十九話 故に零れ、全てなくなる


「さあ、今日からここが君のお家だよ」


「……大きい、ですね」


 病院での出来事から二週間。

 幸いにも体調は回復へと向かい。一週間ほどで、俺は平常と変わらぬ状態まで治っていた。

 残りの一週間は親族の手続きやら何やらを行い。

 ちょうど今、それを終えたところであった。


 目の前には立派な家が建っている。

 外装がしっかりとした、清潔感のある家だ。


「あはは! そんな緊張しなくてもいいさ。何の変哲もない、ただの家なんだから」

「いや、その……はい」


 顔を伏せる。

 正直に言って、ここで生活する未来が想像できなかった。

 俺が知っているのは、あの狭い部屋だけで。まして、彼らと暮らすというのだ。

 不安である。

 本当に俺は、ここに来てよかったのだろうか。


「……うん。じゃあほら、入った入った! 孝仁君、いや、孝仁のためにもご馳走を用意したんだ」

「ご馳走、ですか? そんな、俺なんかに。……すみませ」

「おおっとぉ! 謝るのはなしだぞ。もう親子なんだ。こういうときは、な?」


 バチコーンッ、と音がしそうなウィンクをする。

 透かし考え。その意図を察し、呟いた。


「……ありがとうございます」

「イエス!!」


 親指を立て、彼はにっかりと笑う。

 それがあまりにも嬉しそうだったから。思わず、俺も顔を綻ばせた。 


 ガチャリ。


「ちょっと、男二人でいつまで家の前にいるの? もうご飯出来たんだから、早く入りなさい」

「む、すまん! 日葵ひまりの言うとおりだ」


「さ、家に入ろう」


 背中を軽く押され、前に出る。

 玄関の入り口には日葵さんの姿があり、俺を優しく見つめていた。


 二秒、三秒。

 遅まきに足が動き出す。

 入口が近づく。胸の奥がざわざわとして、落ち着かない。

 彼女の横を通り、玄関の中に入った。

 そして、傷んだ靴を脱ぎ……。


「……んぅ?」


「……へ?」


 女の子がいた。

 俺よりもずっと小さい、五歳くらいの女の子が。


 不思議そうに見つめられる。 

 首を傾げ、こてん、こてん。

 その子は日葵さんの方を向いて口を開いた。


「おかぁさん。この子、誰ぇ?」

「んもう、前から何度も言ってるでしょ? この子は孝仁君。つむぎのお兄ちゃんになる子だよ」

「おにぃ、ちゃん?」


 もう一度顔を見られる。

 最初は目をパチパチとして。

 やがて意味が分かったのか、にんまりと目を細め。


「わあああ……! おにぃちゃん、おにぃちゃん!」

「え、ちょっ」


 勢いよく抱き着かれる。 

 姿勢が崩れ、倒れかけたところで。


 ぱし。


「おっと危ない。……こら、紬。嬉しいからって、いきなり抱き着いちゃだめだぞー?」


 背を支える、彼に。

 いや、敦司あつしさんに目を向ける。

 多少の、抗議の意を込めて。


「……」

「……ん? あははは! すまんすまん。そういや言ってなかったな」


 どこか悪戯が成功したような、ワザとらしい笑い声。

 片手を離し、彼女の頭に手をのせる。

 ゆっくりと撫でられ、彼女は気持ちよさそうに顔を緩めた。


「この子は紬。俺と日葵の可愛い娘だ」

「むすめだー! かわいいー! うおー!」

「……まあ、見ての通り。どう考えても日葵似だ」


「……」


 いや、まあ、確かに顔つきは似ているが。

 このお転婆な性格は貴方似なのでは。

 疑惑は口から出ないものの、確信が胸で燻り続けた。


「そんなわけないでしょ。……ほら、ご飯冷めちゃうから、入った入った」

「はいったはいったー!」


 元気よく彼女が声を上げる。

 距離が近いので、耳がキーンとした。

 というか、一体いつまでくっついているのか。彼女もこんな俺と抱き着いて、本当は嫌なはずだ。

 今はテンションが上がって、正常な判断ができていない。

 加え彼女はまだ幼かった。

 両手で肩を掴み、優しく引き離そうとし。


「これからよろしくね! おにぃちゃん!」


「――」


 笑う。

 明るく、どんな光よりも眩く笑う。

 汚い影すら覆い尽くし。

 離すこともできず。

 俺はただ、愚昧に頷いた。


「よろしく、お願いします……」


「うん!」



 











