に出たらしく、姿はなかった。

 そういえばクリやんはどないしたやろと気になって、よちよちと様子を見にいった。

「あやや、帰っとったんか」

 いつのまにか栗林老人は縁側にいて、広げたままの新聞紙をたたんでいた。

「昼にうちのバさまが味噌煮込み炊いたで持ってきよったが、おらんやったろ」

「ちょこっと出とった」

「そうかあ。煮込みな、冷蔵庫にあるで夜に食べてな」

「いつもおおきに。へーくしょい!」

「ほれみい、風邪引くで。いつまでもそないなかっこしとると」

 落ちくぼんだ栗林老人の目にやさしげな光がやどり、なつかしそうな眼差しを隣人にむけた。

「どの世でもやさしやっちゃったんやな、おまえさん」

 只野老人も目のまえの男をつくづくとながめていたが、やがて不思議そうにいった。

「妙やな。なんやしらん、あんたと会うのヤットカメみたいな気ぃするわ。なんでやろ。どえりゃあむかしにどこかで会うたきりだったような………」

 栗林老人はにやりとした。

「おう、そこまで勘づいとるならおせーたるわ。じつはな、さっきまで鎌倉の浄明寺いうとこにおってな、風邪の猿股三郎いう名ぁで、アカかぶれの学生を逃がしてやってん。すぐもどろう思っとったが、飲み屋で会ったごっさまのムッチリ膝枕で湘南ひるね暮らししてたんだがねー。しばらくぶりにもどったけんど、やっぱり在所は安気だわ」

 げっそりした顔で、只野老人は幼なじみの頭をこづいた。

「おたらくばっかいっとって、だちかんぎゃー。あんた、口きかんほうがええわ、ほんま」

「すんまへん、コーニョ」

「また、わけわからんこという……」

「アニモ!」

「もう、ええちゅうん」

 春の日は庄内川の水を赤く染め、ビルの向うにもんどりをうって転げ落ちていった。

    ー 了 ー


《名古屋弁》

やっとかめ 八十日目の意。久しぶりに会ったときにいう。

ごっさま 奥様

鍵をかう 鍵をかける

在所(ざいしょ)は安気(あんき) 出自の場所はのんびりして気楽だという意味

おたらく   ふざけたこと、冗談(現在では、ほぼ死語)

だちかんぎゃー  どうしようもない、の意(ほぼ死語)

コーニョ、アニモ、バレ は作家の中丸明氏が好んだスペイン語

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