ドミノ

@PrimoFiume

ドミノ

「ゴホッ、ゴホッ、ゴホッ」

駿シュンくん、大丈夫? 看護師さん呼ぶよ」

 先天性の呼吸器疾患をわずらい病室のベッドで半身を起こしている僕の側で、祐希ゆうきはナースコールを手繰る。

「(大丈夫)」まだ声が出るほど症状は治っていなかったが、いくらか落ち着いた僕は、祐希を手で制した。

「本当に先生呼ばなくていいの?」

「う……ん、大丈夫、落ち着いたよ」

「そう」祐希はそっとナースコールを戻して、窓の外を見やる。

「桜きれいね」

「あと、何回見れるかな」思わず自嘲気味に呟く。

「そんなこと言わないでよ」祐希は伏し目がちに答えた。

「ごめん」


 祐希はいつも時間を作っては僕の側にいてくれる。タブレットで単位をとっている僕にはあまり実感がないけど、今僕らは高校二年。祐希にとっては進路を真剣に考えなければならない大事な時期だ。こんな状態の僕を支えてくれるのは、単なる幼馴染という理由だけではなく、特別な気持ちがあるということは分かっていた。それは僕とて同じこと。肺移植以外に助かる見込みがない僕にかまうことなく、自分の人生を幸せに生きてほしいという気持ちを何度吐露しようと思ったかわからないが、その度に祐希を失いたくないという相反する想いが邪魔をする。

「きっとドナーが見つかるよ」

「そうかもね」祐希の気休めに僕は力無く微笑んで見せる。

 臓器提供を待つ移植患者レシピエントの数はドナーを圧倒的に上回る。肺や腎臓のように二つある臓器であれば生きているドナーから提供されることもあるが、身内でもない限り、現実的ではない。僕の場合、兄弟はいないし、両親は白血球の血液型であるHLA型が適合しないから、そのような希望は持てない。

 人間とは虫のいい生き物だ。献血すら嫌がる人でも、いざ自分や自分の大切な人が大きな手術を受けるとなれば、当たり前のように輸血してもらえると思っている。その後の生活で補完される血液ですらそうなのだから、一般的な人たちが臓器提供の意思を表明してくれるなんて楽観的な希望は僕にはどうしても持てなかった。

 それ以外にも問題はある。ドナーは若すぎず老い過ぎずというのがベストだし、臓器は新鮮でなければならない。要するに、さっきまで生きていた人から取り出してすぐに移植するのが理想なのだ。果たして、それはどのような状況か? 入院している脳死患者からの移植が多数派になるだろう。事故でそのような状態になったとしたら、ほとんどの場合、臓器自体もダメージを受けているわけで、とても移植に耐えられるものではない。事故現場から緊急搬送されて、奇跡的に臓器が無傷で、生前の臓器提供意思表示をしていた上に、悲しみに暮れる暇もなく遺族がそれを了承し、移植コーディネーターがレシピエントの元に駆けつける。そんな、奇跡の連続はもはや僕にとって迷信レベルだ。


「駿くん、諦めちゃダメ。絶対助かるから」

 祐希は真剣そのものといった目で僕を力付ける。

「私夢があるの。医療機器の分野に進んで、それで駿くんみたいに困っている人の命をたくさん救うんだ。人工の恩返しよ」

「人工の恩返し?」祐希の造語に理解が追いつかず僕は空中で頬杖をついて考えた。

「そう、人工の恩返しってのはね、人工臓器を作って多くの人たちの命を救うのよ。その代わり、どうか駿くんのドナーが見つかりますようにって神様にお願いしてるの」

“人工の恩返し”という祐希独特の造語がとても印象的だった。

 人工臓器というものもまた厳しい現実がある。拒絶反応のリスクが低いという点で希望が持たれるが、問題は山積している。

 まず、人体に埋め込まれる人工肺というものはない。手術の時に一時的に繋ぐだけのものだ。肝臓にしてもそうだ。一般的に肝臓の働きは、解毒、代謝、排泄の三つが知られているが、その他、脳や消化器官にも影響するなど、その役割は五百以上にものぼるという。もし、人工肝臓を現行の技術で作るとしたら、そのサイズは東京ドームに匹敵する。臓器というものは、本当に人智を超越した奇跡の塊なのだ。


