第六話 幽霊の囁き

 

 夜の帳が静かに幼稚園を包み込み、月明かりがぼんやりと照らす中、野々村たちは園庭に立っていた。


 彼らの周りには、古井戸やうさぎ小屋、そしてブランコがあり、その存在が時間の流れを物語っていた。彼らの足音が、この静寂な空間で唯一の生命を感じさせるリズムを刻んでいた。


 園長の幸子はその重い沈黙を破り、語り始めた。彼女の声には、かすかな震えがあり、言葉を紡ぐたびに、その恐怖が空気を濃くしていった。


「ここは、ひよりちゃんがこの世を去った後も、彼女の微かな足跡を感じさせるのです。まるで彼女がまだそばにいるかのように、その声や帽子、そして影が……」


 彼女の目は遠くを見つめて、まるで過去の記憶に触れるかのように、一瞬涙で潤んだ。野々村と安田は、幸子の言葉に耳を傾けながら、園内を見渡した。


 うさぎ小屋は静寂に包まれ、ブランコは風に揺られていた。そして、野々村の視線は、ブランコハンガーから吊るされた鉄の鎖に、なぜか引っ掛かったままの黄色い帽子に留まった。


「幸子さん、あれは?」


 野々村が帽子をじっと見つめて尋ねた。


「ええ、あの帽子はひよりちゃんが天に召された日から、一向に動くことなくそこに留まっているそうです。まるで、彼女自身がそれを見守っているかのように……。だから、誰もその帽子に手を触れることはできません」


 幸子の声は、不安と恐れに満ちていた。


 安田は、帽子に近づいてみたが、手が震えて触れることができなかった。


「こたさん、僕は普段、こういう話は信じないんですが……」


 安田は声を落として言った。


「でも、今回のことは、何かが違うんです。あの帽子、あの子供の声、それに……あの影も。もし、ひよりちゃんが何かを伝えたいとして、それが本当だとしたら。いくら幸子のことが好きでも、もうここにはいられない」


 野々村は安田の言葉に頷きながら、彼の顔を見た。いつもの冷静さを欠いた安田の表情は、恐怖に満ちていた。


「僕たち、本当に大丈夫なんでしょうか?」


 安田はさらに付け加えた。


「このまま、僕らで捜査を続けて、何かが起こったら……」


 野々村は、ブランコの座板に足をかけ、そこに残された「メビウスの環」の形をした小さな靴跡を見つめていた。彼は、この靴跡が戸丸谷公園に残されたものと同じであることを確信し、無限の意味を理解したような気がした。それは、ひよりが怨霊となり、二十年の時を経てもなお、この場所を呪い続けているのだと。


 野々村の指が帽子に触れた瞬間、耳元を冷たい風が吹き抜けた。彼は迷いなく、帽子を手に取り、優しい声で囁いた。


「ひよりちゃんがこの世に残したいメッセージは何?」


 けれど、返事はなかった。彼は再び声をかけた。


「聞いてるかい。この世に未練があるなら、その想いを教えてくれる?」


 突然、響き渡る子供の笑い声が静寂を切り裂いて、園内を支配した。それは、かつてこの幼稚園で響いていた無邪気な喜びの声だった。しかし、その声は今、不気味なほど場違いに感じられた。風に乗り、ささやかながらもはっきりと聞こえてきた。


「おいでおいで、ここにいるよ」と伝えたかのように、野々村たちを園庭の奥深くへと誘うようだった。過去と現在、そしてこの世と黄泉の国を繋ぐかのような、不思議な響きを持っていた。


 彼らは、その声に導かれるまま、園庭のさらに奥へと足を進めた。そこには、彼女の記憶が色濃く残る場所があるのかもしれない。


 もう一度、野々村は声の方向を見つめた。そこには何もないはずの空間に、ぼんやりとした人影が……。それは、ひよりの霊ではないかと、心の中で確信した。ところが、その影はすぐに消え、再び園内は沈黙に包まれた。


 安田は震える声で言った。


「もう帰りましょう。ここにはもう何も残っていません。ただの静寂に包まれた、空虚な幼稚園です。怖くて仕方ありません」


「馬鹿野郎! ここは、お前が愛する幸子さんの幼稚園だろ」


 野々村は動じなかった。


 彼は、この場所にはまだ解決すべき謎があると感じていた。そして、幸子は野々村に助けを求めるような眼差しで見つめていた。


 野々村と安田は幼稚園内をさらに探索し続けた。彼らはこの園に隠された秘密を解き明かすことができるのだろうか。それとも、ひよりの霊が彼らに何かを伝えたいのか。その答えは、まだ闇の中に隠されている。


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