 それからというもの、俺の人生は全く騒がしいものとなった。

 騒がしく、愉快な。 

 快い音がする、そんな毎日を送った。


 引っ越しをしたため、中学では知らぬ同級生しかおらず。

 入学早々、学校生活の終了を予期したが。

 存外そのようなことはなく、驚くほど和やかに日々は過ぎた。 

 友人関係も僅かに生まれ。

 俺は初めて、放課後に友達と遊ぶという偉業を成し遂げた。

 心の底から、楽しいと思えた。


 養父となった敦司さんとは何度も釣りに行き。

 それに嫉妬した紬ちゃんを、釣った魚で宥めるのが元宮家の恒例となった。

 きっと敦司さんが取られると思ったのだろう。彼女は決まって俺の腕を抱きしめ、動きを拘束した。

 彼女もまだまだ親離れができないようで。

 少し、温かい気持ちになった。


 養母の日葵さんからは、よく敦司さんの愚痴を聞かされた。

 と言っても険悪なものではなく。どちらかというと、惚気のような。

 自分達を大切にしすぎるとか、お人好しすぎて心配とか、そんな話。 

 料理を手伝ったときもそうだ。

 彼はこの触感が苦手だから細かくして。紬は辛いのが嫌だから、甘口にして。

 家族を想う、彼女の優し気な声色に。

 また少し、温かい気持ちになった。



 元宮家での生活は、まるで春に感じるそよ風のように柔らかく。

 笑顔に満ちたものだった。

 辛い時も、幸せな時も一緒になって。

 未来を歩んだ。


 気付けば高校生活の終盤。

 俺は人生の大きな選択を迫られていた。

 即ち、大学へ進学するか、就職するかの選択を。

 俺の意思は決まっていたが、相談しないわけにもいかない。一人で勝手に決めるなど、そんな不孝は許せなかった。


 そこで二人に相談したのだが。

 これが中々に、意見が分かれた。

 敦司さんと日葵さんは、俺に大学へ行ってほしいようだった。


「勿論、孝仁が本当に働きたいなら止めないよ。でも俺には、どうにも焦っているように見える」


「孝仁君。私達に迷惑をかけるとか、思っちゃだめよ? もう一度よく考えてみて。私達は、家族なんだから」

 

 より多くの選択肢を。

 もっと沢山の経験を。

 今までよりも、ずっと楽しい生活を。

 二人は願っていた。


 しかし、そんな二人だからこそ、俺は。


 俺は。



「私は、兄さんの好きにすればいいと思いますよ」


「働くも、進学するも、決めるのは兄さんです」


「迷うことはありません。望むように、お進みください」



 手を重ねられる。

 俯いて悩んでいた俺の、頭を撫でる。

 情けない話だ。

 小学生の義妹に慰められるなんて。兄失格どころか、人間失格である。

 これではよっぽど彼女の方が大人だ。

 情けない。情けない。


「……それに。どちらにせよ、兄さんは行ってしまいますから」


 呟くように言われた言葉。

 その真意は測りかねたが、彼女のおかげで決心はついた。


 家を出よう。

 そして、自立しなければならない。

 少しでも恩返しをするために。

 少しでも負担を減らすために。

 俺という異分子は、消えるべきだ。


 楽しかった。幸せだった。

 だがそれは、俺がいたからではない。寧ろ、俺が彼らの生活を曇らせていた。 

 俺がいなくても。否、いないほうが彼らはもっと幸せになれたはずだ。

 足を引っ張り、不必要な負債を強いた、役立たず。

 それが俺だった。


「……」


 ……違う。

 そうじゃないだろう。

 お前は、本当は。もっと何か、理由があったろう。

 彼らを言い訳にもせず。自分の過去を言い訳にもせず。

 もっと大切な、何かが。


 ……。

 

 ……ああ、そうか。


 俺は、彼らに。

 敦司さんに、日葵さんに、紬さんに。

 恩返しがしたいのだ。


 今までもらった分、全部なんて言えないが。

 少しでも返したい。彼らにもらった幸福を、ほんの少しでも大きくして返したい。


 それだけだったんだ。

 

 大層な理由も、過去もいらなかった。

 俺はずっと前から。

 あのとき、開かない扉を蹴破られてから、ずっと。


 彼らに、ありがとうが言いたかったのだ。

 



 










