エージェント梨乃ちゃん

 銃撃の夜から一夜明けた。当然かもしれないが、あまり良くは眠れなかった。体が重く、眠れないのに布団からは出たくないという厄介な状態だった。


 あいにく病んでいるヒマもなければ金銭的な余裕もない。それが幸か不幸か分からないところだが、出勤はした。


 満員電車に揺られながら、窓に映る自分の顔を見つめる。シケた顔。そんなことはどうでもいい。


 ……あれは真理ちゃんだったのか。いや、そんなはずがない。だが、どう見ても彼女にしか見えなかった。だとすれば動機は? 銃の入手経路は? トカレフを中国人マフィアからでも買ったのか?


 バカバカしい。シンママにそんなコネクションがあるはずもない。だが、考えても仕方のないことが延々と脳内を回っていく。


   ◆


 職場に着いた。今日も変わらず電話業務。慣れたとはいえ、昨日の事件もあり気が重い。


 席に着いてパソコンのスイッチを入れる。物思いに耽る。パソコンが立ち上がっても、俺が立ち上がっていない。ここにレフリーがいたらカウントを始めているところだろう。


 梨乃ちゃんが来た。軽く挨拶を交わす。一瞬だけ見せた微妙な顔。ごまかすように笑顔へと変える。何か、含みを感じた。梨乃ちゃんは手を振ると、自分の席へ着いた。あと少しで受電が始まる。のんびりと話している時間はない。


 もう少しすると真理ちゃんが来た。良かった。昨日の人物がどうこうと言うより、単に彼女がいつも通り出社してきたことに安心した。


 手を振る。無視。相変わらず冷たい眼でこちらを見ている。何なんだ。一体何をそんなに怒っているんだ。安堵と怒りが共存する妙な感情。ひとまずここで堂々と撃たれることはないだろう。願望も含めてだが。


 電話が鳴りはじめる。ひとまず怒っている場合ではない。余計なことを考えていれば、またクレーマーの餌食になる。


 ここの仕事は弱肉強食だ。コールセンターでクレーム対応はセットメニューのようなものだが、クレームを上手く捌けないオペレーターは精神を病むか、契約を切られるかで去っていく運命にある。


 先日はベテランのオペレーターがクレーマーの罵詈雑言に耐えかね、暴言を吐いた末にさようならとなった。おそらく長年喰らい続けた罵詈雑言が、たまたま先日閾値を超えただけなのだろう。


 本人はやることをやって退場になったから満足だろうが、その場に残された俺たちにとってはなかなかのトラウマ案件となった。人が限界を突破するとどうなるのかを検証するタチの悪い実験を見せられているみたいだった。


 ネットで変な噂でも流れたのか、かかってくる電話はより一層意地の悪い内容になってきている。もしかしたら5ちゃんねるあたりで音声でも曝されているのかもしれないが、それを確認するほどの図太さはない。


 本日も電話を一本一本取り続ける。内容は相変わらず補助金申請のやり方、不備案内、あとは諸々の――主に厄介な――質問に答えていく。


 感謝されることもあれば、ここぞとばかりに罵倒されることもある。いや、実際には後者の方がずっと多い。補助金申請をする人間は大体精神的な余裕がない。だからろくでもない発想をろくでもない理屈で暴言へとコンバージョンする。まるで新薬が開発されても進化し続けるウイルスのようだ。


 幸か不幸か俺は昨日の夜に色々とあり過ぎたせいで、クレーマーから何を言われようが気にしている場合ではなかった。心ここにあらずだが、少なくとも傷付くことはない。


 明らかに精神面は手負いの状態だったが、午前中の受電が終わった。これから昼飯だ。


 食堂へ。今日は梨乃ちゃんも真理ちゃんも同じ時間帯の休憩時間だ。これが俺にとって救いになるか否かは極めて怪しいところだが。


 昨日のうちに梨乃ちゃんにはLINEを送っておいた。「詳細は分からないけど、真理さんが俺に怒っているせいで会話が成立しないので助けてほしい」という内容だ。


はじめこそ驚いていた梨乃ちゃんだが、何やら思い当たる節でもあったのか――それとも社内で噂にでもなっているのか――休憩時間で真理ちゃんとの間に立ってもらえることになった。そうでもしないと俺たちの関係回復は難しそうだった。


