湘南幻燈夜話 第二話「うえのひと」

第ニ話 「うえのひと」

 凍てつく二月の夜道をトランクを引きずった田辺久子がよろよろ歩いている。

やっと野毛稲荷裏のアパートにたどり着いた。木枯らしが電線を鳴らして吹きすぎる。

(う、さむ!)

毛糸の襟巻きに鼻までうずめ、

(ああ、ハワイが恋しいよお)

寒々とたたずむ築三十年二階建て木造アパートをうらめしげにながめた。

 久子は短大時代の女友だちふたりと常夏の海でたっぷり遊んできたのである。だが、飛行機を降りたとたん南国の夢は寒風にふっ飛ばされた。野毛にもどれば、周辺は椰子の木の代わりにごちゃすちゃと列をなす電柱が夜空にささるばかり。目のまえには久子のほかは男ばかりの、いつ帰っても明かりなどついていたためしのない廃墟みたいなおんぼろアパート……とそこまで考えて、

「え? あら、やだ!」

すっとんきょうな声を上げた。

一階北東角の久子の部屋の上に明かりがついているじゃないか。

カーテン越しだがたしかにほの明るい。久子が入居していらい上はずっと空部屋だったのだ。留守中にだれか越してきたらしい。

(へえー、どんなひとだろう。また男かな、それとも女かな)

不安と好奇心が、むくむくと湧いた。

「そりゃもう、あんたみたいな美人にぴったり! 安心だよう、男ばっかしだもん。アパートじゅうボデー・ガーターみたいなもんでさ。上は空き室、玄関は北でも和室は南向き、もう日当たりいいし、キモンなんざ、きょうび、あわわ……」

六年前にここを斡旋した周旋屋はわけの分からないことを大声で請合い、なにやらあわくって契約書とペンを押しつけた。

(キモンって…?ま、いいや、相場よりすごい安いし)

たしかに久子のほか一階は二部屋とも大学生で、二階の三部屋はひとり者の勤め人だが、どいつもこいつも夜などおよそ居たためしがなかった。

(なにが安心さ。これじゃまるで空き家の留守番か独身寮の管理人じゃないの!)

頭にきたものの、お稲荷さんの裏にしては日当たりが抜群で車は通らず、いつも静かなのは気に入った。でも、これからはどうなんだろう。

(上の音ってすごく響くんだろうな)

バッグから鍵をだして安っぽい合板の玄関を開けた。

玄関脇はいきなり板張りの台所、便所、風呂とつづき、板張りの奥は襖をへだてて六畳の和室がある。ありふれた間取りだ。十日も閉めきりだった部屋の空気は冷えびえとして、嗅ぎなれない臭いがこもっている。久子は南に面した六畳間のガラス戸を開けた。外は立つのもやっとのベランダだが、低いアルミの手すりがあり、蒲団を干すにはこれで足りた。よどんだ空気を入れかえるといそいで窓を閉める。ハワイ呆けでタガのゆるんだ体には骨身にしみる寒夜だった。

(あーあ、明日からまた、満員電車で会社かぁ……)

考えるのもいやだが現実は容赦がない。

なにはともあれ、明日みんなにわたすお土産だけは整理しておかねばならない。久子はトランクを部屋に引っぱりあげた。風呂に湯をためながら、ストーブをつけてあれこれ土産物を仕分けした。

風呂から上がるともう真夜中だ。押し入れの蒲団を引きずり出して横になるや、またたく間に眠ってしまった。

《ズィーーン、ズィーン、ザーー、ズィーン、ズーー》

無明の深淵から奇妙な音が響いてくる。

 久子はまだ夢うつつだった。どこから聞こえてくるのか、なんの音なのか、遠いところで、モーターの唸るような……

(……掃除機?)

 完全に目がさめた。

 音は久子の顔の真上から降ってくる。二階だ。首をねじって蛍光時計を見た。午前二時二十二分。

(ちょっとっ、 夜中じゃない!)