「だからね、もう進路は決めてるの。頑張って勉強するから、駿くんも諦めちゃダメだからね」

「分かったよ」

 笑顔で答える僕を祐希は満足そうな表情で眺めたあと、じゃあまたねと言って病室を出ていった。

「ドナーが現れるか」そうだといいなと思いながら、僕は睡魔に襲われて目を閉じた。


 その知らせは正に青天の霹靂だった。本当にドナーが見つかった。HLA型はある種、クジのようなものだ。先着順であれば、とても生きているうちに順番が回ってくるとは思えないが、最も適合するレシピエントが優先されるから僕たちレシピエントは一縷の望みを持つことができる。考えてみれば当然のことで、貴重な臓器を適合しないレシピエントに移植してともども駄目にしてしまっては元も子もない。他にも鮮度に直結する物理的な距離の問題もあるが、ともかくHLA型がどれだけ近いかが最優先なのだ。

 手術を受ければ僕の命は続く、祐希と共にその後も人生を歩んで行ける。手術に対する恐怖はあったが、祐希がいるだけで勇気が持てた。ICU《アイシーユー》に運ばれる僕に、大丈夫よ何も心配いらない、I see you.《アイシーユー》(見てるよ)と声をかけてくれた。

 手術は呆気ないほど簡単に終わった。僕は麻酔で意識を失ったあと、目を開けたら病室にいた。もちろんそれは僕からしたらの話しで、手術自体は十時間に及んだと聞かされた。こういった手術としては早くもなく遅くもない一般的なものだと後で調べて知った。

 経過観察のため、別の病室でしばらく過ごした後、僕は元の部屋に戻った。

「駿くん! 良かった! 本当に良かった!」祐希が涙を流して僕に抱きついてきた。

 夢にまで見たシチュエーションなのに、僕は何とも言えない違和感を抱いた。祐希のことは大事な存在であることはこれまでと変わらないし、好きだという気持ちも勿論持っている。なのに、この形容し難いモヤモヤの正体を掴むことはできなかった。

「ドナーの人に感謝しなきゃね」祐希が涙を拭いながら言う。

 当然と言えば当然なのだが、僕たちはドナーがどこの誰かを知る術はない。もちろんドナー側にもレシピエントの素性は秘匿とされる。知れば金銭的なトラブルなどに発展することが目に見えているからだ。

「貰った命を大事に生きるよ」ともかく僕は本心からそう答えた。


 手術が成功したといっても安心はできない、五年生存率は60%、十年ともなると35%にまで低下する。幸い、あれから八年が過ぎた今も僕は変わらず安定している。とは言え油断は禁物だ。いくら適合した臓器であっても拒絶反応が起きないわけではない。それを抑えるために免疫抑制剤を服用するわけだが、それは同時にウイルスや細菌に対する抵抗までも下げることを意味する。ちょっとしたケガでも命取りになりうるのだ。健常といえる体を手に入れても、そういった制約が、かつてレシピエントであったという事実を突きつける。些細なことで言えば食の好みが変わったということと、自分ではあまり分からないが、仕草も変わったらしい。

 もう一つ気になることがある。あの日以来、たびたび同じ夢を見るようになった。その夢の中には一人の女性が現れる。焦点を合わせようとしても、その顔は霞がかかったようにはっきりとしない。僕なのかどうかも分からない男の声でリオと呼ぶ声がしたかと思うと女性はカズマ君と答えて霧散する。



「残念ですが」

 この言葉を言うのは何度目だろう。私の言葉を受けて、遺族と呼び名を変えた家族が泣き崩れる。一つでも多くの命を紡ぎたいという思いから外科医になったのに、現実というものは残酷だ。テレビや漫画のように、難病患者を簡単に救えるはずもなく、時には遺族からやり場のない悲しみや怒りをぶつけられる。特に私のような女医はその傾向が強い気がする。神経を極限まですり減らすオペを執刀し、その結果が残念なものであれば、それを受け止めるだけでも簡単なことではない。そんな状態で浴びせられる罵声は、およそまともな神経では耐えられない。ある医師もいっていた。名医とは千の屍の上に立つものだと。いちいち一患者の死に心をすり減らしてはいられないのは承知しているけど、何度直面しても慣れることはない。

