湘南幻燈夜話 第四話「たそがれ」

湘南幻燈夜話 第四話「たそがれ」

 高い石塀の角を曲がったとたん、ジャッと音を立てて伸二は自転車を急停止させた。

袋小路だった。

砂利道の突当りに無明の外灯が一本立っている。

 「行き止まりか……まいったな」

ふうっと息をついた。

と、それが合図だったかのように外灯に明かりがともった。

ゆがんだアルミの笠をのせた電球はぼんやりと黄味をおびて、三方を高い石塀に囲まれた袋小路の薄暗さをかえって際立たせた。

時計を見ると五時十七分、聡の家を出てからもう二十分ちかくたっていた。初秋の日はすでに傾いている。

こんなわけの分からないところで行き暮れるのはごめんだ。急いで自転車の向きを変え、いま来たばかりの道を引きかえした。日暮れまえの、妙にしんとした一刻だった。

(おれって、ほんと、方向音痴だなあ)

 子供のころから伸二はよく道に迷った。

もともと方向感覚がにぶいのだが、ほかのことに気を取られて上の空になると、とんでもない方角へ行ってもどれなくなることがあった。まして今日の伸二は極めつけの上の空だったのだ。

鵠沼くげぬまの聡の家で二年後に迫った大学受験の勉強をするはずが、

「ウッゲーーーッ!」

  伸二は奇声を上げた。

「な、ふふ、すげえだろー?」

 にやにや笑う聡にそのものずばりの写真を見せられて、もう勉強どころではなくなった。

「見たことあっか、こんなの」

 折り目だらけのポルノ写真を三枚ひらひらと目のまえにかざし、聡は伸二の脇腹をこづいた。

「兄貴がよ、靴の中敷のそのまた下に、左右三枚づつ隠してきたんだ」

 聡の兄は八月末にスイス留学を終えて帰国し、いまは母校の研究室にいる。

「ほんとは一冊丸ごと持ってきたかったけど、さきに帰った先輩が税関で見つかってしぼられたんで、いちばんエグイやつを六枚だけ破いてきたんだって。度胸ねえよなあ」

 ゴクリと音がするほど生つばを飲み、伸二は写真を指さした。

「でも、なんか折り目ばっかだな。あー、ここ、この肝心なとこがさ、かすれてるじゃん」

「文句あるなら見んな」

「ありませんっ」

米つきバッタより平伏して伸二は聡を拝んだ。

「ひとッことたりとも文句なんかございません。恩に着ます。見せてください! ところで六枚もってきたんだろ?残りの三枚はよ?」

「教授や諸先輩に一枚ずつ土産代りにしたって」

「ちぇっ」

  四時間後、伸二はすっかりふやけた頭でサドルにまたがった。

  白く豊満な女と漆黒の肌をした男のからみあうさまが目のまえにちらついて股がつっぱり、ペダルを踏む足元もおぼつかない。女のなかに半分埋もれたぬれぬれ光る男のモノや巨大な乳房とサクランボほどの乳首がくっきりと網膜に焼きついたままだ。女の髪は豊かに波うつ金色だった。レンズの向こうの視線に挑戦するような不敵なまなざしで、荒い息を吐くふたりの少年を挑発した。教室ですばやく回覧される日本の猥本や写真とは衝撃の度合いがちがった。残りの三枚はもっとエグかったろう。体中が熱をおびて発火しそうだ。肩から上はどこかに置き忘れたまま、伸二はペダルをこぎつづけた。そして…、

気がついたときはさみしい袋小路に迷いこんでいたのだ。


引きかえして四辻までもどったが、そこで立ち往生した。

鵠沼は古い別荘地だ。どちらを向いても鬱蒼と樹木が生い茂り、高い塀に守られた広大な敷地の奥に屋根の一部が垣間見えるだけだった。門灯はついていても無住の邸宅が多く、周辺に明かりのもれる家はない。

伸二は途方にくれた。だれかに道をきこうにもひとっ子ひとり見あたらない黄昏時だった。《誰そ彼》という言葉が浮かんだ。向うから来るおぼろな影がなにものか判然としない夕暮れ時を表す古語だったはずだ。

(逢魔が時ともいうんじゃなかったかな)

 宵闇の気配がただよいはじめた四辻を見わたし、

(魔物に逢う時刻か……やだな)