こんなとんでもない時間に上の住人は掃除機をかけているのだ。

(ジョーダンやめてよぉ、丑三つ時に掃除なんて)

枕元のスタンドをつけ、水商売にしたって非常識と憤慨しながら蒲団にあぐらをかいた。一気に血が上ったせいで寒さも感じない。

しばらくそうしていたが、ズィーン、ザーーという機械の音は止まない。

(どうしよう、えらいのが越してきちゃった)

 そう思ったとき、音が止んだ。

「わっ」

 不意をくらって仰向けに転がりかけた。

おそるおそる天井に目をやる。しんとしている。しばらく様子をうかがったが、かたりともいわない。どうやら深夜の掃除は終わったらしい。時間にして三分ばかりだった。

(はあぁ、やれやれ)

また蒲団にもぐりこんだ。

風呂で温まった体がすっかり冷えてしまった。もし明日またこんな時間に掃除がはじまったら噴飯ものだが、それでも今日のように三分かそこらで終わるなら、

(ま、いっか……)

ふあーん、と大あくびをして、もう夢の国だった。

すべからく陽気で楽天的なところが田辺久子に友だちの多い理由だが、大ざっぱでかなり適当、けっこう図々しいとの裏評もある。

 つぎの夜、

《ズィーーン、ザーー》

またしても掃除機の音で目が覚めた。

午前二時二十二分だった。久子は蒲団の中で待った。三分たち、時計の長針が二十五分を指すと機械音はぱったりと止む。

つぎの日も、そのつぎの日も、同じことがくりかえされた。じきに久子は上のひとの習慣に慣れ、真夜中の掃除に起こされることもなくなった。

それ以外のときは上の部屋はしんと静まって、ひとのいる気配もなかった。


 春が来た。

三月初めのよく晴れた日曜日、蒲団を干そうとベランダの戸を開けた久子は、

「うわっ、くさい!」

思わず飛びのいて叫んだ。

「なにこれっ!」

 目は一点に釘づけだ。

春の日のさんさんとふりそそぐベランダの片隅に、ひと固まりの毛が落ちていた。

ゆるやかに波うつ太くて金茶色の毛が、バレーボール大の団子になっている。毛玉団子のまわりも金茶の毛がちらばってベランダは絨毯を敷いたようだ。人間の髪ではない。明らかに動物のものだ。胸のわるくなるような臭気がそこから立ちのぼっていた。水に濡れた動物の体がぬくまって臭うときの、蒸れて、すえたような、糞尿と血のまざった生臭さい悪臭だ。久子は思い出した。この臭いは旅行から帰った日に部屋にこもっていたのと同じだ。そういえば、あれからも帰りが遅い日はかすかだがこんな臭いがしていた。

(くっそお! 上でなんか飼ってるね!)

 久子は歯がみした。

春になって抜け毛がひどくなったのだろう。掃除機で取りきれないものだから、ベランダから下へ掃き捨てたにちがいない。ここは静かなのと日当たりのよいベランダに蒲団を干せるのだけが取柄のぼろアパートだ。上からこんな代物を落とされたのではたまったものではない。ほかほか蒲団に大の字になる極楽はいったいどうしてくれるんだ。

