湘南幻燈夜話 第五話「蟹行夜話」

湘南幻燈夜話 第五話「蟹行夜話」

 母親は自分のよそ行きをあつらえるときいつも、恵美里もお揃いで作る。恵美里を着せ替え人形のつもりでいる。今日のお出かけには赤と黒の格子縞ジャケットと黒のスカートを着せられた。お初だ。

 仮縫いのとき、恵美里は毛羽立った生地が首筋に当たってちりちりするといったが、英国製のウールですからね、上等ですよ、仕立て屋は関係のない返事をしてそっぽを向いた。自分が持ち込んだ生地に文句をつけられたと思ったのだろう。こいつも、もう口をきいてやらないことに決めた。遅いくらいだ。しばらくすると、縫い上がった服を届けにきた。母親の上着には襟と両ポケットに黒のなめし革を縫いつけ、恵美里のは襟なしで、首周りから前立てまで黒革の縁どりがしてある。着てみると革の当たる後首がひんやりした。ボタンもおなじ革でくるんである。母親のスカートはタイト、恵美里はボックスプリーツになっていた。

「なかなか似合うじゃないの。ぐるっと回ってみて」

 犬じゃないんだが、めんどくさいからいわれたとおりにする。

「その片ポケットがお洒落じゃない。黒がアクセントね。革をうまく使ってるわ」

「それはどうもありがとうございます。お気に召していただけまして、よろしゅうございました。恵美里お嬢ちゃまはほんとうにおかわいらしいから、なにをお召しになってもお顔映えいたしますよ。お母さまそっくり。大きくなられたら大変な美人におなりでしょうなあ」

 仕立て屋の目がその口を裏切る様子はいつ見ても楽しい。

「ふふん。愛想のない子よ。なに突っ立ってんの。藤本さんにお礼いったら?」

 こいつはさっき「口をきかないリスト」に入れたとこだが、教えてやらない。

「まったくもう、かわいげなくて。こんなんでどうなるのかしらねえ。ねえ?」

「いえいえ、まだ小学生ですものねえ。十歳でしょ? まだまだ、これからですよ。ねえ、恵美里ちゃま。いや、しかし、利発でいらっしゃる。ほら、その表情の大人っぽいこと」

 口にのせた鍋が沸き立つほど、仕立て屋の目から生える氷柱はどんどんとんがる。


 今日は横浜へ行くそうだ。二時過ぎにハイヤーが来た。運転手さんはいつもの原さんだ。見送りの婆やから母子お揃いのスプリング・コートをわたされ、母親はさっそうと乗りこむ。恵美里はぐずぐずと這いこむ。

「ほら、スカート。皺になるじゃないの」

 腰を浮かし、ボックスプリーツの折り目を正して坐りなおさせられた。

 きれいになでつけた髪にことさら手をあてて整え、母親が気どった声を出す。

「それじゃ、原さん、お願いね」

 行先をすでに知っている運転手はだまって頭を下げた。

 西御門にしみかどの家から横浜まで小一時間走る間、母親はひとりしゃべりつづける。

「まあ、ずいぶん開けたわねえ。だけどこんなとこ、住めたもんじゃないわね」

 朝比奈峠を走りながら感嘆し、

「藤本さんって自信過剰よね。恵美里、そう思わない? 口ばっかり達者で、にやけてて」

 こんどは仕立て屋の悪口をならべる。

「ほら、恵美里のスプリングコートのここ、へんよ。わたしのだって袖口の折り返しがうまくないわ。こんど直させなきゃ。仮縫いのときはいいように思えるのにねえ」

 先月あつらえたふたりのコートをいじりながら運転席に身をのりだし、

「ねえ、これ、まえに置かせて下さらない?」

 返事なんか待たずに自分と恵美里のコートをバサっと助手席へほうりなげた。

「あ、気がつきませんで」

 めずらしく原さんが口を開く。

「いいのよ、そんなこと。早くあったかくならないかしらね。コート持って歩くの、じゃまくさいったら」

 国電石川町駅と市電停留所の中間あたりにふたりを降ろし、会釈して帰っていく原さんに恵美里は手をふった。

 原さんはリストに入っていない。恵美里は原さんが好きだ。

「ヘンな子」

 けげんそうに見ていた母親が、犬の紐でも引くように恵美里の手を引っぱった。

 