 海に近いこのあたりにはどんな魔物が出るのだろう。

海坊主か、生臭い魚の化け物か。どっちにしても、わけの分からないものとの遭遇はかんべんしてほしい。

しだいに心細くなった伸二は聡の家へ引きかえそうかとためらった。でも、鵠沼で迷うのはこれがはじめてではない。まえにも迷って引きかえし、聡に脳タリンよばわりされながら海沿いの国道まで連れていってもらった。みっともなくてもう頼めない。

(ま、いいさ。なんとかなるさ)

 気をとりなおし、ペダルに足をかけた。

 平静なふりで自分をごまかしたが、すでに聡の家にさえもどれないほど迷ってしまったのをうすうす気づいていた。

四辻を右折した。やみくもに走るから迷うので、こんどは右、つぎは左、と行ってみよう。たとえまた行き止まってもそのほうが来た道筋をたどりやすい。同じように区画割された一帯はどこも似たような辻ばかりなのだ。

(特徴がないんだよなあ。とにかく海へ出よう、そこまで行けば楽勝だ)

 潮の香をもとめて大きく息を吸った。

 だが、初秋の乾いた大気には土と落葉の香がするばかりだった。空一面のうろこ雲を紅く染めていた夕日も彼方に沈み、夜の帳は静かに下界へ降りようとしていた。


 ライトをつけ、伸二はすっかり暗くなった住宅街を疾走した。

焦燥感は頂点に達している。むきだしの首筋が寒い。寸暇も惜しいが自転車を停止させ、せわしくパーカーのフードをかぶった。

(いったい、どうしたんだ……)

 ハンドルを握る手だけが冷たく汗ばんでいた。

 あれからさらに三回、行く手を阻まれた。走っても、走っても、どこにも出られない。ただ同じところをぐるぐると回っているだけの気がした。伸二は、うわあっ、と叫びたい衝動にかられた。

(おちつけ、おちつけ、おちつけ)

恐怖の発作を下腹に押しこみ、ぐんっとペダルを踏んだ。

すでに通過した気のする辻を曲がったときだった。伸二は急ブレーキをかけた。

 明るい。

光の源は左手だ。雑然と生えた庭木の間から、暗がりになれた目には眩しいほどの明かりが伸二のいるところまで射している。低い鉄柵に囲まれた敷地のかなり奥まったところに家はあるらしい。

(ここはさっき通ったみたいだけど、気がつかなかったな)

 そのときは明かりが消えていたのだろうと考えた。

 錆びた鉄柵の内側に大小の木箱がいくつも乱雑に積みかさねてある。ひしゃげたセメント袋やゴミ袋のようなものもあった。どこか雑然としたようすから、たぶんここは建物の裏手だろうと見当をつけた。ということは、あれは勝手口の明かりかもしれない。きっとだれかいるはずだ。ここで道をきかなければもうあとはない。

鉄柵に自転車を立てかけ、柵と同じ高さの低い鉄扉を押してみた。扉は音もなく開いた。

「ええと、失礼します」

 だれにともなくつぶやいて柵のなかに足を踏みいれた。

 入ってすぐ、積み上げられた木箱の陰に空の犬小屋を見つけたときは心臓が口から飛びだしかけた。犬を放し飼いにしているからこんなに無用心なのか。おそるおそる庭の暗がりをうかがった。しばらく動かずにいた。どこにも犬の気配はない。しだいに動悸はおさまった。

気を鎮めてよく見ると犬小屋はすでに朽ちかけていた。鎖は半ば土に埋もれて錆びつき、地べたに放置された餌入れに汚れた水がたまっている。かつては犬が飼われていたが、いまはもういないのはたしかだ。伸二は明るい光のもれる家の方角へ大股に進んだ。

 近づくにつれ、肉の焼けるたまらない匂いが鼻腔をくすぐった。

(やっぱり、あそこは勝手口か。ああ、腹へったぁ)

ほっと安心したらにわかに空腹をおぼえた。

勝手口の扉はがっしりと厚い木製で上部に十センチ四方の小窓がついている。小窓には透きガラスがはめられていた。全体は夜の闇に沈み大きさも定かでない屋敷だが、明かりがもれているのはこの小窓だけだった。

(変だな……)

伸二はいぶかった。

さっき見た眩い光の源にしてはこの窓は小さすぎる。もれてくる明かりもいまでは伸二の足元をおぼろげに照らすだけだ。猛スピードの自転車を止めた光源は、いったいなんだったのだろう。

