十八話 求め、抱える 人間らしく


 元宮夫妻は、端的に言って変わった人達だった。

 片や扉が開かないからと蹴破り、片や国の救急活動に叱責するくらいは、変であった。


 こんな価値のない己を、大事そうに抱えるくらいには。

 おかしな人達だった。


「大丈夫だ。もう、大丈夫だからね」


 朧げな意識のまま、しきりにそう言われて。

 強く手を握られて。

 あれよあれよという間に、俺は救急車へ運び込まれた。 

 

 その時のことはよく覚えていない。

 ただ、どこか騒がしかったような気がする。耳元で大きな声がして、けれど全然煩くはなくて。

 とても温かい気持ちになったことだけを、覚えている。

 意識があったのはそれまでだ。

 急激に視界が暗くなり、俺の世界は一度、そこで閉じた。


 途切れる瞬間。

 このまま消えることができれば、どんなに幸せだろうと。

 そう思った。




 次に目を覚ましたのは、真っ白の壁が夕焼けに照らされた頃だった。

 日付の感覚は酷く曖昧で。後に聞いた話では、丸一日以上寝ていたらしい。

 原因は、栄養失調と睡眠不足、加えストレス過多と水分不足。

 二つほど心当たりはなかったが、そういうことらしかった。


「……」


 未だ体は動かないため、眼球だけを彷徨わせる。

 白、白、白。

 呆れるほどに白である。他にあるのはこれまた白いベッドと、何やら腕まで伸びた透明の管。中を通る液体。

 数秒も要せずに、ここが病院だと理解した。

 俺は彼らに運ばれ、連れてこられたのだ。


 疑問が浮かぶ。 

 それはある意味、当然の疑問だった。


 彼らは一体誰なのだろう。

 どうして、俺なんぞを助けたのだろう。

 何の必要があって。何のメリットがあって。

 彼らは、俺を。


 ガラリ。


「……ん? お、おおおおっ、孝仁君! 目が覚めたかい! よかった、本当に……!」


「ぁ、ぅ」


「ああいや、起きなくていいよ! 辛いだろう? ちょっと待っててくれ、今おじさんが美味しい林檎を……」


「ぇ、ぁ」


 困惑。

 このときの感情を表すなら、それに尽きる。

 いきなり扉を開けて現れたかと思えば、笑顔で喜ばれ、矢継ぎ早に何かを言われる。

 さらに彼はごそごそと籠から果物を取り出し、皮を剥き始めた。

 出会って五秒も経たぬ内に行われたこの行動。

 必然、勢いに取り残された俺は硬直していた。

 どうしたものかと、思考を回し。


 ゴン!


「ごはぁっ!?」


「……!?」


 突如として飛来した鞄が、彼の横顔を殴りつけた。

 手に持った果物とナイフを落とさぬものの。すごい速度で首が曲がっていた。

 本当に大丈夫だろうか?