 私は自分のデスクに戻り、明日の予定に目を通す。医療機器メーカーの訪問が一件ある以外はいつも通りだ。


 翌日、予定時間よりやや早く医療機器メーカーから機器のメンテナンスで女性が訪れた。

「橘祐希と申します。どうぞよろしくお願いします」その女性はそう言って名刺をさしだした。

「葉月莉緒です。こちらこそよろしくお願いします」

 メンテナンス自体も早く終わり、私たちはしばし雑談に花を咲かせた。彼女は自分がこの道を選んだのは彼氏が移植手術で救われたことに対する、人工の恩返しなんだと言っていた。そのユニークな表現もさることながら、私は移植手術という言葉に思わず反応してしまった。

「それはいつの話?」

「えっと、高二だから八年前かな。あ、年バレちゃいますね」

 いけないことだとは分かっていたけど、私は自分にブレーキをかけることができず口走ってしまった。

「私は移植手術も行っているのだけど、……」

 私はレシピエントや移植患者という言葉は不適切に思えて慎重に言葉を選んだ。

「移植手術を克服した方のお話を聞きたいの。もし良ければなんですけど、その彼に会わせて頂くことは可能かしら?」

 一瞬の間があったが彼女は笑顔で、是非と答え、個人的に連絡先を交換した。

 彼女が去った後、私はスマホに保存してある写真を眺めて彼の名を呟いた。

「一馬」

 八年前、プロポーズを受けた直後に彼はこの世を去ってしまった。交通事故だった。前を走るトラックの積荷から鉄骨が落下し、無惨にも彼の頭を……。彼は普段から医療現場の実状を嘆く私を見て、少しでも協力できればとドナー登録をしていた。彼の両親もその点において理解があって、彼の意思通りほぼ全ての臓器が提供されることとなった。ただ眼球だけは残してほしいというのが両親の切実な願いだったのを覚えている。私は医療現場に立つ者として失格なのかも知れない。私も同じ想いだったから。彼の眼窩からその光が奪われて、ぽっかりと穴が開いてしまうのは恐ろしくて想像することさえできなかった。

 私は親族ではなかったが、どちらにせよレシピエントの素性を知らされることはない。とはいえ、職業上検討はつく。彼が事故に遭った直後に近隣の病院で移植手術が行われるのだから、この狭い業界でそれを調べることはそんなに難しいことではない。それでも私は踏みとどまった。レシピエントに会ったところで、それは一馬ではない赤の他人。今更どうなるものでもない。彼の一部が誰かの役にたってこの世に存在しているというだけの話なのは分かっている、分かっているはずなのに。実際に身近なところでその機会が作れるかも知れないと分かったらもう抑えが効かなかった。祐希さんへのお願いは間違っていたのではないかとの想いが何度も何度も頭の中を駆け巡ったけど、結局答えは見つからないまま、その後の日々を過ごした。



 あたしは八年前に心臓移植で一命を取り留めた。今、大学に通えるのもドナーのおかげだし、本当に感謝してる。これからの人生も決して無駄にしてはいけない。卒論のテーマに使えるかも知れないという下心もあったけど同じ境遇の人たちの希望になれないかとここのところ毎日ネットを眺めている。すると、同じような境遇の方が主催するサークルに目が止まった。沢村駿というその人は、あたしと同じ八年前に移植手術をして、今も元気に暮らしているらしい。レシピエントにとって移植手術はゴールではない。特に呼吸器のレシピエントの半分は十年と持たずにこの世を去るのは勿論私も知っている。そんな恐怖から救いたい、アドバイスを授けたいという真摯な彼の想いがホームページから伝わってきた。あたしはその日のうちに沢村さんにメールして、会う約束を取り付けた。


 実際に会ってみて沢村さんは感じのいい人だと思った。沢村さんには祐希さんという彼女がいて、昔から支えてくれる大事な人なんだと嬉しそうに色々語りだした。今、祐希さんはその頃の夢を叶えようと医療機器メーカーに進み、いずれ人工臓器の開発に携わることを目指しているのだという。