扉を叩こうとしてためらい、伸二は小窓に顔をよせた。

 内側はすぐに台所だと思ったが、そこは意外に広々としたリノリウム敷きの空間だった。空間のさきにもう一枚、木の戸があった。戸は伸二が立っている外の扉とちがい、上部三分の一が灰色の曇りガラスだ。曇りガラスの向こうは煌々と明るい。そこが台所らしかった。

曇りガラス戸のまえに男の子がいた。

閉じた戸にしがみついて、後ろを向いている。

男の子は白い長袖シャツに吊り紐つきの黒い半ズボン、白ソックスに黒のエナメル靴をはいていた。必死に爪先立ち、なんとかして中を見ようと一生懸命なのだが、戸の半分もない背丈ではたとえガラスが透明でも容易に中は見えないだろう。それでも男の子は伸びあがり、そのたびに小さな体は不安定にゆれた。

その時だ。曇りガラスの向うを影が横切った。男の子はぴょんぴょん跳ねた。

と、また影が横切る。さっきは右から左、こんどは左から右に動いた。男の子の興奮ぶりは激しく、影の移動する方へ方へと黒いおかっぱの頭をふりたてた。小さな手はかりかりとガラスをかいた。

伸二はガラスに映った影が女なのを見てほほえましくなった。男の子の母親にちがいない。長い巻き毛をゆらして歩く女はふっくらとした体つきだ。夕食の準備なのだろう、せわしく台所を行き来している。いたずらでもしたのか、男の子は台所から閉めだされたようだ。

 また、女が曇りガラスの向こうを横切った。たまらなくなった男の子は甘えた鼻声をもらし、小さな足で地団太を踏んだ。

と、伸二は奇妙な感覚にとらわれた。

影絵の女は盛り上がった大きな胸をゆらして動いているが、曇りガラス越しでも乳房の先端までくっきりとわかる。乳首はサクランボほどもあった。

(裸?)

 くらっとなった。

裸体の輪郭に見覚えがあった。聡と食い入るように見た写真の女にそっくりだった。

得体の知れぬ恐怖が伸二を襲った。

 女の影が通るたびに、男の子の反応はますます激しく、猛々しくなった。ガラスをかき、こぶしで戸を打ち、きゅうきゅうと甘えた声を出した。その声がまるで飼い主に甘える犬の鳴き声に聞こえ、伸二は思わずうしろをふりむいた。だが、背後は月もない夜の闇だ。

伸二は台所の曇りガラス戸に目をもどした。

 犬がいた。

 漆黒の犬だ。さっきまで男の子のいたところに後足で立っている。戸にかけた前足で体を支え、かりかりと曇りガラスの下部に爪をたてた。きゅうきゅう鼻を鳴らし、激しく腰をゆすりながら地団太を踏んでいる。後脚のさきだけがソックスをはいたように白い。

 犬がふりむいた。

赤く裂けた口から剥きだした牙が白く光った。黒い舌をだらりとたらし、ハアハアと喘いでいる。ねばっこい唾液がリノリウムの床に糸を引いて落ちた。犬の股間から、ぬれぬれと光る深紅色の性器がまっすぐに突きでていた。

― グルルウ……

犬は伸二を威嚇した。

つぎの瞬間、伸二は身をひるがえし、闇の庭を無我夢中で走った。


伸二は人の行き交う夕暮れの鵠沼商店街にいた。

いったいどうやってここまで来たのかまるでおぼえがない。自転車にまたがったまま呆然としていた。ちょうど江ノ電が着いたところらしく駅舎の方からひとが流れてくる。夕食の買い物に忙しい主婦のとがめるような視線を感じて、伸二はあわてて自転車を歩道の端へよけた。

(おれは、いったい……いままでなにをして……)

 商店街の両側に並ぶすずらん灯がそのときいっせいに灯をともした。

伸二は腕時計を見た。五時十七分だった。

(うそだろう……)

 目のまえが陽炎のようにゆらいだ。

(だって、あの袋小路に迷いこんで、時計をみたのが五時十七分……)


 あの日の出来事を、伸二はだれにも、聡にも、話していない。

ふりむいた犬の目が人間の目だったこと、それが己の目だったことを、絶対に、だれにも、知られてはいけない。


― 了 ―

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