湘南幻燈夜話 第三話「秘薬」

湘南幻燈夜話 第三話「秘薬」

 夕食がすんでテレビを観ているときだった。

「……あれ、なんだろね、なんか、変に寒い……」

そういうなり、

「ちょっと、 ふうぅ、横になるわ」

荒い息を吐きながら、母親は階段を四つんばいで上っていった。

どんなときもおしゃべりな母親がいやに静かだと思った矢先だ。はじまったな、と久美子はあわてない。母親の不安発作にはなれっこだった。発作はいつでも起きたが、病院の診療が終わった時刻や日曜祝祭日が多かった。閉まっている、間にあわない、そういう負の材料で頭をいっぱいにし、やがて居ても立ってもいられなくなるのだ。医者からもらった頓服の安定剤は欠かさず手元においている。

 頓服を飲んで落ちついたころを見はからい、久美子は様子を見にいった。

「どう?」

頭まで蒲団をかぶった母親に声をかける。

「熱が、ね、ふうぅ、あるみたい……さむ、い……」

熟れ過ぎのホウズキのように赤い顔をのぞかせた。

  額いちめん汗の玉が浮き、しがみついた蒲団ごとふるえている。

その夜はじめて、救急車のお世話になった。

熱と悪寒と不安でブルブルふるえる母親は急性腎盂炎と診断され、そのまま入院した。

夜間救急室の看護婦さんは病室までついてきた。兜のようなナースキャップには二本の黒線がついている。婦長さんなのだろう。えらくても夜勤するんだな、と久美子は思った。

「もう、だいじょぶ、だいじょぶよ。なにも心配することないの。さ、横になって。お熱を下げる点滴しますからね、朝までぐっすりお休みなさい。あ、あなたもそこの空いてるベッドで横になったら? いいのよ、気にしないで」

しずかな落ち着いた声で病人と久美子に代わる代わる話しかけた。

運ばれてきた点滴をすばやく準備をしながらも動作はしなやかで、おっと りとした声は丸く、 もの言いはやわらかい。

救急車で搬送されるという非常事態に動転している患者や家族は、このひとのおかげでどれほど安堵し、救われるだろう。このひとの夜勤に当たった幸運を感謝せずにいられない。

ほっこりと毛布をかけられた母親はにわかに緊張のタガがゆるんだらしく、またたくまに眠ってしまった。

「だいじょうぶよ、先生もそうおっしゃったでしょ。すぐに退院できるわ。 あなたもたいへんだったわね。点滴はときどき見にきますから心配しないで、ちょっと寝たほうがいいですよ」

久美子はうなずきながら、

(婦長さんっておっかないオバンが相場かと思ってたけど、ずいぶん親切で 働きものだな)

「すみません、お世話になります」

いいつつ、あらためて白衣のひとをながめた。

頭髪はいくぶん白髪まじりだ。色白のうりざね顔にすっきり通る鼻筋、微笑をたやさない目尻や口元には白髪に相応の浅いしわがある。四十代後半らしいが、すらりとした体形と動きのある表情は若々しかった。白髪を染めれば三十代でじゅうぶん通用する。

木枯らしが病室の窓をかたかたと鳴らす初冬の夜更け、これが久美子たちと婦長の片桐さんとの出会いだった。


救急車で運ばれ入院してからというもの、味をしめたかのように母親は入退院をくりかえした。不安発作、突発性ジンマシン、過換気、動悸、発熱、悪寒、腹痛、嘔吐、病的根拠のないあらゆる症状を呈し、自律神経の失調をのこらず披露した。当初は救急車、じきにハイヤー会社のお得意になった。

大正期に結核サナトリウムだった病院は北鎌倉の山ノ内やまのうちにある。高台なので海が見え閑静だが、車の免許をもたない久美子にして見れば極楽寺ごくらくじの家からは江ノ電、横須賀線、あるいはバスと乗りついで行かねばならない。下着の替えやあれこれをまとめればけっこうな荷物になる。結果としてハイヤー代はかさむ一方だった。

緊急入院すると、母親は片桐さんがきてくれるのを待ちかね、

「カァタァギリさぁーん、またなのぉ、また入院になっちゃったのよぅ」

 なにが、また、なのか。

帰っていいといわれてもむりやり入院したくせに、甘えた口調で訴える。

「あらあら、かわいそ、かわいそ。びっくりしたのよね、だいじょぶよ、だいじょぶよ」

 しっとりとあたたかな声音で、片桐さんは病人とはいえない入院患者をなぐさめた。

 ひんぱんなインチキ入院騒ぎにうんざりした久美子が、

「いいかげんにしろといってやってよ、片桐さん。わたしだってそうそう勤めを休めないわ。甘ったれてんのよ。このひとはね、やさしくかまわれるのが大好きなのよ。手近で利用できそうなひとならだれだろうとこき使うんだから」