「人工の恩返しですね」

 あたしは自然とそう答えた。自分でも何故そんな言葉を発したのか分からない。無意識に口からこぼれ落ちたのだけど、その言葉を聞いて沢村さんは表情を変えた。

「綾瀬さんは、どこでその言葉を?」

 沢村さんは、言った本人であるあたしでさえも分からない言葉を知っているようだった。あたしは宙で頬杖をついて考えたけど、答えは見つからなかった。

「深い意味はないんですけど、何か?」

「え、ああ、それは祐希が言ってた言葉なんだけど、他にもそんな言葉を使う人に会ったのは初めてで」

「そうなんですか、あたし祐希さんに会ってみたいな」

「今度の日曜日にサークルのパーティを企画してます。もし良ければそこに連れてきますよ」

 あたしは沢村さんの企画に参加することにした。



 今回のパーティは、新メンバーの綾瀬さんと、祐希の取引先の病院から葉月さんという女性が加わる。医師の参加は願ってもないことで、専門的な知見はきっと他のメンバーの役に立つだろう。とりあえず僕たちは四人掛けのテーブルに同席した。

「はじめまして、サークルを管理している沢村です。こちらは医療機器メーカー勤務で僕の彼女の橘です」

「なんかその紹介照れるー」祐希がおどけて答える。

「とてもお似合いよ。私は橘さんのお世話になっております、医師の葉月です」

「あたしは綾瀬っていいます。大学生です。よろしくお願いします」

「ちょっとみんな堅いですよ。もっと楽にいきましょう」僕は場を和らげようと思わず口を挟んだ。

「綾瀬ちゃんって可愛いね。モテるでしょ」祐希が問いかけると綾瀬さんは頬を赤らめて、恥ずかしそうに「そんなことないです」と答えた。

「それじゃあ、沢村さんは、橘さんのどういうところが一番好きなのかしら?」

 葉月さんが僕の目をじっと見つめて問いかける。葉月さんは恐らく僕より十は年が離れているのだけど、とても魅力的に見えて僕は咄嗟に答えることができなかった。

「え、えーと、そうですね」僕はこめかみに人差し指を当てて考える。

「ちょっとー、そこ考えるとこー?」祐希がむくれた。

 心なしか綾瀬さんが祐希を見る目は同性に向けられるものとはちがうように見えた。

「一馬」僕の仕草を見て葉月さんがポツリと呟いた。

「莉緒」間髪入れず僕の口が無意識にその名を発した。

 瞬間、繰り返し夢に出てきた女性の顔にかかっていた霞が晴れてはっきりと葉月さんの顔が浮かんだ。外にまで響くかと思うほど胸が高鳴る。僕は葉月さんに対して恋愛感情のようなものを感じた。

「ちょっと駿くん、いくら楽でもいいって言っても先生を呼び捨ては失礼よ。って、何で先生の下の名前知ってるの?」

「いや、ごめん、えっと祐希から聞いたんだと思う」

「あれ? そうだったっけ?」

「きっとそうよ」葉月さんがフォローしてくれたが、僕はウソをついた。


 こめかみに人差し指を当てて考えるのは、一馬さんの癖なのだろう。僕は以前は宙で頬杖をついていた。そういえば、綾瀬さんもその仕草をしていたし、”人工の恩返し”という言葉、綾瀬さんが祐希を見るあの目は、まさか……。

 手術を受ける前から移植に関する本をよく読んでいた僕は一つの可能性に行き着いた。クレア・シルヴィアのノンフィクション小説もその中の一冊である。彼女は事故死した青年から心臓を譲り受けた。勿論ドナーの素性は知らされていないのだが、その後彼女の仕草や食べ物の好みはドナーのそれに変化し、夢の中に現れた少年のファーストネームがドナーのものであると確信した。その後、彼女は手術を受けた日と同じ日付の死亡事故記事を見つけて、ドナーを特定するに至った。心臓は単なるポンプではなく、様々な機能を備えていることは知られているが、記憶にも関与している可能性が示唆されている。これは記憶転移とよばれ、いまだその真偽は医師の中でも意見が分かれるのだが、そうだとするなら説明がつく。

 僕が患っていたのは肺であり心臓ではない。だけど、肺単体を移植するより、心肺同時移植する方が成功率が高い。つまり肺だけでなく僕の心臓は一馬さんのものなのだ。そして、問題のなかった元々の僕の心臓を別のレシピエントが受け取る。それが綾瀬さんだったんだ。


 ドミノ移植


 臓器は貴重なものであり、一切の無駄など許されない。綾瀬さんの心臓もまた、使えるところが部分的にあったのなら、例えば大動脈弁などが別のレシピエントに授けられているはずだ。


 葉月さんに抱く感情、祐希への想い、綾瀬さんが祐希に感じているかもしれない気持ち、一体どこに、”本当の僕”がいるのだろう。

 僕はこめかみに人差し指を当てた。

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