カラフル

@oborodesu

カラフル

「私がこの写真を選んだのは、なんだかカラフルな感じがして、好きだと思ったからです。」

 そう言って彼女が示す写真は、植田正治の《パパとママと子供たち》——モノクロ写真であった。それは白と黒だけの、色のない写真なのだが。

 けれど彼女がその写真を「カラフル」と形容したのを聞いたとき、私はひどく腑に落ちてしまった。そうか——「カラフル」か。これ以上にこの写真の魅力を形容する言葉は、私には分からない。


 女子中学校で教師をしている私は、彼女らの有り余るほどの元気の良さを前に、毎日、怯えながら生きている。別に彼女らが嫌いなわけではないし、彼女らも私に敵意なんて、きっと持っていないとは思うのだが、流石は箸が転んでも可笑しい年頃という風で、隙あらば周りの子とおしゃべり、廊下を移動するだけでも、もう大騒ぎだ。セーラー服の裾をはためかせながら、パタパタと走っていく。私は、そんな華々しい彼女らのことを、どこか別世界の住人のように思うことしか出来ないでいた。


 ——ある日のこと、私は隣のクラスで国語の授業をしていた。その日の授業は、好きな絵を一枚を選んで、なぜその絵が良いと感じたのか、理由を書いて発表してみよう、というものだった。このクラスは思いのほか授業が早く進んでしまって、他のクラスとの進度を合わせるために、今日だけ普段の国語の授業とは少し違う、教科書巻末の方にあるちょっと息抜き的なページを扱うことになったのだった。教科書のそのページには、天使の描かれた宗教画から、シュルレアリスムのダリ、果ては雪舟の山水画まで、様々な絵画が十枚ほど掲載されていた。

 その中の一枚に、植田正治の《パパとママと子供たち》があった。私とて格段美術に造詣が深いわけではなかったが、小さい頃、カメラ好きの叔父がよく写真集を見せてくれて、それでなんとなく知っていた。——真っ白い背景の中に、お父さん、奥さん、そして子供たちが、ちょこん、ちょこんと立っているその写真は、まるでスタジオで撮ったかのように見えるが、彼の地元の鳥取砂丘の白い砂浜の上で撮ったものらしい。それがなんだか非現実的な世界のように感じられて、ちょっと面白くて、それで私の記憶の片隅に残っていた。

 けれど、彼女らにとって絵画は興味のあるものとも思えなかったし、それに自分の考えを書いて発表する授業となると、いつもとは打って変わって、みんな大人しくなってしまうのが通例だった。だから正直、あまりこの授業をやることに気乗りはしなかったのだが、しかし他に代替案も見当たらず、半ば仕方なく、私はその授業に臨んでいた。


 案の定、その授業中、大部分の子は飽き飽きした様子で授業を受けていた。教室をいくつかの班に分けて、お互いの意見を交換しながら取り組んでもらったので、すごくやりづらい空間ではなかったと思うのだけれど、その時間のあいだ、大体は周りの子と関係のないおしゃべりにふけったり、さらには仮眠を取っているような子もちらほら見えた。どうせテスト範囲外だし適当に済ませよう、くらいに思っている子が多いらしかった。まあ実際その通りだったし、部活や塾で疲れている子は寝かせてあげた方がいいと思って、私はそのまま、淡々と時間が過ぎるのを待っていた。

 ——授業を聞いてくれない生徒に対して、イライラするということはない。ただ生徒からの反応がもらえないと、きちんと伝わるように説明できているのかどうか分からないから、私としては不安で、授業をすることに自信も持てなくて、それが彼女らに引け目を感じてしまう原因の一つでもあった。

 もうちょっとテストが近い時期であれば、自習にしたんだけどな、いや、別にテスト前でなくとも、自習で良かったかもしれないな……?ああ、なんで今更それを思いつくんだろう、などと悔やんでいると、気付けばあと十分で授業が終わる頃になっていて、もう後戻りもできないし、いよいよ、班から一人ずつ代表を決めて発表していってもらうことにした。