 食堂に梨乃ちゃんが来る。手を振ってこちらへ呼んだ。梨乃ちゃんがちゃんと返事をしてくれるというだけでだいぶ救われた。


「昨日のLINEって本当ですか?」


 開口一番ずっと抱えていたであろう疑問を口にする梨乃ちゃん。たしかに普通に考えれば、心優しきシングルマザーの真理ちゃんがそのような対応をするとは考えがたい。


 俺は率直に現状を答えることにした。


「正直なところ、俺にも全然分からないんだ。なんで彼女がそんな態度を取るのか……」


 そこまで言いかけたところで、当の真理ちゃんが食堂に入ってきた。梨乃ちゃんが手を振る。真理ちゃんが笑顔で手を振り返す。


 俺も敬礼みたいに右手を上げて挨拶する。安定の無視。真理ちゃんの表情が暗く、表情が無くなる。根暗のスーパーサイヤ人みたいだった。分かってはいたことだったが、いざ実際にそれをされるとテンションが下がった。


「梨乃ちゃん、一緒に食べよう」


 そう言って真理ちゃんは離れた別の席に着席する。「俺も」と言いかけたところで、強烈な視線で睨まれた。梨乃ちゃんと顔を見合わせる。苦笑い――いや、実際にそうやって笑うしかなかった。


 梨乃ちゃんは目で「任せて」という風に合図をすると、真理ちゃんの席へと移動していった。関係修復を目論んだのに、まさかのお一人様アゲイン。


 周囲のオッサンたちがチラチラと視線を送ってくる。同僚のゴシップネタはさぞ楽しいに違いない。「殺すぞ」と吐き出したくなるのをこらえつつ定食を口にする。状況が状況なだけに、不味さには拍車がかかっている。


 状況は変わらないものの、梨乃ちゃんと現状を共有することは出来た。それは収穫と言って良かっただろう。ちょっとは前向きに物事を考えよう。そうでもしないとやっていられない。


 ホスト時代は客とケンカすると、場合によっては仲直りのために客の家を訪問することもあった。そうやって本気(風)を見せて関係を修復するためだ。客も客で潜在的にはそんなドラマチックな展開を望んでいる部分がある。


 実際問題、夜の街まで来る女はそういうことをやって楽しむ傾向がある。大概の場合、「もう来ないで」は逆の意味を示す。ダチョウ倶楽部と同じだ。


だが、それをここでやれば即座にストーカーと見なされてブタ箱行きになるだろう。そんな社会的に信用を失う事件を起こせば、稼げない本業の方も終わる。今の俺にはそれが致命的なダメージになる。それだけは避けなければいけない。


 今は梨乃ちゃんに任せよう。付き合う付き合わない以前に、仲間とこんな状態でいるのを放置するのはよろしくない。お互いにとって。


 しかし、やはり昨日銃撃してきた女は真理ちゃんじゃないのか。真夜中に堂々と発砲してきたあの女。暗い、暗い眼をした女。


どう見ても真理ちゃんにしか見えなかったが、他人のそら似か。それとも俺の被害妄想が生み出しただけの幻覚なのか。銃撃してきたのが真理ちゃんであれば、俺たちが恋人になるのは難しいだろう。


 だが、仮に他人のそら似だったとして、それならあの女は何だったんだ。いずれにしても、真理ちゃんとの関係が修復しないとどうしようもない気がした。まあいい。どうせそう時間はかからないだろうから。今は梨乃ちゃんに任せよう。


 俺たちの関係が修復すれば、この不味い定食も旨く感じられるはずだ。

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