 元町商店街を歩いていると、あら、お揃いよ、おしゃれねえ、とか、まあ、すてき、ほらほら、親子でちょっとっつデザインがちがうのね、とか、へええ、スプリングコートまで御あつらえなんだわ、などというささやきが耳元を過ぎる。おしゃれな母子とすれちがう人たちがもらす感嘆と湿った妬みの小声が流れさる。耳をそばだてている母親は意気軒昂、ヒールの踵を歩道に打ちつけて闊歩する。引きずられている恵美里の右手に熱気が伝わる。得意満面、もう絶頂なのだ。

「恵美里ちゃん、チョコ買ったげる。うふふっ」

 疳の虫がおこるからとめったに食べさせてもらえないチョコレートを舶来屋で買ってくれるのは好ましい。

 商店街を一巡し、枯葉色のバックスキンのハンドバッグと同色の手袋、真珠と紫水晶を束ねた首飾り、子ども用の珊瑚の腕輪と金色の鋲を打った紅いハンドバッグなどがあちこちの店で選ばれ、包まれ、収められ、明日お届けということで母親は手ぶらで店を出る。

「あ、さっきの紅いバッグ、いま持ってく? それに合うわよ」

 ひとの意見も聞かずに勝手に買ったんだから、自分で提げたらいい。

 だまって首をふると、母親の口がへの字になった。

 元町入口近くのキクヤ洋菓子店へ入る。店の奥で男が手を上げた。いそいそという音があたりに響きそうな身ぶりで母親は歩みよる。

「お待たせっ」

「ふむ」

「恵美里、ご挨拶しなさい」

 あいかわらず紳士面した田舎キツネめ。

「あー、もうやだ。ここんとこ、ずっとこうよ」

「反抗期かな。ちょっと早いか」

 笑うな。笑うとよけい品がないのよ、おっさん。


 イチゴのショートケーキを食べてココアを飲んでしまえばすることがない。

 窓の外を行き交う人を眺めたり、黒いエナメル靴を脱いだり履いたりして時間をつぶす。

「しかし、おとなしいね」

「辛気くさいでしょぉ」

 うんざりした目つきで母親は恵美里に視線を当てる。

「高彦に似たのよ。そうそう、この間ね、紹介された東大の医者に連れてったら、言葉を発しないのは脳機能が原因ではなくって、この子の場合は単に話したくないんじゃないかって。なによ、それ。なんかまるで、ぜんぶ私が悪いみたいじゃないの」

 わかってるじゃないさ、当たってるからよけい腹が立つのね。

「IQは平均を大きく超えてるって。周りがバカに見えているのかもしれないなんていってさ、もっと調べたいような口ぶりだからサッサと帰ってきたわ。学校の勉強なんかできないくせに」

 母親はおおげさに足を組みかえた。

「でも、無口ってのもいいわよ。ね、恵美里ちゃん。あなたはおかあちゃまと一緒のときに見たり聞いたりしたこと、ひとにべらべらしゃべったりしないわよね」

 うなずいてやる。

「お父ちゃまにいっちゃだめなの、分かってるわよね。お出かけのことやなんかも」

 もういちど、うなずいてやる。


 小一時間して、男が腕時計を見た。

「さて、そろそろ行ったほうがいいだろう」

「あら、もうそんな時間?」

「そんな時間さ。支那街の料理屋に個室をとってある」

「やだわ、支那街だなんて。中華街とか南京街っていうのよ、いまは」

 日はすっかり落ちて、元町商店街の飾り窓が明るく灯をともしている。

 橋を渡ると潮の匂いがしてきた。お父ちゃまは大桟橋から船に乗っていった。海はどこへでもつながっているから、お父ちゃまもこの匂いをかいで思い出しているかも知れない。胸をふくらませ、潮の香をいっぱいに吸った。由比ガ浜の海よりずっと、お父ちゃまはそばにいる気がする。

 中華街まで行く途中の道は暗い。古ぼけた煉瓦の建物が高い塀のようにつづく。母親は恵美里を間にはさみ、男と川の字で歩きたがる。ふだんならハイヤーばかりで歩かないのに。ほんとうはひと目のあるところで幸せな家族をふるまいたいのだが、明るいところへ出れば男はすっと離れ、微妙に間隔をあけてしまうから母親としては見せ場がない。