 みんな、小さな声で——最低限、周りに聞こえるだけの声量で、自分の書いたものを読み上げていった。そう、それでいい。どんなに少なくても、適当な事しか書いてなくても、今は読み上げてくれさえしたら、それでいいから。心の中ではそんな懇願をしながら、私は彼女らの言葉に頷いたり、小さく相槌を打ったりして、淡々と進めていった。


 ——残りの班も少なくなってきたときだった。瑞樹みずきという生徒の番になった。彼女は、この賑やかすぎるクラスにおいては大人しい方で、私が授業をするときも、いつも頷きながら聞いてくれる、教師の私としては非常にありがたい生徒だった。

 周りの子たちが、美しい女性が描かれた絵画や、天使が描かれた綺麗な作品ばかりを選ぶ中、瑞樹は《パパとママと子供たち》を選んでいた。

「私がこの写真を選んだのは、なんだかカラフルな感じがして、好きだと思ったからです。この写真に色は無いけれど、映っている人たちのサイズがあべこべだったり、みんな笑顔で楽しそうにしているのが、なんだか小っちゃい子が描いた絵をそのまま写真にしたみたいで、楽しい写真だなあと思いました。この写真をカラーで復元したら、きっと積み木のおもちゃの色みたいな、カラフルな写真になると思います。」

 彼女の声も決して大きいわけではないが、はきはきと、自信のある声でそれを読み上げた。私は相槌を打つのも忘れて、彼女の発表を聞いていた。

 ——今まで私はこの写真を、なんとなく好きだな、としか思っていなかった。けれど、私が感じていたあの写真の魅力、それを彼女は的確に、言葉にして言い表してくれた。すごいな。純粋に、感動していた。すごく素敵だと思った。彼女はいい言葉を持っている。嬉しくて、正直、次の班からの子たちの言った内容は、あまり耳に入ってこなかった。


 教室から職員室までの帰り道を、浮足立って歩いていた。そうなんだよな、あの写真は子ども時代の遊びみたいな、懐かしさと楽しさがあって、だから見ていてなんだか楽しくなるのだ。

 私は、自分の味方がいなかった世界の中に、勝手に理解者を見つけた気になって、晴れ晴れとした気持ちで廊下を進んでいた。するとその時、誰かが自分の名前を呼ぶのが聞こえた。

「あ、堺先生!」

「はい!」 

 急に名前を呼ばれて、思わずいつもより威勢の良い返事になってしまった。にっこりして私の方に近寄ってくるのは、隣のクラスの安東先生だった。私よりいくつか年が上で、信頼されていて、バリバリ仕事をこなす社会科の先生。ちょうど今私が授業をしてきたクラスの担任だった。

「なんだかうれしそうですね、何かあったんですか?」

 そう言って安東先生は、私の抱えている、さっきの授業で使ったプリントをのぞき込んできた。私は待ってましたと言わんばかりに、さっきの出来事を話した。

「へえ、モノクロ写真なのにカラフル、ですか……。」

「そうなんですよ、あまりにもこの写真にぴったりな表現をしたから、一人で感動しちゃって。」

「先生凄いですね、私、芸術品の良さがさっぱりわからなくて。」

 ——私はてっきり「その表現素敵ですね!」とか、そんな風に言ってくれると思っていた。しかし安東先生は、それこそ美術品でも眺めるような目で、まじまじと私のことを見てきた。

「え?いや、私も、なんとなく面白いなあ、カッコいいなあとか思うくらいですよ。」

「いやいや、それが凄いんですよ!私なんて歴史の教科書に出てくる名画の名前を知ってる、とかそのくらいで、絵そのものを見ても良さが全く分からないんですから。やっぱり才能がないと分からないんだなあ、って……あ、授業始まっちゃいそうなのでこれで失礼します!」

