春の長雨

犀川 よう

春の長雨

 本当はただ、夢の中でわたしの涙という雨音を聴いていただけなのかもしれない。


 夢の途中で目を覚ましたようだ。どこか懐かしくて、悲しくて、それでいて優しい夢を見ていた気もする。瞼を閉じて思い出そうとしても戻れない。さっきまで鮮やかな記憶だったはずなのに、もう何も振り返ることができないのだ。「ごめんね」を言いたくて言えなかった、そんな苦しい気持ちだけがわたしの胸に詰まっている。


 週末前の夜。どうやら、疲れて寝てしまったらしい。傍にいるのは愛する妖精たち。大きな方は瞼を少しだけピクピクとさせながら静かな寝息を立てている。小さな方は幸せな夢の中にいるようで、口元に微笑みと一緒によだれと零している。そっとティシュ箱に手を伸ばし、拭いてやる。彼女たちの眼元と唇を見て、わたしたち二人の軌跡が浮かんできた。わたしと、今はいない、夫。


 外は雨が降っている。雨音が鼓動の様に規則的な音を立てている。それ以外には静かで寂しい春の夜。


 こんな時に限って思い浮かべてしまうのは、アイツのこと。何もなかったクセに、何の手も出してこなかったのに、わたしの心の中にだけはするりと入ってきてはわたしを弄ぶアイツ。振り回しているのはわたしの方であるはずなのに、色男のアイツの笑顔がわたしの惑う心を掴んで離さない。そういうとこだけは強引なのだ。


 週末には夫が帰ってくる。わたしはアイツを消してから、帰ってくる夫にどんな表情で迎えてあげようかと考えてみた。すぐにイメージできたのは、責め口調の表情のわたし。――こんなに大変な思いをさせておいて――。ううん、そんなんじゃない。妖精たちのお世話はわたしの仕事。そんなことに文句を言いたいのではない。もっと心の底に、胸の中に留まっている気持ちがある筈だ。


 月日は巡っても変わらぬ想いがある。夫への愛情と、この春の夜に降る雨のように、誰にも祝福されないアイツへの生温い気持ち。


 夫だけがいればいいのに。夫の手だけを繋いでいればいいのに、わたしはどこに向かって手を伸ばしているのだろう。瞼を閉じて思い出そうとしてはいけない記憶。甘く、優しく、意地悪なアイツ。


 アイツのことをわたしの情念に彷徨わせている夫が悪い。深いため息を部屋の宙に向かって漏らしてからスマホを手にする。誰に会おうとしているのか。わたしは画面をスワイプする手をとめた。必死に夫との思い出たちを搔き集めながら、笑顔で「お帰りなさい」と呟いた。返事はやまない雨の音と妖精たちの寝息だけ。――夫よ。早くわたしを抱き寄せて離さないでほしい。そうでないとわたしは――。


 窓に向かって乱暴に叩きつけられている春の長雨。妖精たちを起こさぬよう、そっとカーテンを開けて外を見てみる。胸がとても絞めつけられた。窓に映っているのは、雨で歪んだわたしの顔と、遠くにいる――。

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