「まあまあ、このひとなんていわないの。お母さんだってつらいのよ」

 片桐さんは久美子をたしなめ、ベッドにもぐりこんだ母親は、こすからいネズミのようにうるんだ眼をしばたたいた。

片桐さんはじつにやさしいひとだった。そのやさしさは、このひとには絶対に拒まれないと思わせるたぐいの、どんな甘えも許してくれそうな、見返りなどまるで求めない母性に根ざしたもののようだ。片桐さんが母親だったらよかったなと久美子は思った。子どもは何人いるのかなと考えたりした。

 だが、片桐さんに子どもはなかった。

美人の産地で知られた東北の地で開業医の奥さんだったとは、大金棒引きの母親がほかの入院患者たちから聞きこんだ情報だ。病気じゃないから日がな一日院内をうろつきまわり、噂話の仕入れにいそしんでいる。

「子どもができなくてね、そのうち旦那が若い看護婦をはらませてさ、それで別れたんだって。旦那は別れたくなかったのに、子どもがかわいそうだからって自分から出たっていうのが片桐さんらしいじゃないの」

結婚まえはそこで看護婦として働いていたから仕事には困らない。

別れた夫も罪悪感からなにかと手を貸そうとするものの、医者の妻だったものがよその病院でふたたび看護婦で働くには田舎は口さがなすぎた。片桐さんは子どものようにかわいがっていた猫を抱いて故郷をあとにする。三十五歳のときだったそうだ。鎌倉に来るまでいくつかの病院で働いたが、きれいだし、やさしいしで、どこでも患者たちの人気は絶大だった。だれにでも親身な片桐さんのやさしさは、どんな薬より効き目があった。仕事ができて骨惜しみをしないので院長にもかわいがられる。

「だからさ、看護婦仲間のいじめもそうとうだったらしいわ。ここは長いほうで、もう四年だって」

 それから声をひそめ、

「生活の面倒は一生みるから働いてくれるなって旦那にいわれたらしいわ。体面あるもんねえ。あたしなら大喜びで買い物三昧、遊んで暮らすのに。なんで働きたいのかしら。へんなの」

「ひとりでいるのがいやなんじゃない、働いてれば気もまぎれるし」

 こころやさしく面倒見のよい片桐さんには看護婦は天職にちがいなかった。


片桐さんとの縁はそれからもつづいた。

だがそれは病院の中だけのものだったから、そろそろ七月という週末の昼近くに、バイクに乗った片桐さんが極楽寺の家に姿を見せたときはちょっと驚いた。

「さわやかで気持ちいいわねえ。江ノ島まで行ってきたわ」

 魚市場で飼い猫に食べさせる魚を買ってきたのだそうだ。

「甘やかしすぎちゃった。缶詰も袋入りの乾いた餌もたべないのよねえ。おばあちゃん猫だから目いっぱいわがままさせてるの」

 いつでもどうぞ、ぜひぜひ遊びにきて、と地図まで描いて押しつけていたので、庭のしおり戸から姿を見せた片桐さんに大喜びの母親は、

「まっ、ままっ、片桐さん、よっく来てくれたわねえ。ちょうどお昼に出前をとろうって話してたのよ。ね、なにがいいかしら? お寿司か、鰻か、天丼とか。ねえ、なにがいい?」

  薬缶が沸きたつように興奮して騒ぎたてた。

片桐さんは首をふって、

「どうぞ、おかまいなく。おふたりのお顔を拝見にきただけなの。お元気そうでよかった。さてと、にゃんこちゃんが待ってるからもう帰らなくちゃ」

せめてお茶だけでもとねばる母親に負けた片桐さんは、ヘルメットと白いウインド・ブレーカーを脱いで縁側に腰をおろした。

私服の片桐さんを初めてみた久美子は目をみはった。空色のセーターの胸は豊かに盛りあがり、白いパンタロンにつつまれた腰から臀部、太腿にかけて熟れた桃のかたちにむっちりと肉がついている。病院のゆるい白衣姿からは想像もつかない豊満な体つきだった。着やせもするたちだろう。この間まで胡麻塩だった片桐さんの髪は、明るい栗色に染められていた。