 そう言って、安東先生は足早に去っていってしまった。——才能、それは、少し違うんじゃないだろうか。私だって、この世の作品全てに感動するわけではない。たまたまそのカッコよさに気づいた作品がいくつかあるだけだ——なんだか、隔絶されてしまった気分になって、悲しかった。

 安東先生の言うように、「芸術品の良さが分かる才能」みたいなものがこの世にあるとして、それがないと理解できないみたいな、そんな選ばれた人にしかできないとか、そんなことではない——と私は思うのだが。

 安東先生にとっては、セーラー服の彼女たちよりずっと、私の存在の方が、別世界の人間のように見えているのかもしれない。


 その日の放課後、私はやり切れない感情を抱えながら、図書室を訪れていた。目当ての書籍は見つかったのだが、なんとなくもう少し長居したい気持ちになって、私はあてどもなく書架の合間をぐるぐると歩いていた。画集や図鑑が置いてある棚の前を通りかかったとき、そこで一冊の本を開いて眺めている生徒を見つけた。——例の瑞樹という生徒だった。「あ」と目があったので、せっかくだから話しかけてみることにした。

「何読んでるの?」

「今日の授業に出てきた写真の……」

「あ、植田正治の写真集だ——好きなの?」

「んー、なんとなく知ってたってくらいです。ちゃんと見たことなかったから、せっかくだし作品集で他のも見てみたいな―って。」

「それはいいね。」

 瑞樹は写真集のページを繰っていく。例の《パパとママと子供たち》のページが開かれた。

「瑞樹さんの発表、良かったよ。この写真の魅力を自分の言葉で言い表せてて、それってすごいことだよ。」

 瑞樹は得意げにふふ、と笑って「ありがとうございます」と答えた。

「この写真が好きな理由、もう一個あるんです。」

「へえ、どんな?」

「この写真は色がないから、なんとなくこの傘は何色、服の色は何色って、勝手に想像して見ちゃうじゃないですか。それが人によってみんな違って見えてて、面白いんですよ。」

 なるほど、意識していなかったから気づかなかったな。でも確かに、この写真を見るときは、勝手に色を想像しながら見ていたような気がする。

「そっか、私はこの傘は赤色だと思ってたけど——」

「私も赤だと思って見てました。でも友達は紺色だと思った、って言ってて、確かにそれもありそうって。」

「なるほどね、じゃあこの奥さんの着物の色は?」

「紫色。先生は?」

「あー、深い緑だと思ってたかな。」

「じゃあこの女の子の服は?」「水色?」「え-ピンクでしょ!」

 そうやって、私と瑞樹は色の当てっこをしながら、しばし盛り上がっていた。「モノクロ写真だからできる遊びだね。」

「そうですね、なんか塗り絵みたい。」

「塗り絵?」

「塗り絵って、ここを何色に塗る、みたいな正解がないから、みんな違う色で塗るじゃないですか。だからみんなそれぞれ、全然違う絵になる。私はそれでみんながどんな色で塗ったのか見るの、好きだったんですよね。この写真の見方も、きっと正解なんてなくて、塗り絵みたいに自分の好きな色で想像していいんじゃないかなって。」

 ——瑞樹の言う通りだと思った。彼女の言葉を聞いて、そのとき抱えていた私の中のモヤモヤが、すっと退いていくのを感じた。

「——いいこと言うね。」

 そう言うと、瑞樹はまた得意げな表情を浮かべる。そうだ。正解なんて、無くていい。仮にあの傘の色が、実際には赤でも紺色でもなくて、黒とか何か別の色だったとしても、私たちは赤に見たっていいし、紺色に見たっていいと思う。絵の見方なんて、きっとそんなことでいいんだ。難しいなんて思わないで、正解かどうかなんて気にしないで、もっと自分の自由な想像に委ねて、それを楽しんでほしい、と私は思う。

 私は、あなたの眼にどう映ったのかを知りたい。あなたには何色に見えたのか、それを聞かせてほしい。

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