赤に白 そして緑

 家に戻ってからも、僕はさっきの出来事が忘れられなかった。鮮明に脳裏に残る白と赤の映像。

 それは、自分が受けたパワハラとセクハラを思い出させた。僕が心から流した血の色だ。


 僕は大学を卒業するまで何も苦労をしたことがなかった。どちらかというと優等生で、友だちもそれなりにいたし、万事順調だった。会社に入るまでは。

 入社して二年半はまだよかった。それが始まったのは、業績が認められて昇進してからのことだ。とんとん拍子に出世する僕が、部長は気に入らなかったんだ。

 男女平等をかかげてのし上がった部長は、確かに仕事のできる女性だった。だけど若いころは女性だからと中々昇進できず、苦労したそうだ。今でも部長より年配の方々は、男女平等を認めない節がある。それに対する苛立ちを、僕にぶつけたんだ。

 明らかに無理な量の業務を押しつけられ、ミスをすればみんなの前で大声で叱責される。元々が優等生だった僕はだんだん劣等感の塊みたいになっていった。

 大学までの友だちには言えなかった。僕がそんな待遇を受けているなんて。勿論両親にも。

 酒にも滅法強かった部長には、いつも血反吐を吐くほど飲まされた。

 そしていつしか始まったセクハラ。飲みすぎて意識もなくなった日の翌朝。目覚めると部長とホテルにいた。そこからはペットのような扱いを受け始めた。最初の頃は影でこっそりだったのが、だんだん公然と。

 僕はプライドがズタズタに切り刻まれ、血まみれになっていった。

 そしてとうとう耐え切れずに、会社を辞めた。


 そうやって逃げ出してきた場所がここだった。しばらくは誰にも会いたくなかった。友だちにさえ。負け犬になった自分を見られたくなかったからだ。


 数日後、また雪が降った。最初は静かに舞い降りてきた雪は、次第に風をともない吹雪に変わっていった。先日の静かな雪とは違い、ゴウゴウと唸りをあげる暴風雪。

 吹きすさぶ雪は、辺り一面をまた真っ白に染めあげるだろう。

 シカの流した血。僕の流した血。それらは降り積もる雪にうずめられ、見えなくなるのだ。何事もなかったかのように。

 大自然は、生ける命の終焉も、愚かな僕の醜態も、ともに消し去り白に染める。命は食物連鎖を経ていつかまた大地に還る。醜態は、……醜態もまた、時間が経てば、超えていけるのかもしれない。





 それからの僕は、毎日雪かきと読書、雪の散歩をした。雪は降っては止み降っては止みを繰り返す。

 あの後、肉が食べられなくなるかと思ったけど、案外平気だった。だけど調理するときも口にする時も、有難く命をいただきます、と感謝する気持ちが強くなった。


 僕は嫌なことは何も考えないように過ごし、目の前に現れる雪景色と小鳥の囀りと小動物に癒されていった。

 三月になると、どんどん深くなっていた雪は少しずつ溶け始めた。雪の降らない日が増え陽射しが少しずつやわらかくなる。


 ある朝、真っ白な景色の中に、ぽつぽつと黄緑色が混じっているのに気がついた。近寄ってみると、雪の中から顔を出していたのは、フキノトウだった。新しい芽吹きは、僕に力をくれるように思えた。

 ふと見ると、木の枝にある芽も膨らんできている。

 僕は空を見上げて春が来るのを待ち遠しく思った。


 たった数か月で、と思うかもしれない。だけど、僕の心はこの数か月の雪籠りでかなり癒された。

 雪の、清らかな白さに。

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雪籠り 楠秋生 @yunikon

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