【KAC20247】ある一般男子大学生の動転

千艸(ちぐさ)

ストレスためてた僕が悪いんだけどさ

 青と黒の悪夢、だった。


「リノ君! クリス君の脳波が……」


 研究室で電話を受けた事情を知る先輩の顔が強張っていて、

 僕の心臓は一拍飛んだ。


 肩で風を切って病室に向かう。声を掛けられたくないからだ。でも、そんなことしなくても、僕の顔を見た人はただ事じゃないと判っただろう。

 僕の天使は病室で、人工呼吸器に繋がれていた。

 ───ああ、やはり。

 このまま植物状態が続けばいつかは、とは薄々思っていた。

 無理矢理、考えないようにしていたことだ。


 僕の大切な幼馴染。

 自殺しようとした僕を助けようとして、僕の代わりに眠りについた男。

 僕が人生を奪ってしまった男。


 病室の中のスタッフ達はガラス越しに無言で僕を見た。

 そう、僕は主治医ではない。クリスの症例を研究していた研究生だ。この緊急事態に指示を出したり仰いだりする輪からは外れている。

 病室の中には、入れない。


 QEEG(脳波マッピング)の画像を確認する。

 青と黒。

 それは、脳波がほとんど、あるいは全く、出ていないことを表していた。

 よく勘違いされがちな、ノンレム睡眠などではない。

 つまり、脳死状態。


「クリス、おい、聞いてくれ! 死ぬな、クリス!」


 窓の外から呼びかける。

 マッピングに反応は、ない。

 青を押して、黒が広がってゆく。

 あ、あ、駄目、やめて、行かないで。

 お前が僕より先に死んでどうするんだよ。

 お前の彼女もお前に返さないといけないのに。

 諦めたのか?

 もう、無理なのか?

 クリス、僕はお前がいないと駄目なのに、どうして僕を置いていくんだ。

 黒、黒、黒。

 中のスタッフが動く。

 ああ、脳死判定用の高精度プローブに交換するんだ。

 それで、本当に反応が無かったら、

 僕らは、終わり。


「嫌だ……返せ、返せよ……」


 僕のクリスを。僕がお前に捧げたこの九年を。僕のクリスを。僕がお前の彼女を引き取ってやったこの九年を。僕のクリスを。お前が彼女と幸せに暮らすはずだった未来を。僕のクリスを。お前が僕の代わりに生きていく未来を。僕のクリスを。僕が世界に譲れる唯一のものを。僕のクリスを。僕が手に入れるはずだった充足を。僕のクリスを。僕を好きだと言ってくれるあの優しい笑顔を。僕のクリスを。お前のことを本当はずっと待ってる彼女の幸せを。僕のクリスを。全部お前に託して死のうとしていた僕の暗い夢を。


「クリス!!」




 叫んで、

 目が覚めた。


 ああ。夢だったのか、と。

 今日は、何をする日だっけ。

 僕はタクシーの後部座席に乗っていた。

 喪服、だった。


 隣を見る。

 あいつの彼女。その膝には、金色の髪をした、小さい女の子。

 あれ?

 なんで、ここにいるんだっけ。

 なんで、この子は金色の髪をしてるんだっけ。

 この子は、僕の子?


「パパ、どうしたの?」


 どきっとする。自分がおかしくなってしまったみたいだ。

 僕の子を、僕の子じゃないと思うなんて。


「なんでもないよ、リリス」


 無理矢理微笑んで、小さい頭をなでる。

 温かくて、焼きたてのクッキーの匂いがする。


「リリス、今日はいい子にしててくれよ。パパとママの大切な人との、お別れの日なんだ」


 隣で、あいつの彼女が。

 ああ、そうか。

 僕ら、結婚したんだ。

 それで、この子が生まれて。

 あれ?

 時系列、おかしくないか。


 なるほど、つまりこれも悪夢の続き。

 僕は心のどこかで安堵しながら、葬祭会場へと向かった。


 夢と分かってしまえば展開は早い。

 僕は親族として葬式の前にあいつの棺の中を見た。


 そこに横たわっていたのは、

 僕だった。



 ああ、なるほどね。

 僕が死んだなら、いいや。

 お前が死んだんじゃなきゃ、いいや。

 僕は奇妙な満足感を覚えながら微笑んだ。


「クリス……」


 ああ、でも、僕の口をついて出たのは、僕の名前じゃなくて。

 やっぱりお前が死んだのか。

 僕は、耐えきれなくなって、哭いた。




 夢から目覚める。

 今度こそ、現実かな。

 布団の中で、

 隣にはあいつの彼女がいて。

 僕の髪は、長い金髪じゃなくて。

 昨日は、昨日も、クリスの病室を訪れて、呼びかけをしていた。

 思い出せるということは、ちゃんと現実なのだろう。


「……っ、最悪……」


 嫌な夢だった。

 僕の予感が、目を背けてきていた予想が、全部襲ってきたような悪夢だった。

 目がひりひりと痛くて、頬は涙に濡れていた。

 だっせえな、いい大人がよ。

 もう、二十六だぞ。

 多分これは、研修疲れだろう。

 僕は先に博士号を取ったから、専攻医にはまだ成れていない。研修医は色んな科を回らないといけなくて、これがストレス、なんだと思う。

 というか、医者しぐさよりも、クリスとの時間がぐっと減ったことがストレス。

 研究していた時は口実なんか用意しなくても毎日会えていたのに……。

 早く専攻医になって、あいつの担当になりたい。

 あいつはきっと、僕が助けないと、助からない。

 だって、僕があいつをあんな目に遭わせているのだから。


 ……眠れない。休んだ方がいいのは分かってる、まだ夜中の三時だし。

 でも駄目だ。

 限界だった。

 あいつに会いたい。

 僕は寝床を抜け出して、服を着替えて、家を飛び出した。


 当直は僕の友人だったから、無理を言ってあいつの部屋に通してもらった。

 無茶をさせたけど、そもそもクリスに会いに行こうと家を飛び出した時点で、僕は正気じゃなかったんだと思う。

 ぱちりとQEEGの電源を入れる。

 やがて画面に出てきたのは、穏やかな緑と青の海。

 生きてる。

 ちゃんと、お前はまだ、生きていた。

 夢がフラッシュバックして息が詰まった。

 でも、今は医者として、お前の傍まで行ける。

 帰ってこいよ、なあ。僕の眠り姫、この寝坊助め。


「……クリス」


 僕はそう呼びかけながら小さい頬に手を触れた。

 そっと指を滑らせ金色の長い髪をなでる。

 そろそろ、返してほしいんだけど。

 そうだ、眠り姫ってんなら。

 キス、してみようか。


 ───。


 僕の唇に、薄く柔らかな感触があって。

 僕はそのまま、気を失った。

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【KAC20247】ある一般男子大学生の動転 千艸(ちぐさ) @e_chigusa

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