諦念と決意

 さらに時が経った。状況は変わらない。


 真理ちゃんには駅で、会社近くのコンビニで、事務所内で声をかけるが全て無視される。周囲もその光景に慣れたのか、当初は好奇の目だったものが「まだ諦めていないのか」という呆れを含んだ質のものに変わりつつある。平たく言えば、俺は職場で完全に痛い奴扱いされている。


 なかなかの屈辱だ。ホスト時代にこんな目に遭わされたことはない。


 あの時は嫌われたら「じゃあ、あなたは今後お店に来なくていいですから」と突っぱねてしまえばそれで良かった。何だかんだ、あの世界はホストの方が強い。昔から気に入らない客は容赦なく切っていった。だからこそ、ある種の健全さで仕事が長続きしたのだと思う。


 だが、今回は状況が違う。揉めた相手は依然として職場にいて、悪口でも広めているのか俺の評判はどんどん下がっている。理不尽過ぎる。


 なぜだ? 俺は自分からクレーマーに応対したり、他の派遣社員が犯したヘマをカバーしてきた。無能な正社員よりも俺の方がずっと貢献しているはずだ。それなのに、ただシングルマザーというだけの理由で、なぜ真理ちゃんの方が重宝がられるのかが分からない。上司は弱みでも握られているのか?


 いや、嫌なら辞めればいいというのは理屈では分かる。だがこれは理屈の問題じゃない。プライドの問題だ。俺がどれだけチームに貢献していても、ただかわいくてかわいそうなシンママというだけの女になぜ俺が追い出されないといけないのか――そう考えると、死んでもこのまま職場を去ることはしたくなかった。たとえ時給が下がったとしてもだ。


 もはやかつて真理ちゃんに感じていた友情や恋心めいたものはすっかり消え去っていた。気付けば「あのクソ女」と言っている自分が怖い。ある意味慈善事業をやっていて良かった。そうでもしていないと、俺は真理ちゃんをどう潰すかに人生の貴重な時間を費やしていたところだろう。


 この日、俺にとって決定的な出来事が起こった。


 休憩時間の廊下。いつもの通り、真理ちゃんとすれ違った。


 その時に誰にでも聞こえるように「お疲れ様で~す」と愛想良く言った。おそらくここ最近では一番親しみと愛情がこもったものだ。


 真理ちゃんはおっかない目つきのまま、無言でリノリウムの床を見つめながら歩き去っていった。


 ――ブチッ。


 ――あ、もういいです。


 俺の中で何かが切れた。後から考えるに、この瞬間に俺は彼女を完全に諦めたのだと思う。


 もうどうあがいても真理ちゃんとの関係修復は不可能だ。俺の中にいる、もっと冷静な俺がそのような決断を下した。この判定はどう足掻いても覆らない。


 休憩室へ行くと、梨乃ちゃんにLINEのメッセージを打つ。


「梨乃ちゃん、今までありがとう。もう真理さんとの関係修復は無理だと判断しました。もう彼女から情報は集めてもらわないで大丈夫です。今まで色々とやってくれたのに申し訳ない」


 それだけ打つと、自販機でコーヒーのブラックを買った。呑むとコーヒーの心地よい成分が脳内で広がっていくのが分かった。


 もう俺は真理ちゃんとは関わらない。残念だが、そう判断せざるを得ない。


「ずっと分かっていたんだ」


 誰にともなく呟く。


 そう、ずっと分かっていたんだ。


 ――俺たちは、あの時からとっくに終わっていたんだ。

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