第3章/白き神官 第2話/大神官の千里眼

   一


「本陣は前線の近くに置くべし───これは軍隊の真理ですなあ」

 まるで唄うように呟きながら、小柄な老人が宰相とアサドの前に、ひょこひょこと歩み出た。

 頭髪を剃り上げた頭。

 太陽神シャムスを象徴するしょうを刺繍した、平たい帽子。

 長い眉毛と口髭を蓄えた、深い皺の刻まれた顔。

 ゆったりした純白の長衣を、その身にまとっている。


「誰だ! ……おお、こ、これは大神官様! お見苦しいところを…」

 怒鳴ろうとした宰相の声が、急にとぎれる。

 それどころか、声に改畏まった調子を加えた。

 大神官と呼ばれた小柄な老人は、ミアトに歩み寄ると、いきなりポンポンとその頭を小突いた。

「相変わらず口が悪いのう、ミアト」

「ワディ! あんたまだ生きてたのか? とっくにあの世へ行っちゃったと思ってたぜ」

 嬉しそうに笑うミアトの、バラ色の頬がさらに赤みを増す。

 再会に興奮しているのだ。


「こ、小僧ッ! 太陽神殿の大神官様に、失礼であろう!」

 いきりたつ宰相を制するように、ワディと呼ばれた老人は、白い口髭をしごいた。

「まあまあ、かの者とは昔から、なにかと縁がございますゆえ」

 ワディ大神官の、孫を慈しむかのような目に、宰相の混乱はさらに増した。

 もともと、権威に弱い人間であろう宰相にとって、宗教的権威を纏う大神官の介入は、予想外の展開だった。

「だ…大神官様、この者をご存じで?」

「ご存じも何も、わしゃミアトの名付け親じゃよ」


 きょとんとした目を向ける宰相を一瞥すると、ワディ大神官は砕けた口調で語った。

 孫をあやすように、ミアトの頭を撫でている。

 名付け親、つまりこの大神官と傭兵部隊に不似合いな小僧は、生まれたときからの付き合いということである。

 なぜこのような者と、大神官が? 宰相の混乱は、さらに深まった。

 大神官が、下賤の者の名付け親となることは、ほぼない。

 その地域の神官ならともかく、大神官ははるかに高位の存在である。

 ひょっとしてこの小僧は、実は高貴な生まれなのか? 宰相の混乱も、当然である。



   二


 ひとしきりミアトの頭をなでると、ワディ大神官はアサドの方に向き直った。

 フサフサと長い眉毛の下から、一瞬ジッとアサドを見つめると、突然大きな笑い声をあげる。

「ふぉふぉ、ふぉふぉ、ふぉ、おまえさんも相変わらず根無し草の傭兵暮らしか、のうアサドよ?」

「未だ安住の地を得られず、お恥ずかしい限りでございます、ワディ大神官殿」

 アサドは大神官に接するときの礼法──右手を胸に当て片膝を軽く屈し会釈するポーズで答えた。


 ざわめきが、大広間に広がった。

 中原とはいえ、しょせん東方辺境と接している小国ウルクルでは、太陽神殿に高位の神官はいない。

 小神官と平の神官が、神殿に常駐するのみである。

 中原の旧ナザブ朝の王都であったヴィラードの、太陽神殿総本山から数年に一度、高位の神官が地方の神殿を巡幸するのである。

 商業都市とはいえウルクルの民も、世俗の王と同等かそれ以上の敬意を、神官には払う。


 いわんや大神官は、教皇の下で太陽神殿を支える、わずか七人しかいない、権威中の権威である。

 今日ここで、生まれて初めてその姿を見た人間が、大半である。

 滅多に巡幸しない太陽神殿の大神官は、ウルクルなどは十年に一回も来ない。

 サウド副官が、瀝青の丘で

 大神官が、アサドと懇意にしているという事実。

 権力にべったりの宰相には、効果覿面てきめんであった。


 宰相は手にした鞭をあわてて背後に隠し、冷や汗を浮かべながら後ずさった。

「戦さの時は、できるだけ前線に出てみるものじゃ。さすれば戦いの実状が、良くわかる。後方の城でふんぞり返っていては、千変万化する戦場の真実など見えぬ。ましてや、前線の兵の苦しみなどわかろうはずもあるまい。のう? 宰相殿」