 紅いランタンの灯る中華料理屋は市場通りの奥だった。二階の部屋へ通される。すぐに前菜の大皿やビールが運ばれた。ジュースも来た。

「はい、どうぞ」

 母親が男にビールを注ぐ。

「きみもひとつ」

「あら、どうしよう。じゃあ、ちょっとだけ」

 ちょっとってなによ、家では毎晩お酒を飲んでいるくせに。

 壁に絵が一枚かかっている。暮れなずむ街を中国服の男や女が三々五々歩いている風景画だ。青と白と薄墨色だけの画面からは人の声も街の音も伝わってこない。壁に「蟹行夜話」と書かれたプレートが留めてあった。〈かいこうやわ〉と平仮名がふってある。

 恵美里の目線を追っていた母親がふしぎそうにつぶやいた。

「かいこうやわ? どういう意味かしら」

「蟹行文字というのがある。横書きをする西洋人の文字を、横歩きする蟹に例えて昔そういったんだ。そのでんで、横浜を蟹行といったりもする。その絵はつまり、横浜の宵の一刻ってことだろう」

「学者ってへんなこと知ってるのね。高彦は貝のことしか頭にないし」

「ご亭主は大学でも変わり者だよ。ブルジョアの御曹司なのに、金より貝が好きなんだから」

 男は母親を正面からながめ、

「きみ、行かなくていいのか? 奴もひとりじゃなにかと不便だろう」

「ひとり? ふふん」

「ちがうのか」

「いるわよ、現地の女が」

 ほう、と男はいった。

 真っ黒な熱い塊が喉元にせり上がる。裏切り者。おたんこなす。バカおやじ。さびしいだろうと思ってたのに。なんだい、ひとりぽっちはあたしだけか。バッカみたい。もう、帰ってくんな。

「どこ行くの。坐ってなさい」

「たいくつしてるんだよね、廊下をすこし歩いておいで」

「ほかの部屋入っちゃだめよ」

 

 喉に詰まった塊がとれない。思いきり咳払いしたが、どうしても吐き出せない。胸をどんどん叩いてみた。だめだ。なんとかしてよ。息が詰まりそうだ。苦しい、苦しい、苦しい。

 うろうろしていたら厨房に行き着いた。ものすごくうるさい。白い帽子のコックさんがたくさんいる。真っ赤な炎が燃えさかり、湯気が立ちこめる中で、大きな中華鍋が宙を舞っている。ぜんぜん分からない言葉が爆発する。喧嘩しているみたいに聞こえる。

 蟹がいた。甲羅がひし形の蟹が丸く厚い木の俎板に押さえこまれてもがいている。コックが鉈のような包丁をふり上げた。

 ドスッ、生きて暴れる蟹を真っ二つにぶった切る。

(わっ、すごい!)

 バキッ、足がもげる。

(もっと、もっと!)

 グシャッ、殻が叩き割られる。

(いいぞーっ、やれ、やれーっ、もっとやれーーっ!)

 一匹、二匹、三匹、うわおうーーーーっ!

 ぶった切られた三匹の蟹は煙のたつ巨大な中華鍋に放りこまれ、ぐわらんぐわらんゆすられて小突きまわされた。赤い汁をぶっかけれ、黒い液体を浴びせられ、めった打ちにされてばらばらになり、どさあっと大皿にぶちまけられる。最後に真っ赤な甲羅が三つ、惨殺された屍骸の頂きに載せられるまで固唾を飲んで見ていた。

(いちばん下が田舎キツネ、真ん中がバカおやじ、てっぺんがクソババア。ヒャッホー!)

 恵美里ちゃん、シンゾクサツジンって知ってる?いちばん罪が重いのよ、いつだったか母親が薄笑いしながらいった言葉がよみがえった。危ないって気づいてたか。勘がいい。

 小躍りしながら、ランランランとスキップで部屋にもどる。


「どこ行ってたのよ、ほら、蟹がきたわよ。好きでしょ」

 恵美里は座りざま、いきなり蟹の足をつかみ、ベキッとへし折ると、

「いっただっきまーす!」

 にっこり笑って喰らいついた。

「あらっ、しゃべった!」

 母親の目が、蟹のように飛びだした。


― 了 ―

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