 結果的に言うと、俺は就職に成功した。

 元々成績は悪くなかったことに加え、念入りな面接の練習が実を結んだらしい。

 家からそう遠くはない、地方の会社だった。

 酷く、ありがたい。


 その日は全員でお祝いをした。

 テーブルを埋めるご馳走と、クラッカーの音。

 食べる前、俺は、俺自身の想い、そして、今までの感謝を伝えた。

 たどたどしく、とても面接では受からない言葉だったが。

 二人は涙ぐみながら、俺の身勝手を許してくれた。

 和やかな祝会は夜遅くまで続き。

 俺はこの日、大人になった。


 次の朝。

 眠たげな頭を振るい。

 さて、残るは一人暮らしの準備を……と思ったところで。

 どこから情報を得てきたのか、紬さんがここにした方がよい、との助言をもらった。

 実際、家賃も会社までの距離も理想的だったため。

 二つ返事で、そこのアパートに泊まることにした。


 しかし、紬さんがやけに笑顔だったような気がするが、あれは何だったのだろう。

 俺がいなくなって清々したのか。自分の意見が通って嬉しいのか。

 どうか、後者であってほしいと思う。

 彼女は確かに、小学生とは思えぬほどに聡明だが。未だに一緒に寝ようとしたり、風呂に入ろうとしたりする、甘えんぼなところもあった。

 だから、あの笑顔はそういう、無邪気なもので。

 そうであって、ほしかった。


「……」


 振り返る。

 後ろには、輝かしい過去がある。

 温かく、いつまでも浸っていたいと感じる、幸せな過去が。


 前を向いた。

 あるのは先の見えない光と影。蠢き、変化し、一瞬だって安定はしない。

 俺は恐れとともに、期待を抱いた。 

 この先どうなっていくのか、どうしていくのか。

 決めるのは自分だ。

 足は重く、そして軽い。

 矛盾した心内のまま。


 未来に向かって、俺は歩き出した。


 



 それから四年が経ち。

 分からないことだらけだった会社にも慣れ、ミスも減り。

 会社員との関係も良好で。

 このままいけば、今年中に昇進ができるとのことだった。


「……」


 道には綺麗な桜が咲いている。

 あの日と同じ、春の季節。


 俺が終わった日。

 俺が始まった日。

 温かな、春の日。


 ……いや、終わってなどいなかったのだ。

 今ならば分かる。

 俺はきっと、いらないから捨てられたんじゃない。

 

 紬さんが高校に上がると聞いたとき。

 俺は喜びと同時に、大きな心配を抱いた。

 彼女は聡明だから大丈夫だと、頭では理解していても。辛いことがあったり、悲しいことがあったりするのではないかと、毎日不安に思った。

 血の繋がらぬ俺ですらそうなのだ。

 その親である二人がどう思うかなど、考えるまでもない。


「……」


 結局、母は不安だったのだろう。

 僅かな収入源と、育っていく俺。小学校を出れば中学、そして高校へ。

 その間、彼女は俺を養っていかねばならない。

 どれだけ俺がアルバイトをしても、得られる収益などたかが知れている。

 何より母は、自分に自信がなかった。

 

 本当に俺を育てられるのか。

 育てていけるのか。あと何日続ければいいのか。


 ならば一体、いつまで。

 

「……ふぅ」


 全ては予測。

 俺が描いた、愚かな空言。

 

 ただその中で、確かなことがある。 

  

 敦司さんに聞いた、あの夜のこと。

 俺を置いて家を出た母は、すぐに電話をしたそうだ。

 荒い息と、涙声の懺悔。

 ほとんど叫ぶように吐かれたそれは、悲鳴であり、恐怖であり、後悔だった。

 

 ごめんなさい。

 許して。

 許してください。

 助けてください。

 どうか、助けてあげてください。

 

 かつての手紙を思い出す。

 くしゃくしゃになった、最後の手紙。捨てられなかった、最後の思い出。

 今年の冬、家に帰省した俺はもう一度それを読んだ。

 走り書きだったため、大人になった今でも解読には時間を要したが。

 あれは母の字だった。


 書いてあるのは謝罪、謝罪、謝罪。

 よく分からなかった番号は、兄である敦司さんの番号だったらしい。これで助けを呼べと、そういうことだったらしい。

 張られた五万円はそのまま取って置いてある。

 特に理由はない。

 何となく、使うべきでないと判断した。それだけである。


 本当に、それだけで……。


「……っと、いけない。このままじゃ遅刻するな」


 腕時計を見て、再び歩き出す。

 

 桜があまりに綺麗だったので、つい考え込んでしまった。早く出勤せねば。

 景色が過ぎ行き、今が過去へと変わっていく。

 爽やかな風が頬を撫でた。 



 






 勘違いを、していたんだ。


 会社に入って四年。できることが増えて、生活するための給料が貰えて。

 元宮さん達との関係も上手くいって。

 敦司さんとお酒を飲んで、日葵さんに怒られて。横では紬さんが、にこにこ楽しそうに笑っていて。


 もしかしたらって、思ったんだ。


 会社の皆さんと笑い合って、協力し合って。感謝して、感謝されて。

 進む先が明るく見えて。

 温かく思えて。

 

 こんな俺でも。こんな、どうしようもない俺でも。


 他の誰かに、幸せを与えられるんじゃないかって。


 希望を抱いたんだ。



 ほんと、馬鹿だよな。

 

 もう少し早く、気付くべきだった。


 お前が何かを望むとき。


 幸せを願うとき。



 決まって、お前は。









「――え?」



 動きを止めて、限界まで目を見開く。


 桜を見すぎないように、何気なく前を歩く人々を見つめて。


 その中で見つけた。


 こちらに歩いてくる、二人の男女。

 


 そんな。 


 なんで。


 なんで、貴女が。





 




「母、さん?」



 母は、知らない男と手を組んで歩いていた。

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