「は、それは…そのぉ」

 後ろに下がった宰相を、逃さず詰めていく。



   三


 ワディ大神官の言は、聖職者らしい口調だが、そこには強烈な毒が含まれている。

 口調が穏やかなだけに、逆に怖い。

「ここは実際に、前線にいた者に訊くのが良かろうな。お主らどうじゃ?」

「…は、いえ…あの…」

 不意の質問に、ワディ大神官から指名された将校は口ごもった。

 不用意なことを言っては自分の身が危ない。


「なるほどなるほど、戦況がわかる位置にすらおらなんだようじゃのう。そちらの立派な甲冑の御仁、そなたはご存じか?」

「う……………あ、や」

 口を開け、だが言葉が出てこない。

 ふと、何かを思い出したように、大神官がつぶやいた。

「そういえばそなた、敵の流れ矢を二本も尻に喰らっておったな。尻…か、武人としては逃げ傷の上に、ずいぶんと恥ずかしい場所じゃな」


「う…まことに、お恥ずかしい限りで、その。大神官におかれましては、千里眼のごとき聡明さ、汗顔の至りにて───」

 なんとかその場をごまかそうとするように、頭の中で言い訳を考えながら、だが良い答えも出ず。自分の失態を指摘された将校は、うつむいた。

 耳まで真っ赤に染まった顔が、痛々しい。


 この大神官は、どこかで今日の戦を見ていたのだ。

 大広間に、なんとも言えない緊張感が満ち始めた。

 もし事実と異なる報告をすれば、たちまちの内に見透かされてしまう…将校の背中を冷や汗が流れ落ちる。

 余計なことを言ってさらに立場を悪くしなくて良かったという思いだけが、将校に臀部の矢傷の痛みを忘れさせた。



    四


「そちらの姫君はどうかね? 戦車も転倒し、だいぶ苦戦しておられたようだがのう」

 大神官の柔和な眼がファラシャトに向けられた。

 自分のことまで、この大神官は、知っているのだ。

 戦場に兵士として従軍しても、ここまで広く、状況把握は出来ない。

 まさか本当に、千里眼の魔鏡でも有しているかのような、不気味な大神官である。


 ファラシャトは、チラリとヴィリヤー軍師に視線を送ってから、諦めたように答えた。

「………アサドが敵軍からとって返したのは、右翼の陣がこれ以上壊滅的な損害をかぶらないようにとの配慮でしょう。彼のおかげで、何とか我々近衛隊は陣形を整え、退却に成功しました…」

「ふむ、そうかそうか」

 目を細めてうなずく大神官は、さらにファラシャトの意表を突く問いを発した。

「して、その退却の時の殿しんがりは誰が務めたのかな?」


 殿とは、軍隊が退却するときに最後尾に位置し、追ってくる敵軍を防ぐ役のことである。

 嵩にかかって追撃してくる敵軍を、防ぎながら退却戦である。戦死の危険性も高く、最も難しい任務である。よほど信頼する部下でないと、頼めない役割である。

「それも彼が──アサドと傭兵農民混成の部隊が、引き受けました」

 ファラシャトはそう言って、視線を下に逸らした。


「どうやら、わしの見聞と一致する意見が、出たようじゃの」

 大神官は長い眉毛の下で眼を細めて、ファラシャトに笑いかけた。

 だが、ファラシャトにとっては、瀝青の丘でクトルブに出くわしたときよりも、恐ろしい笑みであった。この不気味な老人に戦慄するしかない。

「殿は陣の最後尾にあって、敵の攻撃を食い止めつつ退却するという、一番危険で難しい役目とも聞く。それをアサド殿は、御自ら引き受けたわけじゃのう。なんと勇猛な!」

 ワディ大神官は、驚嘆と称賛が入り交じった声をあげた。


 どこか、芝居がかったわざとらしい響きが混じっているのだが、その場の面々にはかなり威圧的に聞こえるようだ。

 なにしろ、太守さえ敬語を使う存在である。

 迂闊に異議など挟めない。

 いや、たとえ挟んだとしても、この聡明極まりない、だがどこから戦闘を観察していたか不明な老人に、たちまち論破されて恥をかくだけであろう。


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■第3章/白き神官 第2話/大神官の千里眼/終わり■

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