「ゆるせん!」

 憤怒に燃えてすっくと立った。

 鉄の外階段を駆けあがり、上の部屋の戸をせわしく叩いた。

「もしもし! 下のものですけどねっ、ちょっと、いるんでしょ! 開けてちょーだい。開けなさいったら!」

ごんごん、どんどん、ばんばん、がんがん、叩いた。

 戸の向こうで気配がした。ほんの五ミリほど戸が開いたとたん、悪臭が久子をおそった。

「ウッ、くさ! あのねっ、上で犬なんか飼わないでよっ、迷惑なのよ!周旋屋にいうよ!」

「犬ではない」

 戸の陰に隠れた相手は、抑揚のないしゃがれ声でいった。

「犬じゃなきゃなにさ? ふざけないでよ、夜の夜中に掃除機かけてさ、大方、抜け毛の始末してんでしょ!」

「あの時間に生えかわるのだ」

「よっくいうわ! あんな臭い毛の固まり落とされたんじゃ蒲団も干せないわよっ」

「あんたは細かいことを気にしないひとだと聞いていたのだが……」

平坦な声の主は、完全にできあがった久子を無視してつづけた。

「もう、しかたない。そっとしておいてくれさえしたら無事だったものを」

「え? なにいってんのよ、お、おどす気なら、こっちにも……」

「時期がくれば静かに去るつもりだった。あんたのお礼もちゃんと用意していたのに」

「……時期って」

「毛がぜんぶ生えかわったらってことだよ」

 戸が久子の鼻先で閉じかけた。

「ちょ、ちょっと待って。あの、お礼ってなに?」

コーンと妙なかすれ声で、上のひとは笑ったようだ。

「ハワイ、気に入ったんだろ? まとまったお金とハワイの別荘でも上げるつもりだったが……でも、べつのお礼はするよ……すぐにね、すぐね……」

ケーン、コンコーンと聞こえる笑い声を残し、ドアはぴしゃりと閉じられた。

 なにがなんだか雲をふむように部屋へもどり、畳にへたりこんだとき、グラっと来た。


久子の住むアパートは地震で倒壊した。

それは前代未聞の珍事だった。なにしろ気象庁の観測では震度は〈1〉だったのだから。

《微震でぺしゃんこに潰れたアパートの現場》と、《たまたま在宅し、九死に一生を得た田辺久子さん》を一目見ようと押しかけた野次馬や取材のマスコミに久子は訴えた。

「もんのすごおーい揺れだったんです。ほんと、洗濯機の中にいるみたいだったんだから。震度イチ? ウッソー! そんなわけないわよ、もういちど、ちゃんと調べて!」

いくらいっても、どんなに説明しても、だれも信じてくれなかった。


 傷心の久子は横浜を去り、ウラキモンだから負けときますよという周旋屋の言葉も上の空に、逗子ずし小坪こつぼ漁港に近いアパートへ越した。仕事も変わった。

はりついている狭いベランダのガラス戸を開けると潮の香のするアパートの一階南西角部屋で、久子はハワイを思い出しては涙ぐみ、もらいそこねたお礼を夢想してはさめざめと泣いた。月のない蒸し暑い夜など、あの金茶色の毛を生やした生き物の姿を想像しては寝てからうなされた。

やがて四月になり、久子の上にいた勤め人が転勤でいなくなった。数日して大きな水槽が運びこまれるのを見たとき、久子はイヤぁな予感がした。だれか引越してきたらしいが、上の部屋はいつもカーテンが引かれたままだ。

それから数日たった日曜日の朝、蒲団を抱えてベランダの窓を開けた久子は、

「きゃっ」

悲鳴を上げた。

ベランダ中がキラキラ輝いている。猛烈に生臭い。鼻をつまみながら近づくと、光っているのは雲母のように薄そうだがそのじつ頑丈で不透明なかけらだった。ひとつの大きさが十センチはある扇型をしていた。それがベランダ一面にびっしりとこびりつき、四隅にも積もって小山になっている。アパートから歩いてすぐの魚市場もこんなふうに光っていた。

「そうよ、これって魚のウロコだわ」

だが、こんな巨大なウロコをもつ魚なんかこの世にいるのだろうか。

「アマゾンにだっていないよね。でも…もしか……」

 びしゃっ!

 久子の考えを読んだかのように、頭上で水のはねる音がした。

ぎくっとして見上げると、二階のベランダの戸が細く開いている。ぶ厚いカーテンの隙間から満々と水をたたえた水槽がちらりと見えた。水の色は紫だった。と、そのとき、大きなヒレのようなものがぬらりと紫の水をかいた。

(そうきたか)

蒲団を抱えたまま、久子は立ちすくんだ。

この間が動物モドキで地震ってことは、こんどは魚モドキだから、

(ツナミ!)

 久子はサンダルをつっかけて部屋を飛びだし、脱兎のごとく二階へ駆けあがった。

「すみませーん、すみませーん、失礼しまあーす、おじゃましまーす」

部屋の戸をどんどん叩きながら呼んだ。

しばらくすると、ズル、ズル、ズチャッという濡れ雑巾を引きずるような物音が近づいた。

戸が五ミリばかり開いた。

「あ、お取り込み中、すいませーん」

 強烈な生臭さと腐臭をものともせず、久子は丁重にたずねた。

「ウロコってどれくらいで生え変わるんですかあ」

ついでにお礼のことも確かめておかねばと、ドアの隙間にサンダルをグイっとねじ込んだ。


                          ― 了 ―

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