 そう思ったのも束の間、開いた入り口から底冷えのする声が聞こえた。


「アナタ……?」

「ひゃ、ひゃいっ」

「私、言ったわよね? アナタは声が大きいから、孝仁君が起きたら、静かに優しくしてって」

「あ、で、でも。ほらこれ、林檎を」

「は?」

「何でもありません」


 しくしくと泣いて、彼は部屋の隅で皮を剥き続けた。

 俺よりも二回り以上大きな体が、今だけは酷く小さく見えた。


 鬼のような形相をした女性はその様を見て、ふん、と鼻を鳴らし。

 表情を一変。

 柔らかな笑顔で俺に話しかけた。


「ごめんなさいね。あの人、煩かったでしょう? でもどうか、怖がらないであげて」

「……」


 目元が優し気に緩まる。

 俺は何となく、この人が悪い人ではないと確信した。

 その眩しさに少し、目を細め。


「あれは、ああいう病気なの」

「……」


 すん、ってなった。

 よい笑顔で吐かれた言葉に、何と返したものか。何と擁護したものか。

 それは今になっても、思いつかなかった。


「流石に酷すぎないかなぁ。……ほら、剥けたよ」

「あら、これ以上なく正確な表現だと思うけど。……ありがと。ん、しょ」


 皿に盛られた、兎を模した林檎が見える。

 その一つに爪楊枝を刺し、彼女は聞いた。


「大丈夫? どこか、具合の悪いとこはない? 林檎、食べられそう?」


「……ぁ、ぃ」


 彼女の問いに肯定する。

 本当は、別にお腹が空いたわけじゃなかった。ただ、あまりに心配そうに見つめるものだから。

 安心させたくて、嘘を吐いた。

 胸がじくりと痛む。

 誤魔化すように、小さく口を開けて。


「よかった。じゃあ、はい。あー……」

「待って。その前に水を飲ませたほうがいい。きっと喉が渇いているし、何よりいきなりは胃によくないからね」


「……!」


 色々な意味で衝撃が走る。

 どうして喉が渇いていると分かったのか、という驚きと。貴方がそれを言うとは、という驚きが。

 案の定、女性はもの凄い微妙な顔つきで彼を見ていた。


「……なら、アナタが飲ませてあげて。私、両手塞がってるし」

「うん、任された。……え、何か怒ってる?」

「怒ってない」

「あ、はい」


 またもや小さくなった彼は、いそいそと水を取り出し、キャップを緩める。

 飲み口をゆっくり此方に向け、傾けた。

 僅かに空いた口の隙間から、新鮮な水が入ってくる。

 染み渡るようだった。

 こんなに水が美味しいと思ったのは、初めてだった。


「大丈夫かいー? ゆっくりでいいからねー」

「ん、ん……」


 喉を動かし、必死に水を求める。

 一度体に入ったことでスイッチが入ったのか、飲んでも飲んでも満たされない。

 制御しきれない本能に、危険を感じ。


「おっと、一旦休憩かな。大丈夫、焦らなくていいよ。大丈夫だからね」

「ぁ、あ」

「大丈夫、大丈夫」


 優しく頭を撫でられる。

 叩かれることもなく、罵倒されることもなく。

 大丈夫と言われる。

 まだ、会って数日のこの人に。

 笑いかけられる。


「林檎はどう? まだ難しいかしら。欲しくなったら、いつでも言ってね」

「ぅ、ぁ」


 俺は無性に泣きたくなった。

 喜びと虚しさ。

 混在する感情が胸の中で暴れていた。

 大声で叫びたくもあったし。声を押し殺して噛み締めたくもあった。

 全く、気持ちの悪い衝動である。

 


 そうして、数分。

 水分と固形物を摂取したことで、幾ばくかの余裕が生まれ。

 それを見計らってか、彼が口を開いた。


「……ん、落ち着いたかな。ごめんよ、どうやら俺も焦っていたようだ。本当に、ごめん」

「ぃ、いぇ」


 緩慢に首を振る。

 まだ本調子とは言えないが、これぐらいは出来た。

 

「……違うな。すまない、そうじゃないんだ」

「……?」

「孝仁君」


 彼は俺の目を見て。


 唐突に、膝をついた。


「君と、佑香ゆうかのこと。全てに、謝らせてほしい」

「……ぇ、ぁっ?」


「本当に、すまなかった」


 頭を付ける。

 病室の床。汚いわけではないが、人が踏むそれ。

 そこに頭を付けている。

 土下座。

 彼は人間の尊厳を、投げ出していた。


「ぁ、う」

「許してくれとは言わない。これは、俺の自己満足だから」

「ち、がぅ」


 何故、貴方が謝る。

 俺には理解できなかった。

 だって、こうなったのは俺が。


「おえ、が。だめな、子、だかぁ」

「……」

「お、おぇが、もっ、と。いい子、だった、ぁ」

「……そうか」

 

 俺のせいだ。

 全部、全部。俺の不出来が両親を不幸にしてしまった。

 申し訳ない。 

 ごめんなさい。


 目から熱い何かが溢れる。

 止めどなく、零れる。


「ぅ、うぅ、ぁ……っ」

「……あの屑に責任を取らせたのが間違いだった。君に、辛い思いをさせてしまった」


 ぎゅっ。


 体を上げ、彼の手が俺の手に重なる。

 優しく、確りと握られる。

 そこには二度と離さぬという、強い意志を感じた。


「孝仁君。どうか、俺の願いを聞いてくれないか」

「……?」

「君の今後についての話だ」

「ぁ……」


 そうか。

 俺には、これからがあるのか。

 生きねばならない。


 だが、どうやって。


 俺はどうやって生きればいいのだろう。

 もう生きる理由も、価値も、ないくせに。


「君には選択肢がある。一つは施設に入り、そこで生活すること。そうすれば里親が見つかるか、独り立ちするまでは、安全に暮らせる」

「……」

「でも俺は、我儘を。この願いを、聞いてほしいと思う」

「ぇが、ぃ?」


「そうだ。身勝手で、傲慢な願いさ」


 言葉のわりに、彼の表情は緩やかであった。

 握られた手が温かい。

 包み込むような笑顔で、彼は言った。


「俺は君を、養子として迎え入れたいと思っている」


「……へ?」

「ああ、養子って分かるかな。簡単に言えば、同じ家族になるってことなんだけど」

「で、も……」


 言葉の意味は分かる。その意味も、未来も。

 だが、それは、いいのか。

 こんな俺が彼らの一員になるなど、許されるものなのだろうか。

 彼らは善良で、高潔で、緩やかだ。

 春の温かい匂いがする。

 

 壊してはならない。

 断るべきだ。

 だが。

 

「約束する。君が今まで耐えてきた辛さを、丸ごと忘れるくらい、幸せにすると」

「ぁ、う」

「……もういいんだ、自分を責めなくても。君は悪くない。君は悪い子なんかじゃない」


「だから君は、幸せになっていいんだ」


「ぁ、あ……!」


 幸せだった。

 自分が不幸だと思ったことは、一度もない。

 辛くなどなかった。

 あれが俺の日常で。嫌なことなんて、全くなかった。


 でも。

 一回だけでよかったんだ。

 たった一回だけで。

 俺は、俺は。


「今までよく、頑張ったね」

「あああぁ……っ」

 


 生まれたことを、肯定されたかった。


 

 いらない扱いじゃなくて。

 申し訳なさそうじゃなくて。


 ただ、笑って。

 抱きしめてほしかった。


「大丈夫だ。これからはもう、全部大丈夫だ」

「ぅぅ、ぁああ、あああああっ」


 体を包む温かさに。

 しきりに言われる、大丈夫という言葉に。

 俺は救われた。

 目から流れる液体を拭うことなく。

 意識が途切れるまで、何かを吐き出し続けた。


 十二歳の春。

 俺はこの日、伊藤ではなくなり。

 元宮になった。














 思えばこれが、最初の過ちだった。


 身分不相応の幸せを願って。

 温かさに目が眩んで、その手を掴んだ。

 

 愚かな話だ。


 本当に、どうしようもない。


 俺はどこまで行っても、罪人だった。

 

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