 菓子を口にして緑茶を飲みおえると、片桐さんはごちそうさまと立ちあがった。

「さ、もう失礼するわね。にゃんこが待ちくたびれてるわ。あ、そうだ」

 思い出したように久美子に目をむけ、

「ねえ、久美子さん、宝塚、行かない?」

「え?」

「ベルサイユのばらっていうの評判みたいよ」

「へえ、片桐さんがヅカファンとは知らなかったわ」

「ううん、そうじゃないけど。わたしね……なにか、なにかきれいなものが見たいの」

唐突な誘いにとまどっていると、

「いいの、いいの、気がむいたらごいっしょしましょうよ。さてさて、ほんとにもう失礼しなくちゃ」

 片桐さんは帰っていった。

母親といっしょに門の外まで見送りながら、久美子は片桐さんの誘いをあいまいに拒んだ自分にうしろめたさをおぼえていた。病院でさんざ世話になりながら、片桐さんが望んだときにはすこしも親身にならなかった。母親も同じ気持ちだったらしく、

「つきあってあげたらよかったのに」

  不服そうにいった。

「さみしんじゃないの。猫じゃねえ、話し相手にもならないだろうし」

「こんどの休みにでもいっしょに行こうかな」

「そうよ、そうしたら? 来週さ、病院行ったら片桐さんにそういっとくわ。片桐さんの分もあなたが払いなさいね」

  母親はすっかりはりきっている。

  ちゃっかりしたものだが、久美子はべつのことに気をとられていた。

「ねえ、片桐さん、猫の餌にする魚って持ってた?」

「さかな? 気がつかなかったけど。なんでよ」

「ポシェットを肩にかけただけで手ぶらだったみたいだから」

「生臭いからバイクのカゴに入れてたんじゃないの」

  バイクの前カゴは空だったので変な気がしたのだが、それもすぐに忘れてしまった。


 週があけて水曜日の夜、帰宅した久美子が玄関を開けたとたんに、

「ねねっ、ちょっと、ちょっと、大変よ!」

  待ちかねていたらしい母親が奥から飛びだしてきた。

「なによ、びっくりするじゃない。どうしたのさ」

「死んじゃったんだって」

「えっ、 だれが?」

「片桐さんよ」

  火に油をそそいだごとく一気に燃えあがった母親は、病院やその周辺の知りあいから集めた情報をさっそく披露した。

数ヵ月まえに片桐さんのかわいがっていた猫が老衰で死んだ。婚家先を出たときからずっといっしょに暮らしてきた猫だ。片桐さんはすっかり気落ちした。ひとりでいてもつまらないからと、そのころからすすんで連日夜勤をした。

ある夜、バイクの自損事故で若い板前が運ばれてきた。身寄りがないという男を片桐さんは親身に介抱した。男は右上腕にヒビがいっただけだが、あらゆる不調をうったえてズルズルといつまでも入院しつづけ、なかば強制的に退院させられたとき入院費を払ったのは片桐さんだったらしい。いつからか片桐さんと板前はそういう間柄になっていた。

ところが、男の退院を待っていたように女が登場した。男と女はいわば逆美人局を企んだのだ。歌舞伎の隈取りかと見まごう化粧の若い女は病院にのりこんでくると待合室に片桐さんを呼びつけ、ひとの男に手を出してこのくそババアとののしり、慰謝料を出せ、病院を訴えてやる、金がないなら元の亭主に払わせろ、話はぜんぶ聞いてんだからね、と脅した。

 愛情をそそぐ対象をすべて失った片桐さんは、もはや生きていく気力もなくした。

湯河原ゆがわらのうらぶれた旅館で病院から持ち出した劇薬を飲んだのは、江の島の帰りに久美子たちを訪ねた翌日だったそうだ。

「なんか、ほんとにかわいそう。きれいなひとだったけどねえ。やさしいひとだったのに」

 母親は、つっ身をのりだすと、

「まえにいた病院でやっぱり患者となんかあったらしいわよ。そういうのも病院を転々した理由みたい。まあね、ひとの噂なんてどこまでほんとかわからないけど」

 その噂話はたぶん事実に近いだろうと久美子は考えた。

母親や患者たちが絶賛する片桐さんのやさしさに久美子は捕虫草を連想した。甘い香りに誘われてちかづくと筒の底にすべり落ちてしまうが、そこはほの暗く、いつまでも横たわっていたい、ぬくくて心地よい蜜の壺だった。だがそれは生きものを腐らせるだけで、なにも育てない毒の罠だ。甘美な毒はとうとう片桐さん自身も滅ぼした。

久美子は着がえもせずに居間の畳にへたりこんでいた。もういない猫にかこつけて久美子を訪れ、きれいなものが見たいのといったときのせつなげな表情がよみがえる。いっしょに行きましょとひとこといっていれば、片桐さんはいまもまだ生きていただろうか。いや、いずれはこうなる道を歩んできたのかもしれない。道の先になにが待っているかなど、だれにも知りようはない。

ひとつ確かなのは、と久美子は考えた。片桐さんに子どもが授からなかったのは、ある意味で救いだったのではないだろうか。

母にも、そして、子にも。


― 了 ―

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